● ボロミア

煌めく陽光の中、白い花びらが舞っていた。
――多くの民達の歓声、喝采。皆の喜びに溢れた笑顔。たなびくゴンドールの旗。仲間達の祝福。春の訪れを告げる、温もりある日差し。その中で静かに光を放つ銀の冠。
新たな時代が幕を開ける。誰もがそう感じていた。
王は帰還された。
そして、その場に自分がいる。

長い、あまりにも長い時間だった。
執政家は何代にも渡り、王の不在を守り続けてきた。
王はもう戻らぬと私自身思ったこともあった。
だが、自分やファラミアの代で王は戻られた。その場に、確かに立ち会ったのだ。

今度は、私が王の帰還をみる番なのだと、は言った。
もう自分は、何度も目にしているからと。
そう言って微笑んだ彼女。
今のこの光景も、は何処かから見ているのだろうか。
仰いだ空は白く眩しく、光が降り注いでくる。眩しすぎる――今の自分には、あまりに眩しすぎた。何もかも、全てが。
私は目蓋を閉ざした。



全てが奇跡のような出来事なのだと理解していた。
王の帰還も、そして自分自身が今という時間に存在していることも。
その奇跡の中にいながら、しかし、この胸の痛みは決して癒されることはなかった。

――はもういない。彼女はもういない。
自分の身代わりとなった黒髪の娘。彼女を舟に乗せアンドゥインに見送ったあの時から、私の中からという光は消えた。
ひとつ微かな希望があるとするなら、それは彼女が自身の世界で目覚めているかもしれないということだ。
にとって、あれは夢の中だけでの死であって、実際には今も生を繋いでいる。
……そうであってほしいと、心から願っている。

しかし、それを確かめる術はなかった。
眠りにつく時、またの世界へと渡れはしないかと何度も思い描き、祈り、そして願ってきたが、今日までそうはならなかった。
時々、本当にただの夢の中で彼女が現れることはある。
はいつも静かに笑んでいるだけだった。何も言わない、何もしない。ただ穏やかに、いつもの表情を湛えている。

「兄上」

呼び掛けられたのは、祝宴が始まってしばらくした後だった。
ファラミアは私と共に戴冠式を司っていたが、よく立ち回ってくれていた。
その弟は何処か顔色を曇らせながらこちらを見ている。

「……顔色が優れないようですが」
「私が、か?」

言われて、上辺だけで笑って見せる。
体調は決して悪くない。寧ろ、そちらの方こそ大事にしろと言ってやりたいほどだ。
傷が癒えたとはいえ、この弟は危うく命を落とすところだったのだ。
しかしそれを、アラゴルンが……いや、王が癒しを施し救ってくださった。
そうなることも全て、は知っていたのか。
思う間にも、ファラミアは口数少なくも労りの言葉を掛けてくる。

「後のことは私が引き受けましょう。先にお休みになってください」
「……気が向けばそうしよう」

言って、通路で弟と別れた。
ファラミアがこちらを気遣ってくれているのは理解している。
――ゴンドールに戻り、弟と再会した時、彼はのことを既に知っていた。
夢で何度も彼女と会っていたと、ファラミアは言う。
それというのは私自身、覚えがないわけではない。
と共に、弟と言葉を交わした夢を見たことがあった。……どうもやファラミアは、夢というものに不思議と通じているように思えてならない。

そして、ファラミアも一度……私が舟で葬送されたのを見ているという。
その後に見た夢で最後に会ったが、それを「本来の物語」だと口にしているとも。
弟は、全てとは言わないまでも、ある程度のことを知っている。
だからこそ今のように自分を労い、彼自身のことを気に病んでいた。

私のせいだ。
何度も聞こえてくる声が、再び頭の中に響く。
指輪の誘惑に負けたせいで、彼女は死んだ。私が弱かったせいで、彼女は死んだ。望みがあると私が信じられなかったせいで、彼女は死んだ。

苛んでくる声をそのままに、通路を抜ける。
ふと、視界の端に見知った姿を見つけた。レゴラスだ。
戴冠式に出席した時のままの正装でいる。共に戦い抜いてきた仲間の一人。
その彼が、額を押さえ壁にもたれ掛かっている。
心配よりも、奇妙に思う気持ちの方が勝っていた。
エルフ族であり、戦いの中で見せる姿はしなやかながらも鮮やかだった。酒にも驚くほど強く、また病にも縁がないのだと聞く。
そんなレゴラスが、どうしたというのだろうか。
近付けば、気配を察してか向こうの方から振り向いた。

「ボロミア」
「どうした、レゴラス」

具合が悪い、などというのは奴に限ってあり得ない。
短く問えば、ああ、と彼も短く応じた。
ややあって、言葉が続いた。

「少し……混乱していたんだ」
「混乱? ……何がどうしたと言うんだ」
「ボロミア」、
ひどく真面目な顔になって、レゴラスは言う。
「ひとつ、聞かせてほしい」
「何だ」
のことだ」

