今や森は、嵐のようだった。
トロルに見つかってしまった僕を助けようと飛び込んできたキーリを皮切りに、トーリンたちが一斉に斬りかかっていく。
トロルに投げつけられ、倒れ込んだ僕の脇をドワーフの皆が突風のように駆けていった。
強い力で引き上げられる。
見上げれば、が僕の手を取って立ち上がらせてくれていた。
一瞬、驚いてしまう。
大きい人で、確かに彼女は僕よりずっと背が高い。けれど女の子だ。柔らかなその手が、こんなに力強いだなんて。
そのまま離れた片手はこちらを庇うようにしながら、利き手に短剣を抜いている。僕はこの時初めて、彼女が剣を手にしているのを見た。
「ビルボさん、下がりましょう!」
言って、この場を退こうとする。
けれど、僕は捕まっている馬たちを解放しなければならない。
説明するのも惜しく、に馬たちの方を指してみせる。
理解したのか彼女が肯くのを見てから、トロルの刃を拝借し馬が繋がれている囲いのロープを切りにかかった。
は短剣を手にしたまま、傍で事態を見守っている。……ロープが切れた!
その時、「ビルボさん!」と彼女が叫んだ。
馬たちが逃げ出したのに気付いたトロルが、こちらに向かってきていた。
僕の前方に立つ彼女はいくら大きい人と言っても、トロル相手では僕とそう大差ない。
けれど驚いたことに、は逃げることをしなかった。
「一、二、三!」
はっきりとした声とリズムで、はトロルの手を斬りつけた。
向こうも怯んだ様子で一度手を引っ込める。それでもすぐさま、トロルはこちらを睨みつけてきた。
太い腕を振りかぶるのを、彼女はどうにか避ける。……僕がその場で見たのはそこまでだった。
気が付けば、高いところに持ち上げられている。
トロルに僕は再び捕えられて、人質にされてしまう。
ドワーフの皆、そしての動きが止まる。……トーリンが一番に武器を捨て、誰もがそれに倣っていた。
ああ、なんてことだろう!
やっぱり自分に、忍びの者なんて役目は分不相応なんだ。
だから言ったのに、という気持ちでいっぱいだった。
けれど、その役目に大抜擢してくれた当の魔法使いは今、ここにはいない。
昼間のうちに、トーリンと何か言い合った後に姿を消してから、彼はまだ戻ってきていなかった。
ガンダルフが、帰ってきてくれたら。僕は心の中で目を瞑った。
(トロルって、喋れるんだ……)
それが、率直な感想だった。
ロードオブザリングで、モリアで戦った時に出くわしたトロルは奇声を上げるばかりで、言葉らしいものを発することはなかったので。
それに、あの場面にわたしは立ち会っていない。
「予行演習」のために場面を飛ばしてしまっていたから、わたしにはあの時の戦いの記憶がなかった。
すぐに、意識は「今」に引き戻される。
焚き火の辺りで、ドワーフのうちの何人かが括り付けられて、火で炙られそうになっている。
他の皆は歯噛みの表情でそれを見ているけれど、どうにもできない、という状況だった。
拘束されて、何が入っていたのかも分からない袋に詰められて顔だけ出した格好だ。もちろんわたしも。
袋からは土と埃と黴臭い匂いがして大層不快だったけれど、それどころじゃない。
(出発早々、旅が終わりそうなんですけど……)
わたしも皆と同じように転がされている状態だった。
首を持ち上げてみれば、トロルが括ったドワーフ何人かを炎の上でグルグル回しながら「ゼリーにして食った方が早い」だの「スパイスは諦めろ」だのと話している。
意外とグルメだなと思っていると、彼らは「夜明けが近い、早いとこ済まそう」などと口にするのが聞こえた。
「石に変身するのはごめんだ」と。
――。
ビルボさんが出し抜けに声を上げて、袋に詰められたまま跳ねてトロルの前に飛び出していく。
けれど、こんな状況にも拘らず、わたしの心は別のところに滑り込んでいる。
ロードオブザリングの最初の方、老いたビルボさんの誕生日のお祝いの場面が思い浮かんだ。
パーティーの中で、彼がシャイアの子供達に話して聞かせる昔話。三人の恐ろしいトロルの前に引き据えられ、料理の仕方で揉め始めたという流れ。
