ベッドの上で、目を開ける。
視界に映る天井、ぬくもりのある部屋の中の温度、静かで穏やかな空気。
袋小路屋敷の中には、どこか懐かしい時間が流れている。

少し横になるだけのつもりだったけれど、それなりに寝てしまったのだろうか。
腕時計を見ると、思ったよりも針が進んでいる。
自分の世界にさえ戻りはしなかったけれど、やっぱり長めに休んでいたらしい。
わたしはそのまま天井を見つめながら、今自分の中にあるもの、それらを一つ一つゆっくりと並べていく。

混乱していた。
目の前に現れたホビットは、「ビルボ・バギンズ」と名乗った。
そしてわたしはと言えば、何のリアクションもできずにただ固まっているだけだった。
それというのも、どう見てもわたしが知っているビルボ・バギンズとは違いすぎたからに他ならない。
だって彼は――ロード・オブ・ザ・リングの冒頭、その台詞が頭の中に響いた――『今日は私の百十一歳の誕生日だ!』そう、百十一歳のおじいさんのはずだ。
それがどうだろう。目の前にいるそのホビットは、どう見積もってもそれより何十歳も若い。
ホビットの成人年齢の三十三歳を見越しても、四十から五十歳くらいのように見える。

勿論、彼がわたしの知るビルボさん本人とは限らない。
指輪物語の長い歴史、例えば追補編を見れば、その中には同じ名を持つ人が何人もいたように思う。
けれど、それにしたってビルボという名はそうそう他にいなかった気もする。
……仮に、彼がビルボさん本人だとするならば、どう考えるべきだろう?

ここで目覚めたばかりのわたしは、とてもその辺りについて考えられる状態ではなかった。
「顔色がよくない」とビルボさんに言われ、詳しいことは後で聞かせてほしいという言葉と共に、再びわたしは寝床に横になったのだ。
そうして少しの時間が経って、今に至っている。
目線を横に投げれば、わたしの荷物が脇に置かれている。
鞄の脇にあるのは畳まれたマント、その上にブローチと短剣。ロスロリアンで授かったものに、ファラミアさんからの借り物だ。
身につけていたものは全部、そのまま一緒についてきたらしい。

……今のわたしは、どういう状況にあるのだろう?
思うけれども、まだ思考がまとまらない。
思い切って身体を起こす。
とにかく今は、どうして自分がここにいるのかをビルボさんに訊いてみる方が先だろう。
そう思って立ち上がり、方向を変えようとして、

「でっっ!!」

梁に盛大にぶつかった。
物語の最初、屋敷を訪ねてきたガンダルフさんがシャンデリアと梁に頭をぶつけるシーンがある。
あれと同じことを、まさか自分がする羽目になるとは思わなかった。わたしの身長でもアウトらしい。
というか、初めて中つ国……ゴンドールで目覚めた時も、同じことをした覚えしかない。あの時は扉だったけれど。
痛みをどうにかやり過ごしながら(変なの)、と思う。
こんな地味な痛みはちゃんと感じるのだから、おかしなものだ。
死ぬ時は、身体の痛みなんてまるで感じなかったのに。

ひとりそう思い、そしてふと思う。
わたしはやっぱり、死んだんだろうか。
それとも、何か理由があって生き延びたんだろうか。
……正直なところ、どちらでもよかった。
ただ、あの人が生きていてくれたらそれでいい。
それを確かめる術があるのかどうかは、まだ分からないけれど。
わたしは意を決して、休んでいた部屋をそっと出た。今度は頭をぶつけないように気をつけながら。



「庭の手入れをしようと思っていたんだ」

ビルボさんはそう切り出した。
彼が淹れてくれたお茶の香りが、少し気持ちを落ち着かせてくれる。
ビルボさんは独りでこの屋敷に住んでいて、今朝はたまたま早くに起きたのだという。

「花の苗を植え替えようと思ってね。準備をして、さあと思って庭に出てみたら」

そこにわたしが倒れていたらしい。
それは、大層ビルボさんを困惑させたのに違いない。
自分の家の前に人が倒れていることなんて、まず滅多にないだろうし。それに。

「それに……気を悪くしないでほしいんだけど。その……、大きい人を見かけることなんて、この辺りではそうそうないからね。そりゃあ吃驚したさ」

それ以上を口にする素振りはなく、一旦彼は言葉を途切れさせた。
わたしは所々で肯きながら、(たぶん、本当はもっと吃驚したんだろうな)と思う。
彼は言及こそしなかったけれど、わたしの顔立ちは中つ国の人達とは少し異なる。
それでも今まで接してきた人達は、ほとんど皆が普通に接してくれた。
それはきっと、どう見てもわたしが人間だったからという点が大きいのだと思う。
見た目もこうだから、オークやゴブリンに比べるまでもなく、害意はないとみなされるだろう。
けれど、ビルボさんからしたら自分よりも身体の大きな人間だ。
見知らぬ大きな人を助けるに至るまで、判断に迷ったところもあるかもしれない。
そう思ううちにも、彼はわたしを見て続きを口にする。

「それで君は、一体どうしてあんなところに? 何かそれなりの事情があるんだろう?」
「それは……」

わたしは口籠もった。
事情はある。話せば相当長くなるのが。
でもそれを全部伝えるには無理がある。今はまだ言えない。

「……旅をしていたんです。最初はゴンドールを出発して……、それからいろいろなところを通って。でも、途中で怪我をしてしまって」
「それはいけない。今は、大丈夫なのかい」

少し心配そうにビルボさんは言う。
……そう言えば、倒れていた時に矢は刺さっていなかったんだろうか。この身体で受け止めた、あの三本の矢。
それを彼に訊こうかどうか一瞬考えて――止めた。
確認してみたけれど、身体には傷跡さえ残っていなかった。たぶん、それが答えなのだろう。

