昼下がりの街中は、人々の行き交う姿で溢れている。
平日のはずだったけれど、それでも心なしか人の数が多いような気がする。
この、春めいた暖かさのせいかもしれない。
わたしはふと頭上を見上げた。
雲で時折見え隠れしているものの、陽の光のぬくもりが辺りにあった。いよいよ初春の気配が感じられる。

そんな中にいながら、ボロミアさんはずっと黙りこくっている。
書店を出てからというもの、一言も発していなかった。
わたしについて来てはいるものの、心ここに在らず、という感じだ。

……それというのは想像通りだったし、自分のしたことをわたしは後悔してもいなかった。
こうやって別の世界に渡ること、それ自体は以前にも一度経験しているのだから、そこまで驚愕するでもない。
けれど、さっき伝えたばかりの内容。
それというのは、流石にすぐ呑み込めるようなものでもなかったはずだ。
それで当然だし、それでいいと思う。
ボロミアさんが全てを話してくれたように、わたしも全てを伝えたかった。
そうしてその上で、これからどうしたいのかをもう一度彼に問いたい。そう思った。
物語という定めの枠から逃れたっていいと、今のわたしは思っている。
……ボロミアさんに、生きていてほしい。

だから、もう少ししたら、また訊ねてみようと思う。
けれど、時間が必要だ。
目の前に提示したものを信じてくれるにしろそうでないにしろ、どちらにしても。

「ボロミアさん」
「…………うん?」

数拍の間の後、彼がそう応じてくれる。
さっきまでその顔にあった呆然とした色は、もう大分薄れていた。けれど、まだ微かにぎこちなさが残っている。
それでも、会話をする程度なら差し支えないと判断した。

「これから、どうしましょうか」
「そう……だな」

ぽつりと言って、彼はそのまま沈黙した。
たぶん、何処かへ行こうとか、そういう気分ではないと思う。
頭の中を整理する必要がある。わたしはそんなふうに見当をつけて、敢えてこう言う。
「わたし、ちょっとだけ疲れちゃいました」と。

「そうか。……すまない、あちこち案内させてしまったな」
「いえ、わたしは楽しかったですよ。……それで、あのう。ボロミアさんが良かったら、なんですけど」

わたしは一呼吸を置いた。
口の中で言いたいことを整理して、それから彼を見上げる。
丁度流れていた雲が途切れて、サッと眩しく陽が差し込めた。ボロミアさんの茶金髪がその光を受けて煌めいていた。
眩しいな、と思った。
眩しく見えて仕方がない。この人の何もかも、全てが。
思いながら、わたしは言った。

「帰って、ゆっくりして、夕食を食べて、お風呂に入ったら……また色々、お話しましょう」
「…………」
「そうして、気が済むまでお話したら……心行くまで眠りましょうか」
「……眠れば、中つ国に戻れるのだったな」
「ええ。だから――」

その先のことを、今は敢えて考えまい。そう思いながら、わたしは言う。

「時間はまだ、ありますから。……一緒に過ごせたら、嬉しいです」
「私もだ」

そう言って、彼は笑った。
何か痛みを押し隠すような笑顔だったけれど、それでも。




説明自体には、それほど時間も掛からなかった。
数えてはいないけれど、一、二分程度だったかもしれない。
だって口にしてみれば、ごくごくあっさりとした事実でしかないのだから。

わたしは書店でボロミアさんに伝えた指輪物語の話のことを思い返していた。
信じてくれるだろうかと思いながら彼を窺えば、ジッと見つめていた本の頁を恐る恐ると言える様子で捲って――
すぐに、その眉間に皺が寄った。

「読めん」
「えーと……それは、まあ。日本語ですから」
「……ファラミアなら読めただろうか」
「いえ……漢字も多いですし、ファラミアさんでも難しいと思います」

そう返しながら、わたしはふと今名前の挙がった人物のことを考える。
ファラミアさん。
ボロミアさんとは別に、彼もまた大切な人の一人だった。
もし物語通りの展開とはまた違う形で、ボロミアさんが還らなかったなら……彼は、ファラミアさんはどうするのだろう。
もしボロミアさんをこちらに留めたなら、向こうではおそらく、行方が知れないことになる。
映画の二部であったような、ボロミアさんの葬送の船を見ることもないだろう。
何の手掛かりも無いまま、ファラミアさんは兄を探すのだろうか。

