あたたかな湯気の立ち上る皿からは、とてもいい匂いがした。
差し出されたものを受け取ると、
「おかわりは一回までならOKだぜ、お嬢さん」
ピンと人差し指を立てながらそのドワーフさんが言う。なみなみと盛られた中身は、既に十分な量があった。
「……そんなに食べませんから、大丈夫ですよ」
「へえ、お嬢さんは大きい人だってのに、随分と小食だなあ」
まあ、欲しくなったら無くなる前に言ってくれよ。
そう言い残してひらひらと手を振り、他の人の元へ食事を配りに戻っていく。今の人は、確か、ボフールさんといっただろうか。
……一時に十三人もの名前を覚えるのは、流石に困難なことだった。
十三人、である。
裂け谷を発った時は、わたしとボロミアさんを除いて、八人の旅の仲間を覚えれば良かった。
ガンダルフさんを別にしてさえ、今回はそれをずっと遥かに凌ぐ数である。一日二日ではわたしには無理な話だ。
おまけに、名の読みもほとんどが似たり寄ったりにしか聞こえないときている。
わたしはほんの少しばかりげんなりした。
したけれど、軽く頭を振って考えるのをやめた。
まあ、どうにかなるだろう。以前の時だって、そう、裂け谷を出た時だって、気付けばいつの間にか皆の名を覚えていたのだから、今回もどうにかなるだろう。
じわりと手に伝わる熱に、やっとの事でわたしはスプーンを取り上げた。
冷たい食事にも慣れたとはいえ、やっぱり温かいものはありがたい。
そっと口に運んでみると、それは思っていたよりもずっと口当たり良く、そして何処か懐かしいような味がした。
夜が深みを増していた。
時々誰かが何がしかの用事を足すため席を立ち、代わる代わるに話をしながら時間が過ぎていく。
いつの間にかビルボさんの姿も見えなかった。何かするべき事があってのことだろうと、それを特に気にするでもない。
わたしが最後の一口を啜り終えて水を飲んでいると、
「殿」、と不意に名前を呼ばれた気がした。
見上げた先に、重々しくも深い色の目があった。
わたしは、この人の名を知っている。
ガンダルフさんに教えてもらった、多分、一番最初に名前を覚えたドワーフだ。
そして、一緒に教えてもらった、彼は山の下の王なのだと。
――なんて圧倒的な存在感なのだろう。
中つ国で今までに出会ったどの人ともまた違うその感覚に、一瞬返事をする事さえ忘れてしまいそうになる。
なったのだけれど、わたしはそれでも返事をした。
「あの……お呼びになりましたか」
「そなたは」
夜の底に響くような低い声が、静かに続いた。
「彼の国の出か?」
「…………?」
意味を図りかねて答えられずにいると、トーリンさんの目線が僅かに下に落ちた。
それを辿り、一瞬ハッとする。
思わず腰に差した短剣に触れかけ、ああそうかとやっとわたしは納得する。
本当は、特に慌てる必要もなかったのだけれども。
「その紋章には見覚えがある。記憶違いでなければ、だが」
「…………」
「違うか?」
一つ一つの言葉は短く、重く、けれど問いは明瞭だった。
「…………以前に、」
わたしはゆっくり口を開いた。
そう、以前に。或いは、 『 未来で 』 というべきか。
「少しの間だけ、ゴンドールに滞在していた事があります。その時に……お世話になった方から、借りたものなんです」
「そうか」
存外あっさりと、トーリンさんは肯いた。
彼としては些細な、そして単純な問いかけに過ぎなかったのだろう。
ドワーフの王たるその人物を前にしながら、けれどわたしの意識は一瞬、此処ではない別の時代の中つ国に滑り込んでいた。
白に輝く都、広がるペレンノール野にその先の山々、東に見える黒い影。背の高い後姿、陽の光に煌めく茶金髪、そしてその傍らにいた、もう一人の青い瞳の人…………。
会いたい。
会いたい。
――もう、会えない。
「では、いつかまた彼の国に戻るのか」
