ぽつりと、頬に何かが落ちた。
あたたかいそれは、誰かの涙のように思えた。――誰かが、泣いている。
目を瞑っていたので、それが誰なのかはわからない。



ボロミアさんの前に飛び出た瞬間、ガン、と全力で殴られたみたいな衝撃がわたしを打った。
打ったけれども、倒れはしなかった。
見れば、肩の付け根の下辺りに一本の矢が生えている。
気にしなかった。
彼は何本もの矢を受けながら、それでも倒れずに戦い続けたのだ。その勇姿を、わたしは知っている。
矢の一本くらい、何だっていうのだろう。

ボロミアさんが、中つ国に戻ることを選択した時。
その時にはもう、自分にできることは限られているというのを、わたしは解っていた。
わたしがこの人にできること。それは――

気付いた時には、胸とお腹の辺りにも矢が突き立っていた。
さすがに、これ以上はたぶん持たない。
そう思い掛けたところに、飛び込んできた人影があった。アラゴルンさんだ。
彼さえ来てくれたなら、後はもう、わたしにできることは何もない。これでいい。これで。
わたしは膝をついて、一度意識を閉ざした。



声が聞こえる。
誰かがわたしを呼んでいる。
その声には聞き覚えがあった。この人の声が、わたしはとても好きだった。

……目を開けてくれ……頼む」

掠れるような声色は、それでもわたしの主のものだと判る。
ボロミアさんが呼んでいる。
薄ぼんやりとしていた自分の感覚が、はっきりと浮かび上がるのを感じる。
目を開けてほしいと、彼はそう言っている。
――OK。わかりましたよ、ボロミアさん。

…………っ」
「はい」

目蓋を開ける。
はっきりとそう言えば、すぐ傍でわたしを抱き起こしていた彼は固まっていた。
ボロミアさんだけでない、目線を巡らせれば、少し離れたところでアラゴルンさんまでもがぎょっとしたかのように驚愕の表情をしている。
向こうにいるレゴラスさんやギムリさんも一様に同じ反応で、わたしは一人、口元を押さえなければならなかった。
皆、揃いも揃ってのあまりの吃驚ぶりに、吹き出しそうになってしまったのだ。
けれど流石に、(ここは笑うところじゃない)というのは解っていたので、どうにか堪えた。

「……もう、ボロミアさん、吃驚し過ぎですよ」

目を開けてくれって言ったの、ボロミアさんじゃないですか。
何とか笑いをやり過ごして、そう言いながら見上げてみる。
向こうは何を言っていいのか分からない、というようにただただ見つめてくるばかりだ。
涙の筋が何本かできていたので、そっと指先を伸ばしてその跡を拭う。
断片的な言葉が、ようやくその口からこぼれてきた。

……生きて……?」
「まだ生きてますよ」

そう応じれば、彼は希望を取り戻したかのように一瞬顔を綻ばせた。
すぐに、信じられない、というように頭を振る。
それというのは、当然だと思う。
三本もの矢を身体に受けて、それでも平然としていられるだなんて、普通じゃないのだから。
けれどそれは、不思議でもなんでもないことだった。

「何が……どうなっている……?」
「どうなってるって、もう、ボロミアさんってば」

わたしはごくごくいつもみたいに、笑ってみせた。

「――夢で死んでも、ただの夢ですもん」

そう告げれば、ハッとするように彼は息を呑み込んだ。
……本当のところを言えば、それなりの痛みは覚悟していた。
なのに実際は、衝撃こそあったものの、痛みの方はまるで無かった。拍子抜けする程に、何も。
それというのはたぶん、わたしの夢が入り混じっているからなのだと思う。
夢を通して行ったり来たりしてるのだから、それはそんなに、不思議じゃない。
一割か二割か、或いはそれ以上か。
どのくらいかは判らないけれど、わたしの夢が混じっている。
だから。
夢で死んでも、ただの夢。
だからきっと、この世界で死んでも、わたしは元の世界で目覚めるのだと思う。
たぶん。

「いろいろ考えたんですけど……」

わたしはその辺りをかいつまんで話して聞いてもらう。
原作をひっくり返すには、相当の覚悟と対価が必要なのだろう。
覚悟は決めた。……遅すぎる覚悟ではあったけど、それでも。
そして対価なら、わたしがそれを差し出そう。
大丈夫。死なない。……そんな気がする。
続けた。

「この方法しか思いつきませんでした。だから……これが、一番いい終わり方なんじゃないでしょうか」
「何が…………何がいい終わり方だ!!」

それまで静かに耳を傾けてくれていたボロミアさんが、急に声を荒げた。
見れば、怒るのとまた泣きそうになっているのを器用にも一遍にやってのけている。

「私が受けるべき報いを、何故おまえが受けなくてはならないのだ……」
「……ボロミアさん、一度は死んだじゃないですか」

二度も死ぬ必要こそ、ないでしょうに。
そう返せば、彼は何とも言えない顔になって声を詰まらせている。
そんなやり取りをしている最中のことだった。

「……どうなっている……!?」

そう独り言みたいに呟いたのはアラゴルンさんだ。
正直、わたしの方はといえばボロミアさんに掛かり切りで、彼らの方は放置していた。
訳が分からなくて当然だろうなあと思っていたら、わたしも想像していなかったことを彼は口にし出した。

