ホビット庄を出て、初めて迎える夜だった。
手慣れた様子で夜営の準備を進めるドワーフ衆は、みんながみんな役目をこなしている。
その中でビルボさんは、何処か落ち着かなげにそわそわしていた。
わたしと彼は、「食事が終わった後の片付け」という役割を振り分けられている。だから今は、ゆっくりしていていい時間だった。
それにも拘らず、彼は休もうとするでもないままキョロキョロと辺りに視線を彷徨わせている。

そしてわたしは、ビルボさんの気持ちがそれなりに理解できた。
単純に、旅慣れしていないのだと思う。少なくとも、今はまだ。
わたし自身、九人の旅の仲間と一緒に過ごし始めた最初の頃は似た思いをした。たくさんの人数での共同生活は、それなりに気を遣うものだから。
今はぽっかりと空いた時間の最中で、逆に手持ち無沙汰なのが分かる。

――袋小路屋敷の主、ビルボさん。
指輪物語の頃のビルボさんとは違う。まだ若い時代の彼は、たぶん、これから幾つものことを成し遂げていくんだろう。
わたしはまだぼんやりとしか知らないけれど、それこそ、あのひとつの指輪を手に入れるだとか。別の物語の主人公となるんだろう。
でも今目の前にいるのは、そう呼ばれる以前の彼みたいに見える。

何しろ、「ハンカチを忘れた」と言って屋敷に戻ろうとしていたくらいだった。
(育ちのいいホビットさんだなあ)、くらいにわたしは思っただけだったけど、他のドワーフ達はどうだろう。
今朝方のことを思い出す。
まだビルボさんが目覚める前の早朝、ガンダルフさんや他のドワーフ達は揃って旅支度をしていた。
その時交わした会話では、ビルボさんは旅についてはこないだろうという見方をする向きもあった。
良くない言い方だけれど、中には蔑みの目で見るドワーフもいるのかもしれない。
わたしは少し、ビルボさんを窺ってみる。

陽はすっかり落ちていた。
食事の準備も終わって、丁度配膳をする頃合い。
ビルボさんは、差し出された器をみんなに配って歩き始めた。やることができて、正直ホッとしているみたいだった。
暗がりの中、焚き火の赤に照らされた顔にはいくらかの笑みがあって、わたしは少し安心する。

今、どんなにか、不安だろう。
そうぽつりと思う。わたしの場合は、常に隣にボロミアさんがいてくれた。
旅の仲間がいて、まだそうこちらを知らなくても、旅中でみんなそれなりに気遣ってくれた。
裂け谷を発つ頃には、自分の世界にも戻れるようになっていた。あらゆる面で恵まれていた。
……けれど、ビルボさんはそうではない。
わたしの視線を勘違いしたみたいで、ビルボさんが器を持ってやってくる。

「遅くなってごめんよ、
「いえ、……わたしも手伝いますね!」

笑って、差し出された器を近くにいたドワーフに譲る。
少しでも、彼の不安を和らげてあげられたら。……そんなふうに思う。
わたしには、この旅路に付き合うこれといった理由が今のところ見当たらない。袋小路屋敷に一人残されてもなあ、というのが正直なところだった。
そもそも、この旅路の目的や意味というものをまだよく知らないのだ。
いざとなったら、途中離脱だってしようと思えばできると思う。けれど……離脱する理由の方も、これといって今のところ無いのも事実だ。
だったら、――ビルボさんを少しでも助けよう。わたしはそう思いながら、彼を手伝うために立ち上がった。



夜が更けていく。
月明かりが煌々と辺りを照らしていて、夜の割に明るかった。
ほとんどが既に寝静まっていて、けれど、何人かは起きていた。不寝番が数人、その中にはガンダルフさんもいた。

わたしはといえば、目を閉じてはいたけれど、まだ起きていた。
夜営には、それなりにはもう慣れている。それでも、……ボロミアさんと離れて初めて過ごす、外での夜だった。
いろいろと考えているうちに、近くでもぞもぞと音が聞こえた。
見れば、ビルボさんもまた、未だに眠れないでいるらしい。

その彼と、目が合った。

ビルボさんは小さく笑むと、ちょいちょいと向こうを指差した。
何だろうと思って見ていれば、(一緒においで)というように目配せして毛布を抜け出し、肩を振って歩いていく。
ついて行けば、子馬達を繋いだ少しだけ離れた場所へと辿り着いた。そこで彼は
「内緒だよ」、と袖の下からリンゴを取り出してみせる。
自分を乗せてくれた子馬がちゃんと分かるらしく、その子に与えながらたてがみを撫でる。

「ほら、君の分だ」

言って、もう片方の袖から、わたしにももう一つ。
見返せば、片目を瞑ってウインクしてくれる。それがちゃんと様になっていて、かわいらしかった。
わたしはと言えば、そんな芸当はとてもできないので、大人しく笑って受け取ることにする。
ふと、(いい人だな)、と思う。
いや、いいホビットというべきかもだけど、まあとにかく。

彼を真似て、自分を乗せてくれた馬にリンゴを食べさせてあげる。
そうしながら、ビルボさんのことをほんの少し考えた。
わたしは、指輪物語の方の彼を知っている。
彼が「王の帰還」の最後にどうなるのかを観て、知っている。
……あの時間に至るまでに、一体、彼に何が起こるんだろう? 肝心の部分を、今のわたしは何も知らないでいる。

