昔、キセルを見たことがある。
子どもの頃で、いくつだったかも覚えていない。
煙管と書くあれで、言葉の通り、細長い管になっているものだった。
時代劇に出てくるようなそれを、どういう経緯で目にしたのかは分からない。
家族のものか、あるいは、親戚の誰かのものか。それにしたって、そうそうその辺にあるようなものでもない。
もしかしたら現実に見たと思っているだけで、本当は夢で見たのかもしれない。その程度の、やや曖昧な記憶でしかなかった。
ただ、その独特の香りは覚えている。
しばらく使っていないような見た目だったけれど、染みついた匂いは遠い異国を思わせるような、初めて嗅ぐものだった。
料理のスパイスみたいな、鼻につくけれど何とも言えない不思議な感じ。
タバコは煙も匂いも心底苦手だったけれど、キセルの香りはそこまで嫌いではなかったように思う。
わたしはちらとそちらを見た。
パイプ草の煙が白く立ち昇っていく。休息の一時、ドワーフの何人かがその煙を楽しんでいるところだった。
ビルボさんはと言えば、旅に出てからこれまでの間、パイプを吹かしているのを今のところ一度も見ていない。
(大慌てで出てきたから、持ち物に入れてこなかったのかな……)
ふと、そんなことを思う。
傍にいるビルボさんは鞄の中身を整理しているところだった。ハンカチだって忘れてきたのだから、そうだとしても不思議ではない。
訊ねてみてもよかったけれど、何となくそうする気分でもなくて、わたしは黙って思案する。
袋小路屋敷では、玄関の外で、彼は時たま煙を嗜んでいた。
年齢を重ねた後のビルボさんが、ガンダルフさんと共にそうする姿が脳裏に浮かぶ。……何十年も後の話だ。
映画のパイプを吹かしている場面は、決して嫌いではなかった。
同時に、どんな香りなんだろうと少し想像したこともあった。……こんな香りなんだと、今は答え合わせをすることができる。
そうしてふと、ずっと昔に嗅いだことのある匂いを思い出していた。
考えてみれば、パイプもキセルも、素人目には形そのものもよく似ている。
香りも同じとまでは言わないけれど、何ともいえない独特な印象はほぼ一致するようだった。
「ビルボ、どうだい一緒に」
小馬の世話の当番を終えてきたらしいフィーリさんが、キーリさんを伴ってやってくる。
その腰に下げている袋を示してみせる。パイプ草の包みらしいものが覗いていた。
「ああ――」、と心が動いたような声で応じながら、けれどすぐに「また今度にするよ」、とビルボさんは小さく笑った。
フィーリさん達はわたしの方にも視線を投げかけてくれたけれど、勿論わたしもパスだ。
黙って笑って両の手で(結構です)とやって見せれば、彼らは気にした様子もなくドワーフの輪に入っていった。
「……ビルボさん、禁煙中ですか?」
もしパイプを忘れてきたのだとしても、彼らの好意に甘えれば煙を楽しめたのに。
何気なく言えば、すぐに「いいや」と返事が来る。
首を傾げれば、少しの間彼は黙ったままだった。本当に少しだった。言葉が続いた。
「……君は、煙が苦手だろう?」
「えっと……」
一瞬、考え込む。
ビルボさんに、それを言ったことが果たしてあっただろうか?
袋小路屋敷の世話になっていた頃は、居候の立場上言い出すのもどうかと思って、その辺は黙っていた。
思い巡らせても口にした記憶はなくて、わたしは率直に言った。
「……分かりますか?」
「分かるさ」
そう彼は言う。
まあ確かに、ビルボさんが庭先でパイプを吹かしている時、わたしは絶対外に出ようとはしなかった。
居間で煙を燻らせている時は、そそくさと寝室に戻ることが多かった。……バレバレと言えば、そうかもしれない。
「でも、ビルボさんは我慢しなくていいと思いますよ?」
「そうはいかないよ、だって――」
一度言葉が途切れる。
数拍の間の後に、彼はこう言った。
「だって、君を一人にするわけにはいかないよ」。
十を数えるくらいの間、お互いにお互いを見合ってしまった。
確かに、ビルボさんもパイプを楽しむのなら、わたしはその間だけ少しの距離を取りたい。
とはいえ、そうそう長い時間でもない筈だった。なのに、そんなところを彼は気にしてくれていたんだろうか。
わたしはビルボさんに笑ってみせた。
「ビルボさん優しいですね」
「…………」
「でも大丈夫ですよ? わたしのことは気にしなくていいですから!」
努めて明るくそう言うけれど、まだ彼は何ともいえない顔をしている。
わたしはもう少し、話を続けることにした。
「わたしが今まで一緒に旅をしていた人達も、何人かはパイプを嗜んでましたよ」
「……そうなのかい?」
「ええ」
話しながら、ガンダルフさんやアラゴルンさん達の顔が思い浮かぶ。
それに、メリーとピピン、ギムリさん辺りも。
頻繁とまでは言わないけれど、彼らが時たま煙を燻らせていたのを覚えている。
「旅の中だからこそ、ホッとする時間って大事だと思いますし。だから、我慢しないでくださいね」
「……そうだね。分かった、次からはそうするよ」
ようやくビルボさんはそう言って、小さく笑った。
その笑みを見つめ返しながら、わたしはあの人のことを思い返している。
(ボロミアさんは、煙が苦手なんだよね)
わたしの主はわたしと同じで、煙を好まない。
だからあの指輪の旅の中でも、わたしが一人きりになることは少なかった。常に近くに、あの人がいてくれた。
付き合いでパイプを吸うことはあっても、本当は苦手なのだと、誰にも言うなとこっそり教えてくれたのを、今でも覚えている。
誰にも言わない約束を、わたしは今なお守っていた。
わたしは小さな約束を守り続けるだろう。
これまでも、そしてこれからも。
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