「確かにボロミアを船に乗せたはず……なのに何故が……? この記憶は一体何だ?」

額を押さえ、何か混乱した様子でそんなことを言う。
見れば、レゴラスさんやギムリさんまでもが互いを見合わせて、状況を理解し難いというふうに困惑の表情でいるのだ。

「……アラゴルンさん」、
わたしの方こそそれは想定外だったけれども、とにかく訊ねた。
「覚えてるんですか? ……ボロミアさんを葬送の船に乗せて、見送ったこと」

彼はわたしを見て瞬き、押さえたままの額の中を探るみたいに一度目を閉じた。
すぐに、その目が見開かれる。

「……そうだ! 覚えている!!」

はっきりと、声高にアラゴルンさんはそう断言した。
彼は、自分がボロミアさんを看取ったことを覚えているという。
……わたしとボロミアさんは互いに世界を渡り、そして共に戻ってきた。
だから、記憶があるのは自分達だけだと思っていた。
実際、以前モリアでわたしが場面を飛ばしたり戻したりした時は、自分以外はそれに気付いた様子もなかった。
それなのに今、どうして彼らが本来の歴史を覚えているのだろう。

「……ピピンとメリーも、そんなことを言っていた気がする」

そう言うのはボロミアさんだ。
聞けば、彼らは物語の通りオークに攫われてしまったそうだけれど、直前に自分が生きていることに驚き、戸惑った様子だったという。
わたしはちょっと、呆気にとられた。
つまり、ここに居た皆が、何があったのかを覚えているということになる。
どういうわけか、ちょっとそれについて考え掛けて――

(まあ、いっか)

そう思った。
寧ろ、その方がいいのだと思う。
ボロミアさんの死というのは、アラゴルンさんが王になる決意を固める上での決定的な出来事のひとつだった。
だからきっと、覚えているのならそのままでいい。
わたしはひとまず、そう結論付けることにした。
そもそも、あまりそちらに時間を掛けていられそうもなかったので。

「そっちの方が、本来のこの物語なんですけど……」、
少し、寒気を感じ始めた。
腕をさすりながら言う。
「歴史を変えちゃって、すみません。アラゴルンさん」
「何を……言っている……?」
「えーと……後で、ボロミアさんから聞いてください」

全部、話してありますから。
わたしは取り敢えず、説明のあらかたをわたしの主に丸投げすることにした。
そして、原作の歴史までをも変えてしまった、その後始末について。
それも全部、アラゴルンさん達残された皆に、まとめて丸投げすることにした。
わたしはといえば、ボロミアさんにできることの全てを投げうってしまって、とてもこれ以上のことは引き受けられそうにない。

原作を変えてしまって、後々の歴史に何か良くない影響があるかもしれない。
……そんなことを心の何処かで思っていたのは、たぶん間違いない。
でも、――ボロミアさんが生きていて、それが悪い方向に向くなんてこと、あるはずがない。

大丈夫だと思った。
彼らなら、大丈夫。……わたしがそんな心配をすること自体、どうかしている。
だって彼らは、旅の仲間なのだから。
だから、きっと大丈夫だと、そう思えた。

「――ボロミアさん」
「どうした」
「寒いんです。……手を握っていて、くれませんか」

そう言えば、すぐさま手袋を外した彼の手がこちらのそれを掬い上げた。
あたたかい温もりが直に感じられて、わたしは少し安心した。

「……わたしが死んでも、悲しまないでくださいね。ボロミアさん」
「…………」
「たぶん、わたしは向こうで目を覚ますと思いますから」
「……本当か」
「たぶんですけど」
!!」
「……だって。さすがに死ぬのは、初めてですから」

わたしがそう言って少し笑えば、彼はただジッとこちらを見つめてくる。
その目に再び、涙が溜まり始めた。
……泣かないでほしい。きっとわたしは、大丈夫なのだから。
思うけれど、確かに絶対的な根拠はなかった。
わたしが勝手に(たぶん元の世界で目覚める)と思っているだけで、こちらでも向こうでも死んでしまう、というパターンだってあり得る。

わたしは少し、そちらの方を考えた。
もうそうなるなら、何か思い残すことってあるだろうか?
家族や友人に会えなくなるとか、そういうのは勿論として、何かそれ以外には?
幾らか考えを巡らせて、ふと思い当たった。
……まだ読んでいなかった他の原作も、手にとって見れば良かった。例えば、指輪物語の前日譚だという、ホビットの冒険辺りでも。
もっと生きていれば、映画化されたものを拝めたかもしれないと思えば、確かにそれは心残りだ。

