あたたかい空間の中にわたしは居た。
目を開ければ、幾らか見慣れ始めた光景がそこに在る。
ひとつひとつのこじんまりとした室内、けれどそれは思いのほか奥へ奥へと続いていて、全貌を目にすればなるほど、屋敷の名に充分相応しいと思えるものだった。
そんな部屋のうちの一つで、わたしは独り、ベッドの上にただ転がっている。
暖炉の火が奥で焚かれていて、それはこの袋小路屋敷を暖かく守ってくれている。
しかしそれにも拘わらず、わたしの心は冷えていた。がらんとしていて、ひどく頼りなく、心許ない。
魂が抜け落ちたように、何もできなくなってしまったわけではない。
ごく普段通りに朝は目覚めて、食事をとり、やるべきことをする。会話をしたり、笑ったりする。
今まで生きてきた中で何度も繰り返してきたことと、同じことができる。
けれど、ただ、それだけだ。

屋敷の何処かから聞こえてくる物音。
それさえも何か遠くの出来事でしかなく、わたしはそのまま転がっていた。
少しでも身体を伸ばそうとすると、足がベッドから落ちてしまうので小さく丸まったままだった。
何しろベッドはホビットサイズで、わたしの身には小さすぎるので。
徐々に賑やかになっていく遠くの音――誰かと誰かの話し声も交じっている、今日は客人があるのだったろうか――にも、関心はほとんど沸き起こることもない。
何もない。何も。

「なあ、こいつは何処に運べば……、おっと」

そんなんだったので、わたしは見知らぬ誰かの声が近くで聞こえた時にもすぐには起き上がらなかった。
目だけではその方向を向くことができないので、ようやくのろのろと首を持ち上げる。
見れば、男の人(否、背格好や感じからすると、ドワーフだろうか)が二人、何故かテーブルを抱えて運んでいる途中、といった具合でいた。
その通りすがりにこちらに気付いたのらしい。この小さな空間には扉もなかった。
それにしても、ドワーフとは。このホビット庄では珍しいのではないだろうか。それに、見たところとても若いように思えるけれど。
ひとまず半身を起こしていると、

「やあ、こんなところに人間がいるとは思わなかった! ボギンズ殿の……奥方で?」

黒髪の、どこか笑顔が人懐こい感じがする方が気さくにそう訊ねてくる。
わたしは 「いえ」 、と二重の意味で頭を振った。
ビルボさんのことを言っているのだろうが、そんなんではないし、そもそも名字すら間違っている。まあ、とにかく。

「一時的に、ここでお世話になっている者です。……そのテーブル、どうするんですか?」
「ああ、そうだった! これから俺たちの仲間が来るんで、広間を片付けようと思ってこいつをどかしているんだが……何処にやればいいのかと」
「ああ……、えっと、じゃあわたしも、お手伝いします」
「それは助かる! どうぞよろしく」

これは、金髪の方が言ってくれた。
ビルボさんからそんな話は聞いていなかったが、急な来客の予定でも入ったのかな、という気持ちだった。
聞くところに寄れば、ホビットはもてなしが好きなようだったので。
何にしろそういうことならば、ビルボさんにも訊ねて、出来る手伝いごとくらいはこなしたい。何せ、自分は居候なのだから。
わたしはベッドから降り、そうっと立ち上がった。
天井は一応ぶつからないだけの高さはあるものの、わたしはいつもそうやって、頭を叩きつけないよう注意しなければならなかった。
部屋と部屋との継ぎ目は低く、これまでに二度も額を直撃させた後となっては、特に。



屋敷の中は、ドワーフでごった返していた。
ビルボさんも顔の広いホビットだなあと思いながらその当人を探そうとして、しかしわたしは別の人物の姿を見つけた。
息が止まった。
一瞬にして、自分がこの平和なホビット庄の袋小路屋敷ではなく、まったく別の何処かにいる錯覚に陥り、心臓が全身を揺さぶるように鳴り始めた。
多くのドワーフが周囲を行き交う中で、わたしはただ立ち尽くしている。

「ガンダルフさん……」

小さな呟きは、周りの喧騒に掻き消された。
その筈なのに、それが耳に届いたかのように、その灰色の魔法使いはこちらを捉えた。
何やら指折り辺りのドワーフ達を数えていたようだったのが、おや、というようにわたしを見て首を傾げる。
傍らを見やって、彼はこう言った。

