● エルロンド
フロドを始めとした、ホビット族の四人の若者たち。
彼らが再び裂け谷を訪れたのは、この地を去ってそう何日と経たないうちだった。
娘であるアルウェンとも別れを告げ、胸の奥の空洞が広がるのを感じていた頃でもあった。
旅の仲間、そのうちの四人である客人を、私は大いに歓迎する。
そして彼らの目的は、ビルボ・バギンズに会うことだという。
私は少し離れた場所で、ビルボと彼らの話を聞いていた。
それを聞くうちに、フロド達の訊ねたいことがという娘のことだと分かった。
その名前に、覚えはある。
ゴンドールからやって来たボロミアと行動を共にしていた、あの黒髪の娘。
この裂け谷で預かってはもらえないかというボロミアからの申し出も、あの指輪を葬る旅の出立の朝、忽然と消えていた娘のことも、どちらも記憶にある。
そして娘が命を落としたらしいことも、既に聞き及んでいた。詳しくを知るわけではないが。
漠然とそう思い巡らせるうちに、ふと、おや、と思う。
娘はという名前だった。――はて。
今までまるで思い出されなかった記憶が、不意に浮かび上がるのを感じる。
それというのは、ほんの数十年ほど前の記憶だ。
それこそ、ビルボがドワーフ達やガンダルフと共に旅をしてこの谷を訪れた時のことと思う。
はて、ともう一度思う。
あの娘は、あの時もビルボと共に旅をしていた。
見慣れぬ顔立ちであったことから、ドワーフとホビットに混じりながらも幾らかの存在感があったことを覚えている。
何故それを、私は今になって思い出したのだろう?
ボロミアと共に娘がこの谷を訪れたあの時は、初めて会ったように感じていた。
娘の方も、そのような振る舞いだったはずだが――。
そうするうちに、ひとつ思い当たるものがあるのに気付く。
私は控えていた者にそれを伝え、ここへ持ってくるようにと告げた。
言い終えて、彼らに視線を戻す。
ビルボは、すっかり髪も白くなった。
それでも、以前まではまだ元気があった。……指輪を長く持ち続けていたという彼は、そのために老いが遠ざけられていたのだろう。
指輪が破壊された今は、年齢の積み重なりを急に感じさせるようになっていた。それだけの時間が流れた、ということだ。
それだというのに、あのという娘は以前と変わらない姿だった。
人間の中にも長く生きる種族はいる。しかし、そのような者の気配では決してなかった。それにも拘らず、だ。
……娘は、何者だったのだろうか。
彼らの話を聞きながら、私はそんなことを考えていた。
● フロド
胸が、痛い。
先日、この場所で会った時より更にビルボは老いていた。
急速な老いは、指輪を葬ったせいなのだという。……ずっと元気だったビルボを見てきた自分にとって、その姿を見るのは正直に言えば辛かった。
けれど、……今はひとまず、訊きたいことに専念することにする。
サムへ事の次第を伝え、結果、メリーとピピンにも話して皆で里を出た。
皆が似顔絵のに驚き、どういうわけかを知りたがった。
以前よりも地理は分かっていたし、馬に乗ってのことなので思っていたよりも早く着くことができた。
そして今、こうしてビルボと向かい合っている。
「彼に会ったら」、道中でピピンがこう口にしていた。
「質問したいことが山ほどあるけれど、もしこれが本当になら――それって一体、どういうことなんだい?」
答えようもない。
そして一番に訊ねたそうにしていたピピンでさえ、ビルボの老いの様子を目の当たりにして言葉を無くしていた。
サムやメリーも同じだったけれど、彼らに目配せして、肯いてみせる。
僕は、真っ直ぐに目の前の人物に向き合った。
椅子にゆったりと腰掛けながら、ビルボはこちらを見やっている。
その眼差しは、ひどく穏やかだ。まるで春の日差しのように。
僕がそっとの似顔絵を手渡せば、彼は瞬いてそれを受け取りゆっくりと眺める。
「ああ……」、目を細めながら、ビルボはそこにいる彼女を見つめた。
「懐かしいな」、とぽつりと言うのを聞いて、思わず口を開く。
「おじさん、……と昔、会ったことがあるんですか」
「あるとも」、思いの外はっきりと、彼はそう言った。懐かしい、ともう一度繰り返してビルボは続ける。
「もう一度会えたらと……何度思ったろうなあ」
「僕たちが九人でこの裂け谷を旅立った時を覚えていますか? あの時、僕は初めてと会って……でも貴方も、そこに居た!」
「ああ……そうだな」
「ビルボ、昔彼女と会ったことがあるのなら、どうして……」
「嬉しいなあ……また君に会えるなんて、思っていなかった」
「…………ビルボ?」
見れば、彼は似顔絵のを見つめながらも、何処か遠くを見ているようだった。
それでも記憶を愛おしむように彼は言う。
「嬉しかったなあ。一緒に旅した君と、また会えるだなんて……例え夢でも、彼女は会いに来てくれた」
夢と、ビルボはそう言った。
彼はあの時のことを、夢だと思っているのだろうか?
