仄かな暖色は、空間をやわらかく満たしている。
眠る前に使っている灯りをできるだけ隅の方に追いやってはみたものの、気休めだった。僅かな暗がりでしかない。
すぐ傍にいる人の表情ならはっきりと見てとれる。
だからベッドに横たわってからは、ずっと目を閉じていた。
ボロミアさんの手は、ゆっくりとした動きをしている。
滑るような触れ方ではなく、少しずつ位置をずらしながらわたしの輪郭を確かめていくような、そんな感じだった。
片腕にしたって二の腕から肘、手首、手のひら、指先、そのひとつひとつをそっと押さえていく。
……心臓の音がうるさくて、何も考えられない。
最初こそそうだったものの、ぼんやりとした頭の中、それでもその触れ方が(本当に自分のことを覚えていてくれようとしている)のだと思い至って、胸が詰まりそうになった。
やがてその手がわたしの頬に落ち着くと、そこから動かなくなった。
微かに撫ぜてくる手のひらが熱を帯びている。薄く目を開けて向こうを窺えば、ボロミアさんは静かにこちらを見つめている。
何も言わずにわたしがその手を取れば、彼はそのまま、されるがままだった。
そっとわたしは、ボロミアさんがしたみたいにその人の身体に触れた。
こんなふうに、素肌に触れるのは初めてだった。
わたしのそういう意味での精一杯は、せいぜい抱き合うまでがいいところだった。
それだって、最近になってようやくのことだったのだから。
だからこそ、その力強さに満ちた身体にどきどきした。
自分のものとは明らかに違う。全体的に大柄な体躯に厚い胸板、引き締まった下肢、逞しさに溢れた肩から腕にかけて。
手のひらだって、その厚みはわたしのものとは全然違っていた。この手が剣を握り、今までずっとあの世界で戦ってきたのだ。
ボロミアさんが紛れもなく男の人なんだというのを、わたしは改めて感じていた。
どのくらい経った頃か、わたしの手もまた、彼の頬に触っていた。
ジッとその間近にある碧の目を見つめていれば、
「もういいのか」、とだけ彼は言った。
肯き返せば、ボロミアさんは微かに笑んだ。
「……はやわらかいな」
「ボロミアさんは……逞しいですね」
たぶん、お互いの率直な感想だったのだと思う。
わたしは彼の頬から首筋、その胸に手をずらしながら続けた。
「かっこいいな……」
声が、夜の時間の中に静かに消えていく。
ほんの少しの間があった。
互いに見つめ合っていたわたし達は、どちらからともなく口付けた。
そうして、固く抱き合った。肌と肌が密着していたけれど、気にしなかった。
どのくらいそうしていたか判らない。
「」
けれど、ボロミアさんは静寂を破ってわたしを呼んだ。
「はい」
「……まだ、口にして伝えていなかったな」
「…………?」
何を。
一瞬そう思う。すぐに彼は、その答えを教えてくれた。
耳元でそっと囁かれたそれは、言葉とは裏腹に、何処か痛みさえ孕んでいるような色をしている。
けれど同時に、それは驚くほど優しい色にも満ちていた。
ボロミアさんの声は、わたしの中に深く響いた。
「愛している……いつからだったかは、もう分からないが」
未だ抱き合ったままでよかったと思う。
そうでなければ、ただでさえ熱い頬っぺたが更に熱を帯びるのを見られていたかもしれない。
ぐるぐる回る頭の中で、
「わたし……わたしは…………」
どう返せばいいのかを必死に考えた。口の中で言葉をどうにかこうにか並べ立ててみる。
言った。
「わたしは……こうしてお会いするよりもずっと前から、……ボロミアさんのことが好きでしたよ」
「…………ずるいな、それは」
「ずるい、ですか」
「ああ。……そうは思わないか?」
「そう……かもしれませんね」
わたしは少し笑った。
確かに、そうなのかもしれない。
彼はわたしと出会うまでは、当然ながら、こちらのことを何も知らなかった。
それなのに、わたしは既にボロミアさんのことを知っていたのだから、ずるいと言われるのも仕方ない。
仕方ないけど、仕方なかった。
わたしは自分で思っている以上に、ボロミアさんのことが好きだったみたいなのだから。
少なくとも、うっかり世界を一足跳びに飛び越えてしまう程度には。
「ボロミアさん」
「うん?」
「……たぶん、わたし今、しあわせです」