「ビルボ。お前さん、いつの間に式を挙げた?」
「何ですって? ……ああ、いいえ! 彼女はそういうのではなくて……ちょっと待って! その葡萄酒は駄目だ、戻して!」

何やら頭を抱えながらビルボさんが叫んでいたけれど、わたしはまだ立ち尽くしていた。
どうやらガンダルフさんは、目の前の魔法使いは、わたしを知らないようだった。
――やっぱり、そうなんだ、と思う。
裂け谷で出会った、あの歳を重ねた様子の白髪のホビットさんと同じ名の人物が、目覚めた時には傍にいた。
まだ然程年老いてもいなくて、けれど、以前日記にも記したことのあるその名が、目の前のホビットと重なった時、まさかとは思っていた。
わたしは頭を知らず振っていた。ああ、これで確定だ。
ビルボさんが青くなってオタオタしているのを遠目に、わたしはやはり、立ち尽くしていた。
たくさんの誰かが周りにいながら、それでもわたしは独りだった。あの時間を過ごした中つ国を離れた時から、ずっと。



目の前のお茶からは、リンゴのような良い香りがした。
顔色が良くないと椅子に座らされ、ドワーフのひとりがカモミールティーを差し出してくれたので有難く受け取ったものだ。
一口をゆっくりと口の中に含んでいると、目の前でひらりと手を振られる。

「具合が悪いって? 平気かい?」

そう言って顔を覗き込んでくるのは帽子を被った、おさげ髪が(ほとんどのドワーフが少なからず三つ編みを施してはいるのだけれど)可愛い感じのドワーフさんだ。愛嬌のある顔立ち。
大丈夫だと答えると、しかし 「何か元気の出るモン食べた方がいいぜ」 、と肩を叩かれる。
傍を通りかかった別のドワーフが持っていた皿を、「貰うぜ」と口にしながら彼はひょいと取り上げてしまった。

「おい、食べ過ぎだろボフール」
「俺じゃなくて、このお嬢さんにだっての」

そう言いながらわたしにトマトだのチーズだのソーセージだのが山盛り載った皿を押し付けると、ぽんぽんとわたしの頭をあやすみたいに軽く叩いていった。
お酒のジョッキ片手に別部屋に向かうその背に一礼して、もらった皿と向き合う。
ベッドに横になる前に軽く食べてはいたけれど、もう少し食べてもいいかもしれない。
少しずつそれを口に運んでいると、入れ替わりのようにビルボさんがやって来る。
げんなりとしていて、今まで見たことのないような大層ひどい表情だった。

「まったく、ドワーフ達ときたら! 僕の家を滅茶苦茶にしてくれた!」
「あの……、ごめんなさい、わたしビルボさんの招いたお客さんだと思って、家具動かすの手伝っちゃったんです」
「君はいいんだ。ああ、そうとも、いいのさ! 僕の家の玄関の前に倒れてた時、あの最初の時から君は礼節を弁えていたろう? 今だって僕は無理に出て行ってくれなんて言わないさ、けどあのドワーフ達は目も当てられないよ! 何だってこんな事に……だからその皿は母の大事な――止めてくれ!!」

頭を掻き毟りながら彼は別室の方にすっとんでいった。
どうしたものかと思ったけれど、わたしの助力でもどうにもできまい。
大人しくソーセージを齧りながら、先程のガンダルフさんの言葉をふと思い返す。
「はじめまして」 の挨拶をしながら訊ねたのは、今の暦だ。
ここに来てからビルボさんに訊ね、返ってきた答えはホビットでの暦の数えで、わたしの知識では、それが結局いつに当たるのか判らなかった。
ガンダルフさんから得られた答えは、確実に、 「あの」 中つ国から過去を指している。
どうして、ここまで来てしまったのだろう。
あの時間を離れ、次に目覚める時にはもうこの世界とはさよならをしているだろうと思っていた。それだというのに。
わたしは腰に身に付けている重みに目をやった。自分は確かに、あの時代の中つ国を通ってきたのだ。
……時間を遡れるのであれば、どうかわたしを、あの時にまで戻してほしい。
すぐ傍での宴の音は、やはり何処までも遠くのもののようだった。
ひどく、空疎だった。
少なくとも、わたしにとっては。