そうこうしているうちにやって来た夜明け、陽の光が差し込んだ途端に三人揃って石に変わったと話す、老いたビルボさんの姿が頭の中にあった。
それって言うのは、つまり――
「夜明けがお前たちの最期!」
ガンダルフさんの声が、辺りに響く。
離れた岩場に、魔法使いの長身があった。
その杖で足元の岩を突けば、魔法なのか物理なのか、一筋の線が入ってきれいに真っ二つに割れる。
その向こうから差した、眩しい朝の陽の光。
トロルたちが完全に石になるまで、十を数えるくらいしかなかったと思う。
助かった、ということが解ってドワーフの皆から歓声が上がる。
その中にいながら、わたしは今いるこの時代について改めて考えていた。
ガンダルフさんやトーリンさんたちは、トロルが使っていたらしい洞窟を捜索しに行っている。
その間、残った皆で出発の準備をしていた。
荷物をまとめるのを手伝っていると、「」、とビルボさんに呼びかけられた。
「はい?」
「その……あの時はありがとう。トロルから守ってくれて」
「…………ああ。えーと」
理解に、少し時間が掛かった。
何故ならお礼を言われるほど、彼を守れてもいなかったので。
習った通りに剣を振るのを実践したので、掛け声もつい練習の時と同じままを発していたし。
結局のところ、何にもなっていない。それが今の現状だった。
「でも結果的には、守れてませんでしたから……」
「そんなことないよ、かっこよかった!」
横からそう言ってくれたのは、ドワーフ一行の中でも年少に見える、パチンコで戦っていたドワーフだ。
名前を思い出そうとするより先に、もう一人が肯いてくれる。
頭に刺さったままの斧が揺れて心配になる、見た目のインパクト大のドワーフさん。えーと、ごめんなさい。どちら様でしたっけ。
ひとまず微笑み返しているところへ、ガンダルフさんが戻ってきた。「ビルボ」と彼に呼びかけ、何かを差し出してくる。
おずおずと受け取るも、ビルボさんはすぐにそれを返そうとする素振りを見せた。
「……必要ありません」
剣なんて使ったこともない。
その言葉通り、手渡されたのはどうやら武器らしい。トロルの洞窟で見つけたものだろうか。
彼は渋っていたけれど、ガンダルフさんはそれを諭すように笑んだ。使わず済めば一番だと。
「だがな、覚えておけ。……真の勇気は命を奪う時でなく助ける時に試されるのじゃ」
魔法使いのその笑い方には、見覚えがあった。
モリアで、フロドがゴラムの存在に気付いた時。あの時のガンダルフさんは、フロドにいくつかの助言を与えていた。
不安を抱くフロドに最後、勇気づける言葉を贈った時の微笑み。あの時のガンダルフさんとそっくりそのままの優しい笑顔が、確かにそこにある。
「ビルボさん」、
わたしは彼に呼び掛けた。
こちらを振り向くそのホビットさんへ、続けて言った。
「わたしも一年前までは、剣なんて触ったこともなかったんです」
「…………」
ビルボさんの視線が、ほんの一瞬下に落ちる。
今は鞘に戻して、腰に差してある短剣。そこからすぐに目が上向いた。
まだ微かに戸惑うような色を残していたけれど、大丈夫だと思った。
「役に立つと思います。それ」
「……そうかな?」
「実際、丸腰よりよくないですか?」
「……うん。そうかもね」
言いながらも、おっかなびっくりといった感じで渡された剣を抜く。
土で少し汚れてはいたけれど、刀身自体はきれいな銀色で輝いている。
スティング――フロドが譲り受けた、あの剣に間違いないと思う。だとしたら。
いろいろと、思うところはある。
今いるこの時代のこととか、思い当たる、指輪物語とはまた別の、もう一つの物語のこととか、まあいろいろと。
頭の中がグルグルしていた。
けれど、と思う。
……とにかく、ビルボさんなら大丈夫。彼が手にするべき武器だと、わたしはそう思った。
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