唐突に、奇怪な声がした。
遠くからだったけれど、聞き覚えがある。
ギョッとした様子でビルボさんはその方向を見やった。強張った顔でこちらを見て、すぐに不寝番のドワーフ達を振り返った。

「あれは何?」
「オークだ」
「オークって?」
「人喰い鬼。……恐ろしい連中だ」

そう教えてくれているのは、確か袋小路屋敷にやってきた中でわたしが初めて会った若いドワーフの二人だ。
彼らは短いながらもオークがどんな存在なのかを説いてくれた。
それを聞いてビルボさんは恐々と声の方向を見つめている。
ふとドワーフの二人を見れば、少しだけ互いに小さく笑い合っていた。見るに、ちょっとビルボさんを揶揄ったのかもしれない。
オークについては彼らの説明通りだったし、警戒するに越したことはない。
わたしは特に何も思わなかった。けれど、

「……何が面白いのだ」

重い、ひどく重たい声が響いた。
怒りをも含んだその言葉を発したのは、確かトーリンさんという人物だ。ガンダルフさんが「我らが頭領」だと紹介してくれたドワーフ。
つまり、リーダーなのだろう。
……そのトーリンさんが、若い二人を叱りつけ「何も知らぬくせに」と言い捨てた。

うわあ、と思った。
どうも、とっつきにくい性分のように思える。
それというのは食事を配った時にも思ったことだった。
順に器を配っていって、トーリンさんにもと彼の背後に近付いた時、彼は焚き火を使って何かを見ていた。
すぐに地図だと分かった。
わたしの知っている指輪物語で登場する地図とは違う。あれに比べれば大分簡素なものに思えた。
山の絵があって、周りに何かいろいろ書き込みがある。そして左の方に、方向を示すような左手の絵。
なんとなく、テキストで見たことのあるフレミングの左手の法則を連想する。

それはそうと、背後から声を掛けるのも失礼だろう。
そう思ってぐるりと回って正面から「あの」、と器を差し出そうとすれば、彼はあからさまに見られたくないといった様子で地図を折り畳んだ。
何も思わなかった。
……と言いたいけれど、そうでもない。ちょっとだけ、うわー、と思った。

思ったけれど、思っただけだ。
仲良しこよしになるためにこの旅についてきたのでもない。
わたしも彼が誰かをまだよく知らないし、向こうだってそのはずだ。
何か、あまりおおっぴらに見せるような地図でもなかったのかもしれない。……まあ、もう見ちゃいましたけど。
だから、まあ。それ以上何かを言うのも大人気ないですし。……それでいいんじゃないですか、お互いのために。

思っていると、バーリンさんがそっと叱りつけられた二人に慰めの言葉をかけた。
そして彼は、トーリンさんがどうしてオークを憎むのかを話してくれた。
彼の境遇も含めて、分かりやすく、明瞭に。
わたしがまだ知らない歴史が、まだ知らない人達の物語がそこにあった。
その間ずっとガンダルフさんは一言も発さないまま、ただパイプの煙を燻らせていた。





朝。
微睡みの中で、何かが聴こえるのが分かる。
誰かが歌を歌っている。……この歌詞を、わたしは知っている。この旋律を、わたしは知っている。

(ピピン……?)

頭の中で、思わず呟いた。
だってそれは、ピピンの歌う歌とそっくりだったから。
王の帰還の中盤、デネソール侯の前で歌っていたあの歌。
わたしは目を開いた。

ビルボさんが、近くにいた。
小さな声だった。けれど、……確かにそれを歌っているのはビルボさんだ。
わたしは身を起こしながら、ただ呆然と彼を見つめることしかできないでいる。
ふと、彼がこちらに気付いた。

「ああ、……起こしちゃったかな」
「その歌…………」

わたしは朝のあいさつもすっ飛ばして、片言のようにそれだけしか言えないでいる。

「僕が作詞したんだ。ちょっと、その……まだ自信はないんだけど」
「…………」

言葉が、出ない。
自分の中に溢れてくるのはきっと、分類するなら「嬉しい」の気持ちだ。
やっぱり、この時代とあの時代は繋がっている。繋がっているんだ。そう思うと胸がいっぱいになる。
わたしはどうにか顔を動かして笑った。上手く笑えていたかは、分からないけれど。

「その歌……、すごく好きです」
「……本当かい?」
「はい。……あの、もう少し聴いていたいです」

ダメですか?
そう言ってみれば、ビルボさんは少し照れくさそうに、けれど咳払いするとすぐに続きを歌い出した。
……ビルボさんを、少しでも手伝えれば。
そう思ったはずだった。
けれど実際のところ、わたしの方が彼に手助けされている。――今この歌に、どれだけわたしは救われているだろう。

わたしは半身を起こしたまま、目を閉じた。
心は、あの時代に向いていた。
ピピンがあの歌を歌う時、ボロミアさんとファラミアさんはどうしているだろう。……今のわたしに、それを知る術はない。
知らない世界と知る世界が、少しずつ混ざり合おうとしている気がした。
それを感じながら、わたしはしばらくビルボさんの歌をただジッと聴き続けていた。






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