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五軍の合戦が終わった後。
トーリンさん達の葬儀、そしてダインさんの戴冠式をも終えて、祝宴が催されている中で。
わたしはふと、ガンダルフさんの姿を見つけた。
誰かと言葉を交わし終えて、丁度一人になったところらしい。お酒を手に、手近な椅子に腰を下ろしている最中だった。
わたしはその傍に行って、隣に座ってもいいかを訊ねる。
許可をもらって、わたしも彼と同じように腰掛けた。
しばしの後に、言ってみることにして、訊ねた。
「ガンダルフさん、この後はどうされるんですか」
「そうさの。……ビルボを送っていこうと思っておる」
盃を傾けてから、ゆっくりと彼はそう答える。
そうなるだろうとは思っていた。
まだホビットの冒険のラスト部分は読み終えていなかったけれど、もう本当に最後なのは違いなかった。
物語はもうじき、終わりを迎えるんだろう。思っていると、
「そういうお前さんは、どうするつもりかの」と訊ねられる。
「行くところに当てがあるなら良いが」
「そうですね。当ては……あるにはあるんです」
わたしは小さく笑って言った。
ビルボさんの袋小路屋敷。あそこに身を寄せていたのは、旅立つ直前のほんの短い期間に過ぎなかった。
一時的な居候だったのだと、道中でガンダルフさんにさらりと話したことがある。
それを覚えていてくれて、「行く当て」について、さりげなく心配してくれたのかもしれない。
そしてわたしには、どうしても辿り着きたいところがある。
わたしが行きたい場所。
それというのは、心に決めてあった。
けれどその前に、彼にお願いしたいことがある。
念には念を入れておきたい。そのためには、ガンダルフさんにお願いするのが間違いないだろう。そう確信していた。
それを打ち明ける、その前に。
「それについては一旦、置いておいて。――ガンダルフさん、急に話を変えちゃうんですけど」
「うむ?」
「ガンダルフさんって、マイアなんですよね。それで、本来のお名前はオローリンさん」
魔法使いの表情がゆっくりと変わり、やや真顔に近くなった。
はて、それを話したことが果たしてあっただろうか――そんな顔をしている。
わたしは畳み掛けて言った。
「それから……まだホビット庄を出たばかりの頃に、魔法使いの話になったことがありましたよね。ラダガストさんの他に、青の魔法使いが二人……名前は忘れてしまったって、ガンダルフさんは言ってましたけど」
そのお二人って、アラタールさんとパルランドさんでしょう?
言い終えて、両手で包んでいたカップの中身を一口含む。
飲み下した後に見てみれば、今度こそ正真正銘の真顔になっているガンダルフさんがそこにいた。
もしわたしだったら、目が点になっているところかもしれない。
どのくらいか、たぶんたっぷり一分ほどはこちらを見ていたと思う。
祝宴のざわめき、あちこちで沸き起こるドワーフさんたちの笑い声、話し声、ジョッキとジョッキがぶつかり合う音。
喧騒の中で、わたしたちだけが黙ってお互いを見合っていた。
ようやくのろのろと言った具合で、
「お前さんは」、と灰色の魔法使いさんは言った。
「何処でそれを覚えてきた?」
「勉強してきました!」
胸を張って答えてみる。
他にも、幾らかの知識は蓄えてきた。
わたしは映画から入ったので、原作の深い部分や設定はまだてんで素人の範疇だ。
それでも最低限、彼に信用してもらえればそれでいい。
続けた。
「何でしたら、もう少しお話してもいいんですけど……」、
そこまで言って様子を窺えば、向こうはまだこちらをまじまじと見ている。
少し調べてきただけだったけれど、程々のインパクトはあったらしい。信じてもらうには充分そうだな、と判断した。
これから伝える内容くらいは、どうにか頼めるかもしれない。
「……まあ、そこは割愛して。手短に言いますね」
お願いがあるんです。
そう伝えれば、ガンダルフさんは瞬いた。
「大いなる年っていうのが将来、来るんですけど……その時まで、伝言を預かって頂けませんか?」
もし、お願いできればの話ですけど。
絶対にとは言いません。ただ、頭の片隅……本当に、隅っこの端の端の方でいいんで、覚えていてもらえたら、ありがたいんですけど。
そう彼に伝える。
ガンダルフさんは少しの間、何かを考えている様子だった。
本当に少しの時間だった。すぐに、それが何なのか話してみるようにと言ってくれる。
わたしはこれから、ボロミアさんに会いにいこうと思っている。
けれど勿論、上手くいくかどうかなんて、分からない。
もうじき物語は、終わりを迎える。そうなったら、ガンダルフさんともお別れになると考えていた方がいいのだと思う。
なら、今、この場で話しておくしかない。
わたしはそう思って、自分のことを話し始めた。
● アラゴルン
旅の仲間が、再び顔を揃えていた。
レゴラスが戻ってきた。その報せを聞いて、寝室で眠り込んでいたギムリが飛び起きてくる。
執政殿は、兄弟揃ってレゴラスの話を聞いていた。
そしてその最中に、ホビット達とガンダルフまでもが連れ立ってやってきたのだ。
もしこの場にがいたなら、本当に旅の仲間は全員が揃っていたことになる。
そしてガンダルフが言うには、正に彼女のことを伝えるためにここへ戻ってきたのだという。
「なぜ今になって思い出したのか、わしも自分が不思議でならぬ」
彼はそう言う。
一度このゴンドールを離れ、皆とも別れた後になってから、に以前会っていたことを突然思い出したという。それこそ、レゴラスと同じように。
この地を目指す道中、ホビットたちと合流したのはつい先程なのだとか。
そしてホビットたちもまた、驚くべきものを携えていた。
フロドはこう告げる。
「ビルボと……エルロンド卿も同じように話していました」
彼らも、と会ったことがあるのだと。
説明する中でフロドが差し出してきたのは簡潔な書簡に、それから似顔絵だ。皆がそれに、特に絵の方に目を奪われた。
また執政殿のうち弟の方は、書簡を手に取るやすぐさま、書かれているのがの文字だと断じる。
それは一体、何を指し示すのだろうか?