けれど、……これ以上の死に方って、果たして他にあるだろうか?
わたしは目の前を見る。
木漏れ日の差し込む、静かな午後の一時だった。
中つ国という世界が好きだった。……彼らが、旅の仲間が好きだった。
大好きな人達が見守ってくれている中、ボロミアさんの腕の中で意識を閉じることができるのなら。
これ以上の終わり方って、他にそうそうないんじゃないかな。そんなふうに思う。
わたしは目を細めて、アラゴルンさん達の方に向かって言った。

「皆さんと旅をご一緒できて、楽しかったです。……あと、それから」、
わたしはすぐ傍の人をまた見上げた。
「……ボロミアさん。ホビットの皆に、よろしく伝えてくださいね。何も言わずにお別れになっちゃいましたから」
「…………」
「あとそれから、ガンダルフさんにも」
「……ガンダルフは、もう……」
「あー」

わたしは少し考え込んだ。
ほんの五秒くらいだった。
すぐに、特に問題ないかなと考える。まあいいや、言っちゃえ。

「ネタバレしてすいませんけど、ガンダルフさん生きてますから」
「なっ」
「この後、物語は二つの塔に入りますけど……中頃で戻ってきますから。何か白くなって」
「白く!?」
「わたしは灰色のガンダルフさんの方が好きなんですけどね……」

そりゃあ、あの魔法使いさん生きてるんだから、悲しくないわけですよね。
ロスロリアンで(悲しめない自分はおかしいのかな)と少し思い悩んだわけだけれども、まあそういう理由なら、仕方ない。
思っていると少し咳き込みそうになって、わたしの背を支えてくれているボロミアさんの手に力が籠もった。

「もう喋るな、
「大丈夫ですよ。……平気です」、
そう言う傍から堪えきれずに咳が出そうになり、慌てて手で口元を覆う。
……」
自分の方こそが辛そうにこちらを見つめてくるボロミアさんに向かって、敢えてわたしは間延びした声を出した。
「だからー」、
少しでも、本当に大丈夫だと解ってほしかった。
が。

「本当に痛みも何もありませんから。ですから、大丈夫なんですってばごぼごぼごぼ」
!!」

話す口の端から何かが溢れ出して、逆効果だった。
金臭い味が広がって、見なくても血だと分かったけれど、一応口元を拭ってみる。想像通りの色がついていた。
あらやだ、吐血。

「……あと少しだけ、こうしていてくださいね。ボロミアさん」

そう言いながら、わたしは一度目を閉じる。寒い。ひどく寒い。
もうきっと、ほとんど時間はないんだろう。
それでも、わたしは最後までいつものわたしでいよう。
大丈夫。死なない。……死んでも、後悔なんてない。そう思った。

「ボロミアさん。ちゃんと、最後まで生き延びてくださいね」
「…………」
「王の帰還、わたしはもう何度も観ましたから。……だから」

今度は、ボロミアさんがみる番ですよ。
言って薄く目を開けて窺うけれど、喉が詰まって彼は何も言えないみたいだった。
手を伸ばす。
この人が倒れるのを、自分は今まで何度みてきただろう。
でも、もうそうはならない。……そんな世界が一つくらいあったって、いいと思う。
もうすぐ、春が来る。
これから中つ国に訪れる新たな春を、ボロミアさんに見てほしい。
そう思いながら触れた彼の頬は、あたたかな温もりに満ちていた。







目が覚めてすぐに、自分の部屋ではないと思った。
遅れて、わたしはわたしを見下ろした。
矢など一本も刺さっておらず、念のためこっそり服の中を見てみても傷さえ見当たらない。

……どうなったんだろう?
たぶん死なないとは思っていた。けれどそれは、わたしの世界で目を覚ますだろうと想像していたからだった。
そしてここは、きっと中つ国だ。直感的にそう思う。
でもそれなら、誰かに治療されたんだろうか? それなら、傷痕ひとつ無いのも変だ。

思うけれど、ひとまず辺りを見回す。
特徴を見るに、ゴンドールでもローハンでもなく、そして裂け谷やロスロリアンでもない。
もっと素朴な、牧歌的な印象を受ける。
そしてわたしは、この場所を知っている。
もしそうだとすれば、ここに居るのは。

「……やあ。目が覚めたのかい」

けれどその声は、予想したものとは違っていた。
見れば、初めて会うと思しきホビット族の男の人がこちらを見やっている。
ホビット。
……なんとなく、袋小路屋敷だと見当をつけていた。
だから、居るのはフロドなのではないかと思ったのだ。どういう理由かは別にしても。
けれど見たところ、フロドとは似ても似つかない顔立ちの男の人だ。年齢も、きっともっと上だろう。
とにかく名前を訊こうとこちらから名乗り、向こうの名を聞かせてもらう。
全く予想もしていなかった名が告げられて、わたしはそのまま固まってしまった。

「僕はバギンズ。――ビルボ・バギンズ」






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