朝の日差しを感じる。
耳に微かなざわめきが届いてくる。何人か……たぶんまだ、数人程度。ドワーフさん達が目を覚ましているらしい。
わたしは目を開けて、辺りを窺った。
少し離れた先で、ビルボさんが寝息を立てている。
ドワーフさん達も、半分方が未だ寝入っていた。まだいくらかは微睡んでいてもいいかな、と判断する。

寝床代わりの藁からは、いい香りがした。
よく干されて乾いている。陽だまりを連想するような、どこか懐かしい匂い。
その中にいながら、ゆるやかに今の状況についてを思い巡らせる。


ガンダルフさんに導かれて、昨日この館に辿り着いた。
ずっと、走り通しだった。
「旅の仲間」では、少なくともわたしが参加していたルートに限っては、走る場面は少なかった。歩き通しではあったけど、走るのに比べればそこまで苦でもない。
けれど、ここ最近はゴブリンに追われワーグに追われ、昨日に至っては大熊に追われる始末だった。
全力ダッシュの連続で、やっぱり疲弊していたらしい。夕べはすぐに眠りに落ちてしまった。
慌ただしい行程の中で、今は一息つける時間だった。

(でも、ここってビヨルンさんの家なんだよね……)

心のうちで、思わず呟く。
ガンダルフさんが言っていた。昨日わたし達を追い立ててきたあの大熊こそがこの館の主であり、ビヨルンという名前なのだと。
その名には聞き覚えがあった。
ホビットの冒険に登場する人物の一人だ。
まだ原作を読み終えていなくとも、こちらの物語に登場する何人かについては、名前だけは聞いたことがある。
特に耳にするのは、バルド、エルフの王様スランドゥイル、そしてビヨルンの三人だ。
どの人物も敵側とはあまり聞かないから、味方側、あるいは中立くらいの立ち位置だろうか。

そしてそのうちの一人、ビヨルンさんだけれども。
彼の家に忍び込んだのはこちらの方だ。
当の本人は、家にも入れず今なお外に締め出されているという格好になる。……改めて考えるまでもなくまあまあ、いやはや大いにひどい。
ここで休むことを提案したのはガンダルフさんだけど、これからどうするつもりなんだろう?

(まあでも、たぶんどうにか、するんだよね)

うん。きっとそう。
わたしは一人、そう納得することにした。
……ざわめきの声が、少しずつ増え始めている。
そろそろ起き出してもいい頃かと思って、わたしは身を起こす。
まだ眠っているビルボさんの傍をそっと通って、起きているドワーフの皆におはようございますを言った。



窓の外から、何かを打ち付ける音が響いてくる。
そっと外を窺うと、遠目にもかなり大柄な人物が斧を振るっている。薪割りをしているらしい。
あの人が、ビヨルンさんだろうか。
いつしかドワーフの全員が揃っていた。これからどうするべきか、裏口から逃げるべきではないかといった算段を並べ立てている。
それというのも、ビヨルンさんがわたしから見ても相当の体躯の持ち主だったことがあると思う。
もし「いざ」ということがあったら、それなりにこちらも痛手を負うのはきっと免れない――そんな想像が皆の中にあるのが分かる。
彼との接触を避けようとする空気を一喝したのはやっぱりというべきか、ガンダルフさんだった。

「ビヨルンの助けなしにこの先は進めん」

彼の助力がなければ、オークらにすぐ捕まってしまうだろうと魔法使いは言う。
そうして、自ら交渉役を買って出た。
ビヨルンさんは気難しいので、細心の注意がいるのだとか。
ガンダルフさんはドワーフの皆にどうすればいいかをいくつか説いた。そうして丁度起き出してきたビルボさんに、一緒についてくるようにと言う。

「わしとビルボ、……ああ、それに。お前さんも来てくれんか」
「…………、はい? わたしですか?」

急な指名に、数拍遅れ且つ間の抜けた返事をしてしまう。
今から難しい相手に交渉するというのに、どうして自分が同行する必要があるんだろう?
すぐには理由が分からずに瞬いていると、
「お、おいおい、大丈夫なのか?」
窓辺に貼り付いて外を窺っていたボフールさんが、慌てたようにこちらを振り向いて言う。

「お嬢さんまで一緒に行って、何かあったらどうするんだ?」
「代わりに俺たちじゃダメなのか」

キーリさんが一歩踏み出し、フィーリさんも同じ目をしてガンダルフさんを見上げている。
魔法使いの答えは明朗で、ただ首を振るだけだった。
とはいえ、こちらとしては断る理由もない。

「分かりました」

そう応じて、ビルボさんと共にガンダルフさんについていくことにする。
先導する彼は残るドワーフの面々に「合図があるまで出てこないように」と厳重に言い付ける。
そうする中で何人かは心配げにこちらの方を見ていた。
奥の方で腕を組んで、ずっと押し黙っているトーリンさんは……よく分からない。
わたしは誰へともなく小さく笑ってみせて、灰色の魔法使いの後ろをついていった。