レゴラスの話を肯定する材料は確実に増えてはいたが、その方向がまるで見えない。
「ガンダルフ。……彼女は、どのような伝言を貴方に託したのですか」
ホビットたちが、自分たちの知り得る限りのすべてを話し終えた後。
ややあってから、私は魔法使いに訊ねた。
彼が言うには、は五軍の合戦のあった直後に伝言を残したという。
それは何か。……それは一体、何なのか。
彼女は何を伝えたかったのだろうか。
ガンダルフは少しの間を取って、唸るような息を漏らした。言った。
「『自分は大いなる年から来た』と言っておった」と。
「『訳あって今はここにいる』ともな。……とにかく自分は生きていると、ゴンドールの執政に伝えてほしい、と」
今まで押し黙って話に聞き入っていたボロミアの肩が、微かに揺れた。
だが、その視線は似顔絵のに注がれたまま動かない。
フロドから手渡されたそれ。私から見ても、よく描けている絵だと思う。
このように目線を投げかけてくる娘だった。
そう思いながら自分もまた、僅かな時間を共にしたことを思い出している。
素直だが、思いもよらないことを仕出かす娘だった。
裂け谷での出立、あの指輪を捨てる旅の始まり。
もっとも彼女にとっては、ゴンドールへ戻るためのものだったのだろう。あの旅路に、毛布に紛れ込んでついてきた。
あの日の早朝、彼女を見掛けて声をかけた記憶がある。
出立の見送りにはあまりに早い時間だった。だから、ひとまずそう伝えただけだった。さすがに、あの行動は予想だにしていなかった。
ホビットたちの力添えがあったとはいえ、数日もの間、ボロミアや私もその気配にまるで気付かなかったのだ。
呆気に取られる、さえ通り越していた。今思い返しても、ある意味では大したものだ。
旅中では、逆に大人しかった。
カラズラスやモリアといった道筋は、相当辛かったに違いない。
それにも拘らず、泣き言一つ口にしなかった。時折、ボロミアを心配げに窺っていたのを覚えている。
かと思えば、ロスロリアンでは見たことのない菓子を配って歩いていた。
味は決して悪くなかったが、この頃にはすでに、自分はに対してひとつの疑問を抱いていた。
この黒髪の娘は、何者だろうか。
人間という種族ではある。
ただ、形容し難い何かが違う。そう感じていた。
顔立ちは確かに多く見掛けるものではない。だが、そういう上辺のものではなかった。根本的に、何かが決定的に違っている。
それは、ごく小さな違和感だった。
砂礫のように微細な、自分の中のどこかに引っ掛かるような感覚の断片。
けれどそれは、嫌な違和感では決してなかった。
何より、悪意など微塵も感じられない。
ボロミアの傍らで笑んでいたのは一人の黒い髪の娘であり、ロスロリアンで「どうすれば彼の力になれるのか分からない」と言って悩んでもいた。
その姿は、ふつうの人間の娘でしかない。
だからこそ、私はその小さな疑念の芽を敢えて捨て置くことにしたのだ。しかし――。
私はボロミアを見た。
彼が一度倒れたのを、私は覚えている。
あの時感じた深い悲しみを、辛く耐えがたい喪失感を、流した涙を覚えている。
だが、それは覆された。
代わりに倒れたはまるで苦痛を見せる様子もなく、私に向かって「物語を変えてしまった」と詫びたのだ。
何が起きているのか分からなかった。
そんな中で、「ああ、あと」、と彼女はこちらをボロミアを交互に見ながら付け足すように言う。
「わたしが息を引き取ったら、舟に乗せて川に流しておいてくださいね」。
じゃないと、ファラミアさんが葬送の舟を見る場面がなくなっちゃいますから。
血を吐きながらアンドゥインの方向を指差しつついつもの具合で言うの姿は何とも言えなかったが、とにかく、彼女はそう訴えていた。
彼女の言葉は、何を意味していたのだろうか。物語とは一体――
「ガンダルフ」
呼び掛ける声に、思考は中断する。
ボロミアが、ずっと見つめていた似顔絵からようやく視線を外していた。
真っ直ぐに魔法使いの方を見つめている。直視するあまり、その目はまるで射るような鋭さを備えていた。本人は、気付いていないだろうが。
