器から伝わるぬくもりは、ほんのりと手のひらを温めてくれる。
わたしは両手でその熱を受け止めたまま、少しの間、スープの表面をただ見ていた。
そう長くもない時間だったと思う。
けれど、ビルボさんが
「もし嫌だったら、無理しなくていいんだよ」と口にする程度には、不自然な間だったかもしれない。
「好きじゃない食材があったらごめんよ。……それとも、食欲がないのかな」
「…………」
すぐには、どう答えたものか見当がつかない。
少しだけ考えて、
「自分でも、よく判らないんです」、正直なところを口にした。
「ヘンですよね、食欲があるのかないのか、自分でも判らないなんて。なんですけど……うーん、どうなんでしょうね」
あはは、と乾いた笑いがもれた。
袋小路屋敷で、ビルボさんが初めて用意してくれた食事だった。
まあまあ長く眠った後に食べるものだと考慮してか、見るからに優しいメニューだった。
野菜をくたくたになるまで煮込んだスープにパン、新鮮そうな果物。
たぶん、身体はお腹を空かせているのだと思う。それにも拘らず、どうにも箸、もといスプーンが進まない。
(本当だったら)と思う。
袋小路屋敷。あの、ホビット庄の中での始まりの場所。
ビルボさんとフロドが過ごした場所での時間。そして目の前のホビットさんとの食事は、夢のようだと思う。
何しろ、今のわたしは指輪物語のことをはっきりと思い出している。
この状況が夢のようでなくて、何だというのだろう(まあ、確かに夢は混じっていますけれども)。
僅かな沈黙。
その後に、ビルボさんは静かに言った。
「よっぽど大切な人だったんだね」と。
「君が、今まで一緒にいた人というのは」
「…………」
すぐには、答えることができない。
もちろん。……大切、いやいや、もっとずっとそれ以上の人だ。
目覚めて、ひとまずのお茶と共に話を聞いてもらったその内容。それを、ビルボさんは決して聞き流さずに覚えてくれていたようだ。
わたしは曖昧に微笑みのかけらを浮かべてみせた。上手くできていたかどうかは、判らないけれど。
以前、読んだことのある小説を思い出す。
指輪物語ではない、全く別のものだ。その中で主人公は、「大切な人を失う」という事態に直面してしまう。
主人公はショックを受けて、何を食べても味を感じることはなく、砂を噛むようだという描写がされていたのを覚えている。
今のわたしも、そのように感じるんだろうか?
決してボロミアさんを失ったわけではなかった、けれど、もう会えないだろうという点においては同じことだ。
もうあの人の隣に立つことは、きっとない。
もうあの人と言葉を交わすことは、きっとない。
もうあの人の体温に触れることは、きっとない。
スプーンで野菜のスープを一掬いして、口に運んでみる。
味は、ちゃんと感じられた。
塩こしょうの味付けに、野菜そのものの風味が鼻と口を抜ける。
普段だったら、抜群に(美味しい)と感じたに違いなかった。何も感じないわけでは決してない。
美味しいのだろうなあ、というのは分かる。……それなのに、美味しいと感じるところまでいくことがない。
わたしは自分が、思った以上に目の前の事態に呆然としていることを知った。
それこそ小説やドラマで、ショックを受けた人が何にも反応を示さなかったり、ただただ泣き続けたりといった場面が出てくることがある。
自分の場合は、こうなんだと思った。
じわじわと、内側からくる感じ。それというのも、仕方がない。だって、こんなに胸がすうすうして、空疎なのだから。
こんな心で、全てがいつも通りの自分でいられるわけがない。
いつか時間が解決してくれる。
よく言われる言葉だ。
さっき思い出した小説でだって、主人公に対してそんな言葉を掛けて慰める人がいた。
嘘だ。
よくもまあ、そんな台詞が言えたものだ。それだったら黙っていてくれた方がよっぽどマシだ。
もし仮に実際そうだとしたら、その人にとって失った相手は、結局それだけの存在だったに過ぎない。
少なくとも軽々しく言うような言葉ではない。そう思った。
何も後悔してはいない。
これで良かった、自分で選択した結果だから、これでいい。
そう思っているのは変わらない。
ただ、辛かった。
ボロミアさんのいない中つ国は、わたしにとって何の意味があるんだろう?
家を飛び出してきて、まだ何日も経っていない。
慌ただしく家の扉を閉めて駆け出したあの時、当然のようにもついてきた。
僕はとにかく一向に追いつくのに必死で、彼女に言われるまま一緒に走った。……彼女は、僕が目を覚ます前にガンダルフたちと話をつけていたらしい。
そうして今、いつの間にやら旅を共にしているという状況だ。
少し前からは考えられない。
は袋小路屋敷で目覚めてからずっと、元気があまりなかったのだから。
ドワーフ達と一緒の旅。……いつ帰れるかもわからない。それなのに、彼女もどういう経緯かついて来ている。
今からでも、どうにか僕の屋敷にを戻せないだろうか?
少なくとも、ホビット庄の外よりは安全なように思える。……考えるけれど、は大きい人だ。ずっと留守を守ってもらうのは現実的には困難だろう。
一体どうしたものだろうか? ……そもそも、どうしてこんなことになっているのか、未だに解せない。
「ビルボさん」
一人で思い巡らせていると、当の本人から声が掛かった。
は夕食の器を二つ掲げていた。僕と彼女の分らしい。
「この量で足りますか?」
「ああ、十分だよ。……ありがとう」
微笑むと、向こうも腰を下ろして静かに口に運び始める。
……屋敷にいた頃は、食欲もあまり無いようで心配したものだ。それに、笑うのも無理にしているようだった。
共に旅をしていたという誰かとは、相当辛い別れをしたんだろう。
僕は僕で、屋敷を出た今ではを守ることもままならない。今できることと言ったら、
「」
「はい?」
「美味しいかい」
「…………」
一瞬の間の後、彼女は言った。
「美味しいです」
湯気の立ち昇る器を手に、小さく笑ってそう応じてくれる。
僕に今できることといったら、せいぜい隣にいることくらいだ。
無理をしなくていいと思う。
少しずつでいいから、元の君に戻っていけばいいんじゃないかな。僕は、元の君がどんなふうかを、まだよく知らないけれど。
そうなったら、もう一度袋小路屋敷で一緒に食事をできたらいい。……そんな日がいつか来たらいいな。
僕は、そう思った。
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