面と向かって言われ、言葉を失いかける。
彼女のことの全てを、皆には伝えていなかった。ファラミアにさえ、だ。
「後で、ボロミアさんから聞いてください。全部、話してありますから」
はそう言い残していたが、彼女についての説明を、今になるまで話せていない。
私の悲しみが深いことを察し、アラゴルンを始めとした皆が詳しくを訊ねてくることはなかった。
いつか話せる時が来るまで、待ってくれるつもりなのだろう。そう思っていた。
それだというのに、突然何を言い出すのだ。
睨みつけそうになるのを寸でのところで抑えながら、ようやく言葉を返した。

が……一体、どうしたんだ」
「彼女は、人間だね? エルフではなく?」
「何を、今更……」

質問の方向が見えない。
向こうもそう自覚しているのかいないのか、「そう……そうだね」と肯いている。
しかし、表情はまるで納得しているそれではなかった。
……がエルフ? なぜそんなことを今になって問うのだろう。耳は尖ってもいないし、そもそも彼女の国へ渡った時、見渡した世界にいたのは皆人間だった。
「わたしの世界は、人間しかいないんです」と言っていた、その声が蘇る。
「エルフやドワーフ、ホビットは物語だけの存在なんですよ」とも。
思い返すうちにもレゴラスは言う。
次に飛び出してきた内容は、思いもよらないものだった。

「以前、に会ったことがある気がするんだ」
「…………何?」

以前、と奴はそう言った。
しかし、エルフにとっての以前というのはいつを指すのか計り知れない。

「それはいつの話だ」
「……五軍の合戦があった年……」、
記憶を呼び起こすように呟いた言葉の後に、続きがあった。
「少なくとも、貴方が生まれる前だ」
「…………馬鹿な」

まるで解せない。
は人間だ。私が生まれる前に、彼女が中つ国に渡っていて、レゴラスと会っていた?
理解し難い話だった。それに、それならばなぜ、

「なぜ今になってそんなことを……共に旅していた時、もレゴラスのことを知る様子はなかった筈だ」
「だから今、こうして混乱しているんだ」

静かにレゴラスはそう言った。

「まるであの時みたいだ。ボロミアが死を迎えた時のことを覚えているのに、貴方は生きていて、それで――」
「やめてくれ!!」

思わずそう叫んでいた。
目の前が赤く染まる。自分の代わりに、三本もの矢を受け倒れた。痛がる素振りさえなかったものの、その口から溢れる血。寒いと、手を握っていてほしいと言う彼女の、掬い上げた手のひら。その冷えていく温度。あの時のことが、一時に自分の中に流れ込んでくる。
それを、必死に押し留めなければならなかった。
なぜ、そんなことをレゴラスは急に言い出すのだ?
仮にそれが本当ならば……それは一体、どういうことなのだ?
思うがしかし、そんなことはどうでもよかった。はもういない。それだけが、今目の前にある確かな事実だった。

「……すまない」

やがて、静かにレゴラスはそう口にした。

「貴方の気持ちも考えずに、悪いことをした」
「…………」

すぐには応じることができない。
呼吸を繰り返し、ようやく人心地がついた頃、不意に何かを思い出したかのようにレゴラスは表情を変えた。
かと思えば、奴は踵を返していた。
その背との距離は大きく開き、あっという間に離れていく。

「レゴラス? ――何処へ行く!?」
「すぐに戻る!」

振り返ることなく、彼はそう言い残して消えた。
戴冠式のあった一日が終わろうとしている時のことだった。





● フロド

袋小路屋敷は、静かに僕を迎えてくれた。
ほとんど飛び出すように出てきたあの時から、何も変わらない。
それなのに、……見える世界は大きく変わってしまったように思える。
かつてビルボも、同じように冒険に出て帰ってきたという。今の僕と、同じような気持ちだったのだろうか。

戻ってきて、数日は身体を休めていた。
ベッドに身体を横たえていると、いろいろなことが思い浮かぶ。
その中のひとつに、友人のことがあった。旅の仲間のうちでただ一人、再会が叶わなかった彼女。

ファラミアからが死んだと聞かされた時の衝撃を、今も覚えている。
なぜ。……どうして。
そう思わず口にしてしまうくらいには、動揺していた。
特に親しかったわけでもない。接した時間はひどく短く、旅の中での、ほんの僅かな間だけだった。
けれど、いい子だった。そう思う。
僕やサムよりは、メリーやピピンの方が話す機会も多かったかもしれない。
それでも、何となく分かる。気立てのいい、優しい子だった。
モリアで崩れる階段から落ちそうになっていた時、手を貸してくれた。ロスロリアンで珍しいお菓子をくれたのも、僕を労ってくれてのことだと思う。
――そのが死んだなんて、どうしてだか信じ難かった。

そしてそのことを聞いた時、同時にボロミアのことが思い出された。
二人は共にゴンドールを発ってきていた。深くを知るわけではなかったけれど、彼らは相応に親しく見えたものだ。
だからこそ、二人のことが痛ましかった。