彼の声が続いていた。
「は……その後、どうなったのだろうか」
「…………」
「自分の国に帰ったのか。あるいは、そのまま中つ国に留まったのか……そして」
今この瞬間、は何処でどうしているのだろうか。
彼の問いに、ガンダルフは首を振る。
それから彼女とは会っていないのだという。
魔法使いの答えに、ボロミアは息を吐いた。落胆の色は濃いものだった。
それはそうに違いない。今が死なずに生きているとするならば、何処でどうしているのかを知りたかっただろう。
しかしガンダルフはその後長い間、彼女と会うことはなかった。
そう、裂け谷で会議が開かれ、指輪を捨てる旅の仲間が集ったあの時になるまで、ガンダルフとは再び出会うことはなかった。
「結局……何も、分かりはしないのだな」、
押し殺した声でボロミアは言う。
「彼女が死の後に目覚めたのは、数十年前の中つ国だった。……それだけだ」
が、無事に自分の国に帰ることができたのか。
それさえ、今は分からない。
自嘲するかのように薄く乾いた笑いを浮かべる彼に、
「ボロミア」、と魔法使いは呼びかけた。
ガンダルフは続ける。
「はこうも言っておった。……これから、大事な人に会いに行こうと思っている、とな」
ボロミアの口元が一瞬強張る。
「それは――」、
数拍の間を置いて、彼はガンダルフに訊ねていた。
「それは……どういう意味を指すのだろうか」
「わからぬ。とにかくそれだけでも構わないから伝えてほしい、と」
長い髭を撫でつけながら、ガンダルフも難しい顔をしている。
自身が、それ以上を口にしなかったという。
再び会うこともなく、どんな意味合いなのかを確かめることも叶わず、記憶はガンダルフの中に埋没していたのだろう。
しかし今、この時になって不思議なことが起こった。
以前、に会ったという者たちが揃いも揃って、彼女を思い出したのだ。
「ボロミア」
私は彼を呼んだ。
呼ばれた本人だけでなく、皆の眼差しがこちらに集まる。
「このような言い方になるが、悪気はないつもりだ」、私はそう前置きをした。
ボロミアが一度瞬くのを見てから、
「は……」、一度言葉を切った。言った。
「は――あの娘は一体、何者だったのだ?」
私はそう問うた。
あの黒髪の娘は、一体誰だったのか。
それを訊ねるのであれば、おそらく、今しかない。そう思った。
「私はボロミアが話してくれる時を待つつもりだった。もしその日が来ないのなら、それでも構わないと思っていたが……」
しかし、こうして出揃ってしまった。
旅の仲間も、彼女が以前に存在した証の品の数々も。そして、ガンダルフから届けられた伝言も。
続けた。
「だが、もし話してくれる日があるとしたら……、それは今日ではないだろうか」
それだけを告げて、彼を待つ。
もしもまだ口を噤むのなら、それでいいと思った。無理をさせるつもりも、何もない。
私は、彼の意思を尊重したい。
だから、後はボロミアに委ねよう。そう思った。
どのくらい経った頃か、目を伏せながら彼は重い口を開いた。
「信じてもらえるかどうか……分からぬが」
「信じるとも」
私は肯いた。
見れば、この場にいる者たち全てが、同じように応じていた。
自分とて、目の前のボロミアが一度倒れているのを見ている。今更、何を疑おうというのか。
彼の言葉であれば、どんな話であっても信じよう。そう思う。
そんな自分や皆を見渡して、彼は……ボロミアは一言、ぽつりと言う。
「は、――物語の外側の人間だ」
物語。
そのこぼされた言葉を掬い上げるように、執政殿の弟が呟く。
それというのは、何なのか。
彼女が「物語」を変えなければ、私たちは永遠に失っていたのだろうか。旅の仲間を、彼という友を、ボロミアという、何にも代え難い存在を。
そうだとしたら、――。一体何という娘なんだ、君は!
思いもよらないことを仕出かす黒髪の娘。
彼女を思ううちに、胸が熱くなる。
他の者が瞬く中、やがてボロミアは、静かにのことを話し始めた。
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