「そうか」
彼の言葉には、何か満たされたような響きがあった。
けれど、
「なんですけど」
「…………?」
「しあわせなのに、どうして、こんなに苦しいんですか……」
そんなつもりはなかったのに、ほんの少し語尾が震えてしまう。
ボロミアさんはすぐには何も言わず、ただそっとわたしの頭を撫でてくる。
次に紡がれた言の葉には、何処か自嘲にも似た色が見え隠れしている気がした。
「私のことを、そう悲しむことはない……」
「そんな」
「そうだろう? ……私は、物語の登場人物に過ぎないのだから」
だから、悲しむ必要など何もない。
そんなふうにその人は言う。
わたしは今なお抱き合った形のまま、何度か首を振った。そういう意味で指輪物語のことを伝えたのではない。
「それに……は、私が犯した過ちのことも知っているのだろう?」
「…………」
ややあってから、わたしは一つ肯いた。
「なら、尚更だ。……私は償いをしなければならない」
「償いなら、もうしたじゃないですか……」
掠れそうな声が出た。
もう充分すぎるほどの償いを彼はしている。
そもそも、それというのは果たして、死を以って償うほどの罪だったろうか?
人なのだから間違いもある。だけど……たった一度のそれを責め立てて何になるだろう。
やり直す機会の一度くらい、あったっていいはずだ。
わたしは、そう思った。
思いつく限りの言葉を彼に伝える。
この物語を読んだどれだけ多くの人達が、ボロミアさんを敬い尊敬しているか。
この映画を観たどれだけ多くの人達が、最後まで戦い抜いたその姿に胸を打たれたか。
確かにゴンドールでこの人は勇者であり英雄だった、けれど、それはこの世界でもそうなのだ。
たくさんの人が、ボロミアさんのことを愛している。
それを話している間、ずっと彼はわたしの頭を撫でてくれていた。
「ボロミアさん」、
一度、言葉を切った。意を決して、訊ねる。
「わたしはボロミアさんに生きていてほしいです……」
「…………」
「本当言うと、こちらの世界にいてほしいと思ってます……それでもやっぱり、戻りますか? ……中つ国に」
「……すまない」
分かっていた答えが、そこにあった。
還ればどうなるのか分かっていて尚、だ。
そこにどんな思いが含まれているのか、全ては想像できない。けれど彼なりの決意であり、それはボロミアさんの意志だった。
そしてわたしは、それをそのまま受け止めることなどできなかった。
彼は、確かに生きていた。
もはやその人は、物語の登場人物などではなかった。
今こうして抱き合っている身体、そこには確かな力強い鼓動があり、体温があり、そして命があった。
わたしと、何も変わらない。……一人の、人間の男の人だ。
一体わたしと、何が違うというのだろう。
そんなこの人に、筋書きだからと、死すべき定めだからと、物語をそのまま受け入れるようにだなんてとても言えない。言えるわけがない。
しばしそのままでいながら、わたしは自分がどうすればいいのかを考えていた。
落ち着いた頃になって、
「ボロミアさん」、と声を掛けた。
「……そろそろ、服着ましょうか」
「何故」
「いえ、あの、……だって」
「……このままでは駄目か」
「え、えっと」
何かを言おうとする間にも、ぎゅうと向こうの抱き締めてくる力が少し強くなる。
それというのは、正直に言うなら嬉しいけれども、このままというわけにもたぶんいかない。
どうしてかというと、
「わたしもそうしたいのはヤマヤマなんですけど……」
「けど、なんだ」
「だ、だから……うっかりマッパで向こうに戻っちゃったら大事故ですよね?」
「マッパ?」
「真っ裸のことです!!」
何を言わせるのだ、という意味も込めてその胸に軽く頭をぶつけてやった。
けれど、それでようやく納得したのらしい。
そうか、そうだな、と肯いて半身を起こしたので、わたしもそそくさとベッドを出て、近くに置いておいた服を着る。
互いに衣装を身につけると、さっきまでそうしていたように再びわたし達は身体を横たえた。
もう、残りの時間が少ないことをボロミアさんも解っているみたいだった。
「……」
「はい」
「眠ったら……その後はどうなるのだろうな」
「…………。わたしも、やってみないとわかりません」