「おじさん! ……ビルボ!!」
思わず声が大きくなるのを抑えられない。
夢ではないのだと、彼女はあの時確かに存在していたのだと分かってほしくて、僕は声を上げていた。
「あれは夢なんかじゃありません! 僕もあの時、一緒に居ました!」
「あの子は大きい人……人間だ。生きていればあの頃と瓜二つなわけがない……」
声が、急に泣きそうな色を帯びてハッとする。
ビルボのその目に、いつの間にかいっぱいに涙が溜まっていた。すぐにその雫が流れ落ちて、頬を伝っていく。
後から後から涙が溢れて、止まらない。
片手でその顔を覆い、嗚咽を漏らしながら、
「夢でも、会えて嬉しかったのに…………どうして」、ビルボの言葉が続いていた。
「どうして、あの時の私は……君を、を思い出せなかったんだろう」
話したいことが、たくさんあったのに。
後はもう、声を詰まらせて泣くばかりだった。
泣き疲れてしまったように、ビルボは寝室で眠っている。
その扉をそっと閉めると、サム達が揃って心配げに僕を窺ってくる。首を振っていたところで、
「混乱しているようだな。ビルボは」、そう言葉を掛けられた。
佇んでこちらを見るエルロンド卿の面持ち、そこには慈しみの表情が見てとれる。
彼にとってビルボは客人だというけれど、その付き合いは長いとも聞く。エルロンド卿なりに、ビルボを気遣ってくれているのがよく分かった。
「ええ。……あの日、僕たちがと会ったことを、夢だと思っているようです」
「無理もない。エルフでも、長命の種族の人間でもないというのに……数十年前に会った時と変わらぬ姿であの娘が現れるなど、信じ難いことだ」
言って、その手に携えていたものをこちらに差し出してくる。
何だろう、と思って皆で覗き込む。
それは一筆箋のように短い手紙、いや、走り書きのような書き付けだった。二通。
片方には、ビルボのものと思しき筆跡がある。その横に、僕には読めない不思議な文字。
そしてもう一通にも、同じような文字が並んでいる。
「あ」、と何かに気付いたような声を上げたのはピピンだった。
「これ、の字じゃないかい」
吃驚して、皆で彼を見る。
聞けば、道中ではたまに日記のようなものを書いていて、近くにいた時にその文字を見たことがあるのだという。
確かに時たま彼女は、何かを書き付けていることがあった。それを、ピピンは覚えていたらしい。
エルロンド卿が、肯いていた。
「私の記憶にある上古の時代にまで遡っても、目にしたことのない文字であった。それ故、些かながらも関心があって残しておいたのだが」
そこで彼は、少しの間を置いて言う。
の字だけの書き付け。こちらは、僕たち旅の仲間の旅立ちの日に残されていたものだという。
けれどもう一通……ビルボの筆跡と並ぶのは、六十年も前のものなのだという。
僕は改めて、彼を見上げて言った。
「貴方も――に会ったことがあるのですか? ずっと以前に?」
「……奇妙なことに、それを今になって突然思い出したところなのだ」
不可解なことを、エルロンド卿は言う。
聞けば、旅の仲間が集ったあの時……ボロミアとが裂け谷を訪ねてきた際には、まるで初めて会うように感じていたという。