は、最後まで読んだのか」
「わたしですか」

そう訊ねられ、その時のわたしはひとまず思考を断ち切った。
「読みましたけど……」、
言いながら、ちょっと言い淀む。
というのは実際、そう深く読み込んだ方とは言えないからだ。
そもそも自分は映画から入ったクチで、原作はさらっと読み流した程度だった。

ふと平積みの本、そして棚に並んだ関連本にも目を落とす。
シルマリルの物語、終わらざりし物語……それにホビットの冒険。
こちらの方はタイトルこそ知っていたものの、わたしはまだ、それらのどれにも手を付けていなかった。
映画化された時に読もうと、そう思っていたのだ。

それはさておき、わたしは訊かれたことに答える形で補足していった。
原作と映画についても触れておく。映画については以前「お芝居みたいなものです」と雑談の中で話したことがあった。
そうして自分が、この物語のことをようやく思い出したということも、何もかも全部を彼に打ち明けた。
全てを知った上で、ボロミアさんはそれでも、中つ国に還りたいと言うだろうか。
彼の答えは、やはり変わらないのだろうか。
……もう一度。
もう一度だけ訊ねよう。わたしはそう心に決めていた。そうしたら――。



ハッとする。
見れば、お風呂から上がったボロミアさんがこちらを見下ろしていた。
夕食も終えて、先にこの人に入ってもらおうと思ったのに「私は後でいい」と言われ、こちらが先にシャワーを浴びたのだ。
つい一人で髪を乾かしたり後片付けをしたりしている間に、色々と考え込んでしまっていたみたいだった。

「さっぱりしましたね。あ、これ、ドライヤーです」

使ってくださいと手渡す前に一度スイッチを入れて見せれば、熱い風とその音にぎょっとした様子で目を瞬く。
これで髪を乾かすのだと教えてそのまま渡せば、最初こそ怖々としていたものの、すぐにそんな様子は消えた。
スイッチを切り乾いたその茶金髪に自ら触れて、
「便利なものだな」と感嘆したみたいに言うので
「確かに」、と肯いてしまう。

「水浴びの時、これがあったら助かったでしょうね」
「……今更だが、持ってはこれなかったのか」
「えーと、持っていけなくはないんですが、電源がないと言いますか……」

わたしは伸びるコードを指して、燃料が持ち運びできないことを話し伝える。
そんな平和なやり取りをしながら、不意に、自分の胸がいっぱいになっているのに気付いた。
……これまでだって、何でもないような言葉のやり取りを何度となくボロミアさんと交わしてきた。
それはとても幸せに満ちた時間だったんだなあと、今になって分かってしまったので。
表立ってそれを今、顔に出したりはしない。
わたしはいつもみたいに振舞っていたけれど、それでも。

それでも、わたしは彼に向き合った。
この人に、もう一度訊ねよう。
これからどうしたいのかを、本当に向こうに戻りたいのかを。
答え次第だ、と思った。
わたしがこの人にできること。それはきっと、彼の答え次第なのだ。


「はい」
「一つ……頼みたいことがある」
「何でしょう」

神妙な様子でボロミアさんが言うので、思わず背筋を伸ばしてしまう。
そんなふうに向こうから何事かを切り出してきたので、わたしはこちらの質問をひとまず引っ込めて続きを待った。
彼はそうは言ったものの、何処か言いにくそうに口籠っている。
少し待ってみても続きがなかなか出てこないので、
「……言いにくいことですか?」と訊いてみる。

「そう……そうだな。……こんなことを言えば軽蔑されるのではないかと思っている」
「たぶん、そんなことないと思いますけど……」

一体、何を言い出すのだろう。
わたしは内心首を傾げた。本当に、そんなことないのにと思う。余程、難儀なことなんだろうか。
そう思いながら待っていると、どのくらいか経った頃にようやくその口が開く。
本当にやっとという感じで、ボロミアさんはその言葉を押し出した。

