袋小路屋敷に留まるようになって、一週間が過ぎた。
ビルボさんとわたししか居ない時間と空間は、とても穏やかだ。
最初こそ、向こうもわたしにどう接するべきかと多少の戸惑いがあったと思う。
でも、最初だけだった。
普段のビルボさんは部屋で本を読んでいたり、何か食べるものを拵えていたり、たまに庭の手入れをしたりしていた。
外に出かけていくことも勿論ある。
とはいえ、市場に出向いて食材を買ってくるくらいのものだった。そう頻繁に家を空けることはない。
わたしという存在が居るからかもしれない。元々あまり外出しない方なのかもしれない。
ただロードオブザリングでの老いた彼のことを思い返せば、このホビットさんの家での過ごし方はこういったものなんだろうと納得できた。
ある日、掃除も一通り終わったので休憩しようと思い、わたしは窓辺の椅子に腰を下ろした。
何とはなしに窓の外に目をやる。
青い空に長くたなびくような白い雲が広がっている。
緑が豊かに生い茂り、陽の光が辺りに降り注いでいる。とても平和な、のどかなホビット庄の風景だった。
――窓の向こうに、ヌッと誰かの覗く目が映り込んだ。
わたしがリアクションを取る前に、窓の向こうの誰かこそが金切り声で悲鳴を上げた。
それというのはつまり、わたしを見て仰天したのだ。ひどい。ふつうはこちらが大声を上げる立場なのでは。
そう思いながら、固まりつつも窓の外の様子を窺う。
誰かはそのまま何処かへ行ってしまったらしく、元通りの静かな景色が佇んでいるだけになった。
「? ……今のは何だい?」
さっきの声を聞きつけたビルボさんがやってくる。
わたしが事の次第を伝えれば、「ははあ」と彼は苦笑いした。
「サックビル・バギンズだな。人の家を覗き込むだなんて、全くあのロベリアときたら!」
「えっと……」
わたしは少し口籠もった。
名前を聞いて、ああ、と思う。
ビルボさんの親族の一人で、この袋小路屋敷を手に入れたがっているホビットの女性のはずだ。
映画にも少しだけれど登場している。
けれど、そんな人物に接触してしまったのは良くないことだったかもしれない。
「……あの、もしかしたら、このお家に大きな人がいるって噂になっちゃうんじゃ」
「まあ、いつまでも隠し通せるものでもないさ。それに、君のせいじゃない」
「でも……」
「なあに、少しの間くらいならしらばっくれてやるさ」
ビルボさんはそう微笑んで、気にしないでいいと言ってくれた。
けれど、いつまでもこうしてお世話になっているわけにもいかない。
……夢を閉ざせば、もう中つ国に来ることもないだろうか。
わたしはそうぽつりと思う。いつかは、そうしなければいけないのかもしれない。
ただ、まだ心の何処かでそれを拒んでいる自分がいる。
この世界が好きだった。あの人が、……ボロミアさんが生きたこの世界の息吹を、もう少しだけ感じていたい。
わたしはそう思った。
自分の世界にも、度々戻っていた。
相変わらず、時間の流れ方は不思議なままだ。
中つ国で一週間が経っても、戻ってくればそう何日も経っていない。
けれどそのおかげで、片付けられたものもある。
卒業式は、何の滞りもなかった。
式を終え、晴れてわたしは大学生という身分ではなくなった。
もし中つ国で為すべきことがあるなら、欠席しようと思っていた。
でも、今の自分には明確な目的も何もない。ただただ、時間だけがあった。
式を終えて自分の住む部屋に戻る前に、郵便受けを見る。
先日――そう、ボロミアさんと共に外出をした時にも念の為見てみたけれど、特にこれといったものは届いていない。
わたしは少し、考える。
ミナス・ティリスに滞在していた頃、手紙を出したことがあった。
それは家族に宛てて出したものと同時に、自分が住んでいるこの住所宛てのものもあった。
数打てば当たる、でもないけれど、もしも何通か出して一つでも届けばと思ったのだ。
けれど、結局それは届かなかった。実家にも届いていないというのは確認してある。
世界を文字通り跨いでいる以上、手紙という手段はダメなようだ。
当然ではあったけれど。
ホビット庄にいる間に、ゴンドールに出したとしたらどうだろう。
思うけれども、きっとこれもダメな気がする。
そもそも自分は、中つ国の文字が書けない。
わたしの文字を解せるのはファラミアさんだけだ。今この時代ではどうしようもない。
だとしたら、他に何か方法はあるだろうか?
例えば(今後仲良くなったと仮定して)、ビルボさんに代筆してもらったとする。
それを数十年後まで保管してもらい、指輪戦争のあの時代になってから出してもらう?