一度そうまで言って、少し間を空ける。
嘘ではない。実際、上手いこと自分が思い描いている通りになるとも限らないのだから。
続けた。
「今までだったら、向こうから出てきたのと大体同じ時間に戻ってました。でも……」
わたしは考えていることを伝える。
わたし自身は、ボロミアさんの死んだ後の場面からこちらの世界に帰ってきた。
けれどボロミアさんは、その少し前の場面に戻ったところからやって来ている。
今、二人で中つ国に戻れば、どちらの場面に行き着くのかはわたし自身も判らない。
「そうか。……なら、私はもしかしたらこのまま――目を覚まさないのかもしれないな」
「…………」
何か言おうにも、声が出てこなかった。
どうなるにしろ、彼は、自分の定めが変わらないと思っている。
でも、もしもわたしが思い描いた通りになるとすれば、そうはならない。
――どうか、上手くいってほしい。今は、そう願うしかない。
「」
「はい」
「私を中つ国に見送ったら……こちらの世界に戻って、幸せになれ」
「…………」
何も言えなくなって、息が詰まりそうになる。
言葉は、もう見当たらない。ただただ彼の背に回した腕に力を込めた。
向こうもそれに応えるように抱き締めてくる。
どのくらい経った頃か、微かな寝息が聞こえてきた。それを感じながら、こちらも微睡みの中に沈み込む。
その淵に落ちるほんの少し前、ボロミアさんの腕に抱かれながら、わたしは一つの決断をした。
――眩しい。
そう思って目を開ければ、まだらの太陽があった。
差し込んでくる木漏れ日が揺れている。陽はまだ高く、そして程近くに音があった。
戦いの音。
反射的に腕時計を見れば、針は、わたしが思い望んだとおりの頃合いを示している。
「――よし!!」
思わず利き腕を立てガッツポーズを――し掛けて止めた。
それどころではなかった。
仲間の皆が休んでいた川沿いではなく、林の中の何処かだった。
場所がすぐには判らなくて、何だってこんなところにと思うよりも早く走り出していた。
向こうに、決して少なくはない数のオークの姿がある。
走りながら少し経って、ボロミアさんが戦っていた場所に近い何処かなのだと思い至る。
夢は、わたしが望んだとおりの場面に還してくれただけでなく、戻る場所をもショートカットしてくれたのらしい。
わたしは、わたしの夢に心の底から感謝した。
ただそれも、きっともうじき終わりを迎える。
今は走るしかない。
わたしはボロミアさんの元へと駆けた。
混乱していた。
自分は――、一体、どうなったのか?
気付けば、自分は戦場にいた。
ピピンとメリーが傍らにいて、そして辺りには、既に倒したオークが何体も転がっている。
記憶ははっきりとあった。
と彼女の世界へ渡り、一日を過ごして最後には目を閉ざした。もう、目覚めることはないというのを覚悟していた。
それなのに今、自分はこうして立っている。剣を手に、ほんの一刹那立ち尽くす。
僅かな時間だった。すぐに両手に握り直し、眼前に迫っていた怪物に斬り付ける。
ものを考えている場合ではなかった。
しかし、そうも経たないうちにの言っていた「場面が戻った」という状況なのだと理解し始める。
そうした中で、私は別のことに気が付いた。
ピピンとメリーまでもが、何か戸惑った様子なのだ。
「走れ!!」、
そう叫べば応じて退くが、彼らの声にはやはり動揺の色があった。
「メリー! ボロミアが……」
「生きてる……さっき見たのは、夢……!?」
聞き取れたのは、そんな言葉だった。
それが何を意味するのかを考える暇などなく、彼らを守るためだけに戦う。
ふと感じたのは、既視感だ。
知っている。この後に何が起こるのかを、私は知っている。
記憶では、もうじき自分は――
ハッとして、その方向を見る。
番えられた矢がこちらを捉えている。逃れられない。そう思った。
けれど、それでいい、とも思う。……自分の犯した罪、その償いのためならば、何度でもその報いを受けよう。
思ったのとほとんど同時に、飛び出してきた影があった。
黒髪のその後ろ姿は、愛しい者によく似ていた。
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