「……おまえに触れたい」
「はい、どうぞ!」

わたしは(なあんだ)と思い、咄嗟に躊躇うことなく両手を差し出してみせた。
そんなことくらい、早く言えばいいのにとさえ思う。
けれど、ボロミアさんは手を取ろうとするでもなく「いや……」と呟いたまま、またも口籠ってしまう。
わたしは疑問符を浮かべた。
……こういう意味じゃないんですか?
そう内心思いながら、取り敢えず出した両の手を引っ込める。
そのまま次の言葉があるのだろうかと待ってみれば、やがて彼は続きを口にした。

「……おまえの全てに触れておきたい」
「…………?」

まだピンと来ないわたしに、困ったように向こうは目を泳がせている。
やがて、
「それ以上のことはしない」、
という言葉があった。
それからたっぷり十秒くらい経って、ようやくどういう意味かが解った。

のことを、もっと鮮明に覚えていたいのだ……」
「……えーと」

わたしはとりあえず考え込んだ。
頭の中をぐるりと一周する。ほんの僅かな時間のことだった。
言った。

「服、脱いだ方がいいですか? ……いいですよね?」
「そ、それは」

やや狼狽したように言葉に詰まるボロミアさんがそこに居た。
言い出しっぺの方が赤くなっている。
わたしはちょっと笑いそうになってしまったのと、すぐに意味が解らずにそこまで言わせてしまって申し訳ないというのと、今のこの人がどんな気持ちでいるのだろうかというのを思うとどんな顔をしていいか判らなかった。
ただ、ボロミアさんがわたしのことを記憶に焼き付けようとしてくれている。
それだけは理解できたし、わたしも覚えていてほしいと思う。
差し当たって上着を脱いでいると、ギクリとしたみたいに向こうは強張っていた。

「……いいのか?」
「何を今更……というか、ボロミアさんも脱ぎましょうよ」
「わ、私もか!?」
「…………ボロミアさん、わたしだけ脱がすつもりなんですか?」

思わず半目になって言うと、ますます彼は真っ赤になった。
自分の方には気が回っていなかったらしい。だから、わたしは思ったままを言った。

「ボロミアさん。――わたしだって、ボロミアさんを覚えていたいですよ?」

それだけを伝えれば、向こうはぐっと詰まったみたいな顔をした。
けれどすぐに、
「本当に、それ以上のことはしない」とだけ念を押すように繰り返して、それから彼も上着を脱ぎ始めた。
それでいいと思う。
これから先のことを考えるなら、線引きをしておく必要はあるだろう。

同時に思った。
……やっぱり、ボロミアさんの答えは今なお変わっていないのだ。
彼は、定めを受け入れようとしている。
だからこちらを案じて、一線は超えないと明言したのだと思う。この人が今、どんな気持ちでいるのかを思うと胸が痛んだ。
痛んだけれども、

「……あのう、灯り消しますね」
「何故?」
「な、何故と言われましても」

真顔且つ率直にそう言われてしまい、今度はわたしの方が困って詰まってしまう。

「あんまり明るいところで見るようなものでは……」
「暗がりでは、の顔も見ることができないな」
「……ち、小さい灯りのほう点けますから……でもあの、あんまり見ないでくださいね」
「何故?」
「恥ずかしいからです!」

言えば、一瞬きょとんとしたように、そしてすぐにボロミアさんは小さく笑い出した。
一体何処に、笑う要素があったというのだろう。
「なんで笑うんですか」と問えば、「いや、何」と彼は含み笑いを続けながら言う。

「自分から脱ぎ出す、私にもそうするように言う。……恥ずかしくないのかと思ったのだが」
「そんなわけないでしょう……」
「そうか。いや、安心した」

目の前にいるのは、いつもどおりののようだ。
そんなふうに言うボロミアさんに、わたしは手にしていた脱いだばかりの上着を投げつけてやった。
よくよく考えないまでも、白の塔の大将様にするには大変な無礼だったけれども、とにかく。






←BACK      ▲NOVEL TOP      NEXT→