掛けられた声に、わたしは今という時間に引き戻される。
見れば、僅かに目を細めたその人が、いつもとは少し違った感じで此方を見下ろしていた。
「借りたとなれば、いつかはそれを返しに行くのだろう」
「……そうしたかったんですが」
わたしは一度だけ首を振った。続けた。
「貸してくださった人には、もう、会えませんから……」
そこまで言っただけで、ある程度は解釈してくれたのらしい(正しい解釈とはいかなかっただろうが)、ほんのわずかな間の後に
「すまない」、と短い言葉がぽつりと呟かれた。
小さく笑って、また首を振った。
そうしながら、わたしはこの時代のことを考えた。
ビルボさんに暦を訪ねた時は、今がいつなのかさっぱり判らなかった。
あれは、後から聞いたところによるとホビット庄暦という、彼らホビット達が使う年の数え方だったからだと分かった(日本でいうところの昭和や平成にあたるものなのだと、わたしは勝手に解釈することにした)。
こちらでのガンダルフさんに会った時、改めて訊ねて初めて、この時代が 『 あの年 』 から六十年も前である事を知った。
――滅茶苦茶にも、程があると思う。
何故、あの時から六十年も前なのだろう。今更「何故」というのを問う事自体、意味のないことではあるが。
無意識に頭を振りながら、今この時代のゴンドールはどうなっているのだろう、というのを思った。
思いながら、両手で顔を覆いたくなった。あの人達は、まだ生まれてもいない。
ふと濃くなった眼前の影に意識を戻せば、トーリンさんがすぐ傍にいた。
半端な位置で空中に静止していた手が、手持ち無沙汰のように引っ込められ、顔はそっぽを向いていた。
何か言葉らしいものでもその口からこぼれるのだろうかと思いながら見上げ続けていると、何事もなかったかのように踵を返し、わたしから離れていった。
……大きな手だ、と思った。背丈は、わたしよりも小さいのに。
あんなふうに大きな手を、何度か揶揄かうように頭を撫でていった手を、わたしは知っている。
急に無性に、あの手にまた触れたいと思った。そう出来たなら、どんなにか幸せな事だろう。他に、何も要らなかった。ただ、会って、その手に触れたい。
……ただそれだけの事が、今はもう、叶わない。
「伯父上!! ……トーリン!」
出し抜けに、声が響いた。
見れば、金髪の若いドワーフさんが独り、何処からか大急ぎで駆けてきたのらしい、何度か荒く息を吐きながらトーリンさんを呼んでいた。
確か、馬の世話を任せられていた内の一人だったと思う、名前は、そう、
「何事だ、フィーリ。馬はどうした、キーリは」
「トロルです! この近くにトロルが!!」
「何だと」
フィーリさんが言うのを聞いて、他の皆が俄かに色めき立つ。
「場所は」
「この先の向こうです、キーリ達も其処に」
短い説明を聞くと、仔馬達がトロルに盗まれたのだという。しかも相手は複数なのだと。
行くぞ、というトーリンさんのたった一言で、皆が武器を手に一斉に走り始める。
わたしは一瞬だけその一言を発した人を見た。
わたしはビルボさんのように特に魔法使いの推薦があったわけではない。足手まといだと撥ね付けられるだろうか。
けれどわたしは、彼らドワーフ達程でないにしても、今は何も出来ない人間ではないつもりだった。
刹那、立ち尽くしていたわたしをトーリンさんが振り返る。
何も言うことなく、ただ、来い、というような仕草で行く先を指し示した。
拒絶は、されなかった。
わたしはベルトに差した短剣の、剣首に触れた。ひやりとした温度が其処にある。
「行ってきます」
誰に言うでもなく呟いた声の音を残して、わたしは彼らの後を追い、夜の森を疾走した。
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