ボロミア。
のことを思い出すうちに、彼のことも考えている自分がいる。
……指輪を葬り去った後、目を覚ました一室。
微笑んでいるガンダルフ。部屋に飛び込んでくるメリーにピピン。笑顔を見せながら姿を見せる旅の仲間たち。その中に、彼はいた。
ボロミアは僕の前に跪くと、あの時のことを詫びてくれた。あの、アモン・ヘンでの出来事。
そもそも僕は、彼に謝ってほしいわけでも何でもなかった。
ボロミアは旅の仲間で、僕の友人だ。
何より、僕自身だって最後には指輪の誘惑に屈したのだ。
……ほんの少し、長持ちしただけだった。だから、誘惑に苛まれた彼の苦しみも痛いほどよく分かっている。痛いほど。

片手を持ち上げる。
一本なくなってしまった指。その手越しに天井を見つめながら、僕はさらに思い巡らせる。
彼らについて、ひとつ不思議な話があった。
――本来は、ボロミアの方が命を落としていたのだという。
そして、実際にその場に居合わせた仲間達は一度、そうなったのを見ているのだと口を揃えている。
そこにはメリーやピピンも含まれていて、彼らも未だに理解し難い様子だった。
アラゴルン(今は、エレスサール王だ)でさえその内容を把握しきれていないというから、それこそ魔法のような不思議な話だ。

とにかく。
とにかく、……それを変えてしまったのは他ならぬ自身なのだという。
どうやったのかは解らない。
経緯を一番よく知るというボロミアの口は重く、無理に聞き出すのも憚られた。

ただ、――今は彼女が死んでいて、ボロミアが生きている。
その事実があるだけだ。
それをどうこう言うつもりはない。
世界には、信じられないようなことが多く溢れている。それを今の僕は、少しなら知っている。



頭の中がまとまらない。
気持ちを切り替えようと、ベッドから身を起こす。
視界を巡らせて行き着いた傍のテーブル、その上に目をやれば、一冊の赤い表紙の本が置かれている。
帰りの旅の中で立ち寄った裂け谷。
そこでビルボから受け継いだものであり、元々は彼の日記兼回顧録なのだという。
彼の冒険のことも書かれているこの本の続きは、僕が書こうと思っている。指輪戦争の記録。どれだけ時間が掛かるかは分からないけれど――。

僕は立ち上がってそれを手に取り、最初のページを開いてみようとする。
途端、何か挟まっていたものがひらりと落ちた。
拾い上げて見てみれば、誰かの似顔絵と思しきものだ。
そしてそれには、僕の記憶を小さく刺激するものがあった。見覚えがある気がする。
僕はじっとその絵を見つめる。

肖像画のような立派なものではない。
使われている羊皮紙には皺がより、変色していて経年が感じられる。
そこには、一人のホビットの姿が描かれていた。
……思い出した。
「個人的なものだ」と言って、ビルボがすぐに隠してしまったのをうっすらと覚えている。
よくよく見てみれば、何処となくビルボの面影があるようにも見える。
彼の、昔の姿なんだろうか。

その絵を眺めていて、ふと、手元に微かな違和感を覚えた。
すぐにその理由に気が付く。
紙が、重なっている。二枚目があるようだった。
それを何の気なしに捲る。
次の瞬間、ガン、と頭を殴られたような衝撃を覚えた。

二枚目には、彼女がいた。
友人で、再会を果たせなかった仲間。が、確かにそこにいた。

そんな――そんな馬鹿な。
思うけれども、どう見ても彼女としか言いようがない。
黒く塗られた髪色、その長さ、中つ国ではあまり見慣れない独特の顔立ち、目線の飛ばし方、笑うか笑わないかの微かな口角の持ち上げ方。
そのどれもが、僕の知り得る限りのと一致する。

心臓が早鐘を打っている。
僕は、絵を持つ手が震えているのに気付いた。
他人の空似とは思えない。は遠い国から来たのだと聞く。それを表すかのような顔立ちは、本人としか思えなかった。
そのの絵が、なぜ、ここに存在するのか?
一枚目も二枚目も、共に同じような傷み具合だった。相当の時間が経過しているのだろう。
がエルフだというなら、理解できる。老いることのない彼らという種族なら、まだ理解できた。
しかし彼女は人間だ。人間の大きい人……そのはずだった。

それというのは、つまり、どういうことなのだろう。
ビルボとは、昔、会ったことがあるのだろうか?
裂け谷で初めてボロミアとに出会った時、そこにはビルボもいた。そんなふうには、とても見えなかったけれど――。

しばらく僕は、その場に立ち尽くしていた。
どのくらい経った頃か、僕は屋敷を出る準備を始めていた。
ビルボにしか、答えは分からない。彼に訊ねるしかない。そのためには。
僕は支度を終え、玄関に立つ。
まずどうするべきかをもう一度考えた末に、サムの家へ向かおうと僕は袋小路屋敷を後にした。
指輪を捨てる、あの旅の始まり。
あの時に劣らず慌ただしい出発だと、頭の何処かで思った。






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