ガンダルフさんの話からすれば、もし交渉が失敗すれば命の保証はない。
そういった意味では、ビヨルンさんというのは確かに難しい相手なんだろう。
実際、いよいよそのビヨルンさんの近くまで来たかと思うと、ガンダルフさんは挨拶から入ったものの、どうにも歯切れが悪かった。
どう説得すればいいかを探っているのが、わたしでもよく分かる。

わたしはというと、全く何の心配もしていなかった。
ここで全滅というのはあり得ない。つまり、ガンダルフさんは上手くやってくれるはずなのだ。
だから、連れてこられたものの自分は何もせず、出しゃばらずに静かにしていればいい。そう思っていた。

どうにか魔法使いが話を繋ごうと頑張っているうちに、向こうの目がこちらを捉えた。
わたしとビルボさんを交互に見て、「そっちの二人は?」とぶっきらぼうに尋ねてくる。
自分達に代わってガンダルフさんが簡単に紹介してくれるのを聞きながら、今になってどうしてわたしとビルボさんだったのかが少し分かった。
屈強そうなドワーフより、あまり闘い慣れていなそうなホビットやわたしのような人間を連れていた方が説得しやすいと判断したのだろう。きっとわたしでも、同じ判断をすると思う。

「ホビットに人間、魔法使い……何しにここへ?」
「それが山で散々な目に遭いましてな。ゴブリンの悪たれ共に……」
「なぜゴブリンに近付いた? 愚かな真似を」

(近付きたくて近付いたんじゃないんですけど……)
内心で、そう呟いてしまう。
思い出すだけでも、げんなりする。皆で仮眠を取っていたところで、急に足元が反転したのだ。
坂道とも言えないような悪路を転がり落ちて、落ちて落ちて落ちた先がゴブリンの町みたいなところだったのだから仕方がない。
絶叫アトラクションも真っ青のとんでもない落っこち方だった。映画のアクション場面としては映えるかもしれないけれど、もう一度やってと言われても、絶対に自分は拒否する。
わたしはまあ、夢が混じっているので死んでも死なないところはある。ドワーフ全員が怪我ひとつなく無事だったのは、やっぱり相当頑丈なのだろう。それから、ビルボさんは……。
うん、主人公補正かな。
わたしは今になって、そう思うことにした。

「娘」
「…………はい?」

呼ばれて、ふと今に戻ってくる。
見れば、ビヨルンさんはこちらに視線をぶつけてきている。
間近で接していると、長身のガンダルフさんさえ凌ぐ背の高さだ。何と言うか、圧がすごい。
彼の呼びかけが続いていた。

「山で何があった? 答えろ」

無茶振りがひどい。
黙ってガンダルフさんに任せようと思っていたのに、突然のご指名に戸惑ってしまう。
そしてそれというのは、正直に言ってしまっていいものだろうか。
目線をやれば、ガンダルフさんもビルボさんも、揃って強張った顔をしている。
あまり多くを語るのは良くなさそうだった。

「言わなければ……ダメですか?」

思い出したくないのに。
短く告げれば、少し押し黙った後に「いや」、と向こうも同じように言葉少なに返してよこす。
わたしの横で、ガンダルフさんとビルボさんが揃って眉間にしわを寄せた何とも言えない表情をして、互いに互いを、次いでこちらを見ていたことにわたしは気付かなかった。
ビヨルンさんから、「嫌なことがあったようだな」と続く言葉があった。
そこには微かな慰めとも同情ともつかない何かが含まれているような気がした。
実際、正直思い出したくもないことの連続だったのだ。
強制絶叫アトラクションに参加させられ、ゴブリンに押されて辿り着いた先ではお世辞にも上手いとはとても言えないゴブリンの親玉のコンサートに付き合わされ、走って走って走った先ではワーグに追われて木登りを強いられて――もういい、本当にお腹いっぱいです。

「二度と思い出したくないことしか……ありませんでした」
「そうか。……すまない」

言って彼は、何か考え込むように沈黙した。
相も変わらず、魔法使いと物語の主人公の二人は眉間のしわを深くしたままこちらを見ていた。
わたしはそれには気付かなかった。ただ、(もしかして、意外と話せば分かる方なのかな)とビヨルンさんの様子を窺っていた。
さっきまでは、ガンダルフさんと話していても主導権は向こうの方にあった。
それが今、テンポが変わりつつあるような気がする。……もしかして、今ってチャンスだったりするのだろうか?
傍の二人に目をやれば、何とも曖昧な表情をしていた。
それが何故かは知らないけれど、とにかく、続きを言っていいかどうかの了承を得る。
わたしは続きを口にした。

「あの……。良ければガンダルフさんの話を、聞いて頂けませんか」

貴方の助けが、必要なんです。
しばらくビヨルンさんは地面を見ていた。どのくらいか経った頃に、
「話してみろ」とぽつりと言った。



トーリンさんが、壁にもたれ腕を組んだままでいる。
「ボフール」、と窓辺でずっと外の様子を見ている彼を呼び一言訊ねる。
「合図はまだないのか」
振り返ったボフールさんは首を振るばかりで、ドワーフの皆のジリジリとした時間はまだ続きそうだった。






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