まだ、夜の気配が残っている。
それだというのに、何故か、目が覚めた。
瞼を開けた先はやはり屋敷の中で、ああ、と胸の内で思う。願うままに、時間を飛び越えることはやはりできないらしい。
両手で目を覆いながらも耳をすますと、微かな物音や囁き声があって、きっとそのせいで目覚めたのだと考える。
まさか、まだ宴が続いているとでもいうのだろうか。
気付かないふりをしても良かったのだけど、妙に気になってしまって、様子だけを窺おうと、けれど一応最低限の着替えをして部屋を抜け出す。
すぐに、驚いてしまった。
あれだけひどい有様だった屋敷の中が、まるでドワーフ一行が訪ねてくる前のように、何事もなかったかのように綺麗になっていた。
テーブルの上も床の上も、塵ひとつない。
けれど確かに彼らは其処に居た。
広間の一室に集まり、身支度を整えていたり、家具の位置の調整をしていたり、何かを小さく話し合っていたり。
その中でも、やはり長身の魔法使いの姿は一際目立っていた。

「ガンダルフさん」
「おや、随分と朝の早いことじゃな」
「皆さんほどでは……。そう、それより、皆さんこそこんな早くに、何を」
「出発する」

端的に、しかし低く重い響きの声が答えを告げた。
見れば、ドワーフの中でも特に立派な佇まいの人物が発したものだった。
身支度を黙々と整えるその姿にはあまり覚えがなかった。わたしが昨夜、早々に部屋に引き上げてしまったからだろうか。
わたしが瞬いていると、ガンダルフさんがそっと耳打ちをしてくれる。

「トーリン・オーケンシールド。我らが頭領じゃ」

言うが早いか、
」、と彼はあらためてわたしの名を呼んで、続けた。
「ビルボが起きてきたら、できるだけ急いで支度をするよう言ってくれぬか」 と。
何の支度かと訊ねると、旅支度だという。
何のことだろう。旅? ビルボさんが?
ならば今この瞬間にも起こしてあげた方がいいのではないだろうか。
というか、もしビルボさんが本当に旅に出発するなら、わたしはどうしよう。
来てまだ日の浅いこのホビット庄で、その帰りを待てということになるのだろうか。

「心配は要らない。彼は来ないさ」

ドワーフの誰かが言い、 「いいや」 と即座に否定の声があった。ガンダルフさんだ。
「彼は必ず来る」 と、確信したようにそう言ってのけている。訊くのであれば、今この時の方がいいと思って、わたしはそれを訊ねてみる。
「もしビルボさんが行くのなら、わたしも行ってもいいですか?」 と。
誰もが本気にはしていなかったと見えて、大きな反応は返ってこなかった。
ただ、ドワーフの中でも特に屈強そうな、大柄な――それでも、わたしよりは背丈は低いのだが――ひとりがすげなく言った。

「自分の身も守れぬ者は、この旅には必要ない」
「……心得なら、あります」

わたしは腰に差している短剣を一応示してみせた。
まったく何も出来ないわけではない、何故ならわたし自身が願って、短い期間とはいえあの人から剣の教えを乞うたのだから。
わたしはガンダルフさんを見た。彼はと言えば何も言わずに黙ってこちらを見ているだけだ。
先程トーリンさんという名だと教えられた人物に何事かを小さな声で訊ねられ、わたしからはすぐに目を外してしまう。
けれど、拒絶はなかったと思う。
トーリンさんが淡々と出発を告げ、その中で一瞥をわたしに寄越した。
ほんの一瞬のことだった、直ぐにふいと目を伏せるようにして、その場を後にする。
いつの間にか、其処には誰もいなくなっていた。やっと訪れ始めた朝が、袋小路屋敷の中を光で満たしていく。

わたしは暖炉の傍で、そのまま、ビルボさんの目が覚めるのを待つ。
彼がもし今までどおりここで過ごすのなら、わたしは今しばらく彼と一緒にいようと思う。
けれど、もしガンダルフさんの言うとおり、旅に出るというのなら、わたしはついていこうかと思う。
きっとこの平和の時間を過ごすのも悪くない、それでも、独りでいる時間は容赦なく心を冷やすのだ。
目を閉じて浮かぶのがもう決して戻れない時間ならば、目を開けている間くらいは、これからの時間で埋め尽くしてしまいたい。今は痛みを思い出さないように。
陽がいつしか高く昇って、ビルボさんが大急ぎで旅の支度を始めるまで、あと少し。






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