或いは、表書きに「何年に開けてください」とでも書いて、すぐさま出してもらうとか。
年は、王の帰還の頃がいいだろうから3019年にするべきだろうか。
色々と考えてみる。
けれど、……どちらも正直、忘れ去られるのがオチのように思える。
全く可能性がないわけではない。けれど、上手いことあの時代に届けるのはたぶんなかなかに困難だ。
そう判断せざるを得なかった。
(ボロミアさんに、わたしが無事だって伝えられないかな……)
それだけを考えながら、部屋に戻る。
卒業式の朝というのは早い。今朝は大層な早起きを強いられたので、その分眠気がのし掛かりつつあった。
早いところ眠る準備をして、そして中つ国へ戻ろう。
そう思いながら荷物を下ろし、ふと確認した携帯電話、そこに下がるストラップに目が留まった。
一つの指輪のレプリカが、そこに揺れている。
じくりとした痛みが胸を突き刺した。
以前までなら、それに何を感じることもなかった。けれど今は、ひどく苦いものを覚える。
ボロミアさんをあれほど苛み苦しめて、心を奪おうとしたものだ。
それを模倣品とはいえ、こうして自分が持っているだなんて。
わたしは目を閉じて、その人のことを思った。
ほんの少しの時間だった。
すぐに目を開け、わたしはそっとストラップを外した。
目覚めれば、既に辺りは明るかった。
ビルボさんなら二度目の朝ごはんの時間かもしれない。
わたしは卒業式でやや向こうにいる時間が長かったので、少々こちらでは寝坊したことになる。
そっと床に足を下ろし、立ち上がる。
お茶の香りがしないことからすれば、書斎だろうか。そう思って覗いてみるけれど、姿はない。
部屋を辿ってみれば、玄関に隣接した窓辺にビルボさんはいた。
ただ、なんとなく様子がおかしい。突っ立ったまま、窓の外を怖々といった感じで窺っている。
「ビルボさん?」
呼べば、彼は分かりやすい程に背中をびくっとさせた。
こちらを見て、ああ、と胸を撫で下ろしている。この屋敷にいるのは彼とわたしだけなのに、どうしたんだろう。
訊ねれば、彼は歯切れ悪く「ああ、うん」、と口籠る。
やがて、
「……僕も今、窓越しに目と目が合っちゃったんだ」という。
「昨日の君が言っていたみたいにね」
「えっと……じゃあ、そのロベリアさんが?」
「いや、違う。僕が会ったのは魔法使いさ」
「えっ」
どきりとする。
ホビット庄に縁のある魔法使いというと、一番に浮かぶのはあの人物しかいない。
「……お知り合いなんですよね? 帰っちゃったんですか?」
「知り合い? ……まあ、うん……ああ、そう。そうだとも。もう帰ったみたいだ」
くるくると表情を変えながらビルボさんはそう言い切った。
はて、と思う。
ビルボさんとガンダルフさんは古くからの友人だという。それは映画でも言っていたことだ。
それというのは、今この時代から既に親交があるんだろうか。
そもそも、今訪ねてきたというのは本当にガンダルフさんだろうか。
今の状況では、何とも判断がつかない。
もう少し原作や追捕編を読み込んでいれば分かったかもしれないけれど、今それを言っても仕方がない。
(わたしって、ビルボさんのこと何も知らないんだな……)
思いながら、はたと思いつく。
ガンダルフさん。……それに、エルフであるレゴラスさんやドワーフのギムリさん、人としては長命な種族であるアラゴルンさん。
彼らは今この時代にも生きているはずだ。だったら……もしかしたら、手紙という手段を使わなくても、伝言を頼めるかもしれない。
もし、彼らに会うことが叶うならの話だけれど。
そして、彼らがわたしを信じてくれればの話だけれど。
可能性が少しでもあるのなら……もう少し、もう少しだけ、この世界にいよう。
わたしはそう心に決めた。
ここのところ、日常が日常ではなくなりつつある。
僕の家にがやって来て、最近少し落ち着いたかと思えば今度は魔法使いだ。
灰色のガンダルフ。
……子供の頃に会った記憶はある。会うのはどのくらい振りかも分からない。
しかしそれにしたって、冒険の旅に出る仲間を探しているだなんて、突拍子もないにも程がある。
大体、その旅の間、はどうすればいいのだ。
彼女をこの屋敷の中で留守番させる? とんでもないことだった。このホビットの里であの娘一人、どうすればいいというんだろう。
市場に出て来たのは、魔法使いの噂を村のみんなに訊ねる意味合いもあった。
何人かには「お宅に大きい人がいるんだって?」と逆に訊ねられたけれども適当にあしらう。
しかしガンダルフを見たという者はほとんどなく、もしかしたらもう里を出たんじゃないかとさえ思えてくる。
家に戻ってくる頃には(大丈夫さ)、と自分に言い聞かせられるくらいにはなっていた。
なあに、あれだけ言ってやったんだ。自分には見切りをつけて、きっと他の誰かを探しに行ったに違いない。
そうとも、そもそも冒険の旅だなんて、この僕には到底ムリなんだ。
そう思いながら扉を開ければ、部屋の奥から「おかえりなさい」とが出迎えてくれる。
「市場で魚を買ってきたんだ。魚は好きかい?」
「ええ、でも……」
彼女は微かに笑むと、続けて言った。
「あんまり、食欲ないんです。……あっ、お料理する元気くらいはありますよ? いつもの時間に夕食でいいですか?」
「」
僕は彼女を押し留めた。
「無理はしないでいいんだよ。……少し、横になった方がいいんじゃないかい? 食事のことは気にしなくていいから。あと、食べられるなら、少しくらいは食べた方がいい」
「…………」
は、ここに来た直後よりは多少元気になったかもしれない。
でも、それはそれだけだ。時々彼女は遠くを見ていて、心はここではない何処かにあるのだろう。
この娘を深く知ろうとまでは思わない。
ただもう少し元気になるまでは、この屋敷にいても構わない。そう思う程度には、彼女を気にかけている自分がいるのも確かだった。
結局、は軽めの食事を済ませてすぐに寝室に向かった。
窓の外は暗くなり始めていて、青と橙の入り混じる空には星がいくつか光っている。
それを見ていると、魔法使いがやって来たことなんて夢だったんじゃないかとさえ思えてくる。
頭を振り、僕は自分の食事のためにフライパンに油を引いた。
いつもと変わらないだろう夜が、すぐ近くまでやって来ていた。
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