なのに、ずっと前に会っていた彼女のことが今になって明確に思い出されたと彼は言う。それは一体、どういうことなのだろう。
思って、すぐにハッとする。
「ビルボも、同じようなことを……あの時は、彼女のことを思い出せなかったと」
「そのようだな。不思議なこともあるものだ」
どういう道理かは解らぬが。
淡々と言うエルロンド卿は、「しかしだとすれば――」と続けた。
「ガンダルフも同じように、娘のことを覚えているかもしれんな。……思い出している、というべきかもしれぬが」
言われて、膝を打ちたい思いだった。
ガンダルフ! 彼もまた、ビルボと冒険を共にした魔法使いだ。その話をこれまで何度聞いたか分からない。
ドワーフ達と共に、はなれ山へ旅立ちそして戻ってきたという冒険――これまでに聞いた話を合わせて考えれば、そこにが存在していた、という方向になるのではないかと思えてくる。
だったら、共に旅したガンダルフもまた、彼女のことを知っている。そう考えるのが自然なように思えた。
「でも……ガンダルフは今、何処にいるのか分かりませんよ」
「探そうにも、相手は魔法使いときてるしなあ」
おずおずと口にするサムに、メリーが腕組みしながら応じる。
その通りだった。
ガンダルフと別れてからまだ何日かしか経っていなかったものの、その足取りを追うのは容易ではない。
彼は現れる時も去る時も突然だ。そこが、如何にもガンダルフらしいのだけれど――。
「ガンダルフとは、いつかまた合見えよう。しかし彼もまた、答えの全てを持ち合わせているとは限らぬ」、
朗々と言うエルロンド卿は、次いで、僕を見て問いかけた。
「フロドよ。そなたの求める謎解きの答えを持つ者に、他に心当たりはないものか?」
心当たり。
言われて、すぐに思い浮かんだ。
のことであれば、あの人物しかいない。とはいえ、その重い口を開いてくれるかどうかは分からない。
それでもいい、と思う。それならばせめて、彼女の似顔絵だけでも、彼に届けよう。
僕が持っているより、彼の元にある方がいいだろう。そう思った。
見上げれば、エルロンド卿はこちらの心を読んだかのように微笑んでいた。
「次に行く場所を見つけたようだな」
「ええ!」
言って、僕はサム達を振り返る。
僕が何処へ行こうとしているかを、既に知っているようだった。
皆に肯いてみせる。言った。
「行こう。もう一度――ゴンドールへ」
● ファラミア
――兄は、作り笑いが上手くなった。
最近そう思う機会が増えたと感じている。
以前のボロミアはそうではなかった。喜怒哀楽は分かりやすく、裏表もない。
全く相手に取り繕うことがないとは言わないが、それでも素直に思いを表現する人柄であった。
彼自身が大きく変わってしまったわけではない。
ただ、今は大きな哀しみを抱えている。それだけだ。
それを悟られぬように、心配をさせまいとして笑みを形作ってしまう。ただそれだけなのだろうというのは痛いほどよく分かる。
……兄が帰ってきてから、彼が心から笑ったことが果たしてあっただろうか?