「……大丈夫です。なんですけど、一緒にいた人達ともはぐれてしまって。……本当に、気付いたらここにいたんです」
「ふうん。じゃあ、その人達も探しているだろうね。ホビットの里を出るんなら、そこまで道案内しようか」
「…………」
「どうしたんだい」

俯いてしまったわたしに、彼はそう訊ねてくる。
そしてわたしは、(……わたしは、どうすればいいんだろう)と途方に暮れていた。
目の前には若いビルボさんがいる。
それはつまり、時代が違う、ということだ。
今このホビット庄を出て一人、何とか「旅の仲間」の終わり、アモン・ヘンに赴いたとしてもどうしようもない。
ゴンドールに行ったところで同じことだ。この時代、知っている人はほとんど誰もいない。
だったら、……わたしは一体、どうすればいいんだろう?
言葉が、声が出てこない。

「一緒にいた人達とは……もう会えないんです」

ようやくのことで、そう一言漏らすのが精一杯だった。
彼が淹れてくれたお茶はもう香り立つことなく、冷めきっていた。



何日かが経っていった。
ビルボさんはこちらを気遣って、「これからどうするか決めるまでの間なら、ここにいてもいいよ」と言ってくれている。
あれ以上を言ってはいないのに、ある程度を察してくれたらしい。

袋小路屋敷の外には出ないようにしていた。
大きな人がいると分かれば、ホビット庄がちょっとした騒ぎになる。
お世話になっている以上、それは避けたかった。だから屋敷の中で掃除をしたり、食事の準備をしたりして過ごしていた。
……もし、普段のわたしだったなら。
そんなふうに思う。
いつもの自分だったら、この「袋小路屋敷」にどんなにかワクワクしただろう。
故郷を思い出すような、あの温かみのある音楽が耳の奥に流れたかもしれない。
あのホビット達の暮らしぶりが目の前に浮かぶような、明るくも郷愁を覚えるようなあの旋律が。

けれど、とてもそんな気分にはなれなかった。
日が経つにつれ、わたしは自分の心が沈んでいくのをはっきりと感じていた。

眠って、自分の世界へ何度か戻った。
全部が夢だったのなら、また心持ちも違ったかもしれない。
けれどそうではなかった。
洗濯カゴの中に、自分とボロミアさんがあの日に使ったバスタオルが残っていて、使った食器も流しの桶の水に浸けてあった。
紛れもなくあの人はここにいて、わたしと時間を過ごしたのだ。

物語を変えてしまった。
どうするのが最良なのかなんて、わたしには分からない。
ただ、あの人に生きていてほしい。――ボロミアさんとわたしが、どちらも命を繋ぐために。
共に生きるため、わたしが死のう。

そう覚悟を決めてみれば、どういうわけだか目が覚めたら別の時代だ。
そして何度か眠って起きても、ここ数日ずっと舞台は動かない。
もしかしたら、次に起きた時にはあの時代に戻っているかもしれない。そんな淡い望みはすぐに消えた。
覚悟を決めたはずなのに、そしてあの人が生きていてくれさえすればそれでいいと思っていたはずなのに。
……それなのに、どうしてこんなにも胸が苦しくて仕方がないのだろう?

(もう、会えないのかな……)

ぽつりと、心の中でそう呟く。
そう思うべきなんだろうな、というのは理解している。
わたしはやっぱり、物語を変えた代償に対価を払い、あの場所できっと死んだのだ。
そして死んだことより、「もうあの人に会えない」という事実の方が今になってよっぽど堪えている。
後悔は一切ない。ただ、どうすればいいのかが分からない。
……このどうしようもない気持ちを、わたしは一体どうしたらいいんだろう?
答えなんて見つからない。
ただただ、時間だけが過ぎていくのを感じていた。





こんなことってあるだろうか?
僕はそう思いながら倒れているその子を見つめていた。
自分の家の前に、人が倒れている。
そしてどういうわけだか、大きい人だ。それも、ここいらじゃ見かけない珍しい顔立ちときている。
ますますどうしたものかと思ってしまう。けれど、放っておくわけにもいかない。
女の子とはいえ、自分よりずっと身体の大きな子を運ぶのには相当難儀したけれど、どうにかこうにか何とかなった。

話を聞けば、旅をしていて仲間とはぐれてしまったという。
もう合流することも叶わないというその子の顔が、ひどく痛々しかった。
追い出す形になるのもかわいそうだ。
そう思ったのは確かだけれど、しばらくはうちにいても構わないと言ってしまった自分自身に少しばかり驚いている。
最初こそ、助けるべきかどうかほんのちょっと考えてしまったというのに。

けれど少なくとも今のところ、彼女は礼儀正しい子だったし、何かと家のこともやってくれる。
流石にいつかは出ていくだろう。
そう思いながら過ごしていたある日、彼女の眠っている部屋から何かが聞こえるのに気付いた。
用を足すために目を覚ました深夜のことだった。
に与えた部屋は昔両親が使っていた部屋で、そもそもドアがない。
そっと耳をすませてみる。……寝言だろうか?

「……さん、ボロミアさん……」

誰かを呼んでいる。
ほんの一欠けらの声だった。にも拘わらず、何かの感情の色が滲んでいる。
ただ、決して魘されているというわけでもない様子だった。僕はそっとその場を離れた。
ベッドに戻って、さっき聞いた声を思い返す。
そう詳しくを聞いているわけではない。
聞くべきではない、とも思っていたかもしれない。だってあの子は、すぐにここを出ていくだろうと何処かで思っていたのだから。
それなのに考える。
さっき呼んでいたのは、はぐれてしまったという仲間の誰かなんだろうか。
そしてそれは、誰なんだろう。






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