思い出そうとしてみても、どうしても思い出すことができない。
そしてそれを、自分はどうすることもできないままでいる。
何より私自身、のことをまだ気持ちの上で何処か受け入れきれていなかった。
死には、馴染みがないわけではない。
幼い頃に母を亡くした。これまでに多くの部下を失った。自分自身、死の淵に程近いところを彷徨った。
そして一度、兄がそうなったのさえ目にしている。
……数ある死を見てきたものの、しかし、に関しては何故か、死というものが頭の中で結びつかない。
出会って、時間を共に過ごしたのはごく短い時間だった。
しかしそれにも拘らず、不思議と彼女は、自分のことを解してくれるところがあった。もしかしたら、私自身以上に。
――。
私は今になり、改めてあの黒髪の娘のことを考える。
彼女は、一体何処から来て、何処へ行ってしまったのだろうか。
彼女は、一体誰だったのだろうか。
彼女は、……という存在は、果たして本当に失われてしまったのだろうか。
あの娘の乗った小舟を目の当たりにしていながら、しかし、何かが自分の中で引っ掛かっていた。
目の前に差し出されたのは、一振りの短剣だ。
見間違えようもない。自分のものだ。まだ剣に慣れない子供の頃に使っていたものだが、最初に手にしたものでもあり思い入れがあった。
だがそれは、確かにへと与えたはずだ。
私は兄と共に、それを凝視していた。
レゴラス殿が風のようにゴンドールを離れ、そして数日を経て戻ってきた。
兄には「すぐに戻る」と伝えていたと聞く。しかしそれなりに時間が掛かったところを見れば、遠くまで赴いていたのだろう。
事実、彼は自分の故郷まで戻り、そして帰ってきたのだという。
「森には戻らないつもりでいたから」、とレゴラス殿は切り出した。
「処分されていないか心配した。けれど、残しておいてくれていたよ」
「これを……何処で」
「闇の森で。彼女に、託されたんだ」
「いつ?」
自分に次いで、共に話を聞いていたエレスサール王が、短くそう訊ねる。
王とレゴラス殿との親交は長いということだったが、この件については初耳らしい。
そして「六十年ほど前に」というレゴラス殿の答えに、流石に目を瞬いていた。
だが、断片的な事実が目の前にある。
手に取っても良いかを訊き了承をもらって、鞘から刃を抜いてみる。
に渡す以前は、使わないまでも手入れは行っていた。
ゴンドールの白の木の紋章が刻まれた短剣。
何処をどう見ても自分のものでしかないが、抜いた刃にはそれなりの時間の経過が感じられた。レゴラス殿の言う、六十年という年月を象徴するかのように。
その中で、兄は黙ったまま、こちらを見るでもなく視線を中空に彷徨わせたままだった。
「管理もせず、そのままにしていてすまなかった。……急に、この短剣のことも思い出したんだ」
「急に?」
「ああ」
こちらが繰り返せば、レゴラス殿は肯いてみせる。
経緯は、兄から聞いていた。戴冠式の夜、突然彼がのことを訊ね、そして姿を消したという。
どういう理由かを、闇の森のエルフ殿から改めて聞かせてもらう。
しかしその内容は確かに、俄かには信じ難いものだった。
全てを――といっても、レゴラス殿もそう詳しくを知るわけではないようだった――聞き終えた後。
ほんの少しの間を置いて「は」、と笑いを含んだ息が聞こえた。
見れば、兄が目を細めて相変わらず何処を見るでもなく、しかし、口元には幾らかの笑みを貼り付けていた。
笑っている。そしてそれは、勿論心から浮かぶものでは決してなかった。
「確かにレゴラスが、過去にと会っていたというのは分かった」、
静かに発せられたボロミアの言葉は、だが、と繋げられた。
「だが、それだけだ。……今はもう、彼女はいない」
この中つ国の、何処にもいない。
そう繰り返す兄の顔には、今も作り物の乾いた笑みが浮かんでいる。
――兄は、作り笑いが上手くなった。
何度かそう思いもしてきたが、しかし(やはり違う)と思う。
そこにどんな感情があるのかを、ここに居る誰もが解っている。
それを押し隠すことができていないのだから、ボロミアは作り笑いが下手だ。……本当に下手だと、そう思った。
そうした最中、来客の知らせがあった。
聞けば、自分達のよく知る者たちだと言う。名を聞いて、すぐに通すように伝える。
現れたのは四人のホビット達、そしてミスランディアだった。
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