目の覚めるような光があった。
白いもやのかかった頭の中が、魔法のようにあっという間に澄み切り、晴れていく。
僕は、いつもの僕を取り戻していた。

鬱屈とした森、何処までも続くような堂々巡りがあって、皆の疲労も蓄積していた。
同じ道を回り回って、何度も行ったり来たりを繰り返している。そんな気がしてならなかった。
このままではいけない。どうにかして、道を探らなくては。
でも、一体どうすれば――。
そう考えあぐねていた時、ふと閃いたことがあった。

頭上を見上げる。
太陽だ。
太陽さえ、この目に捉えられれば。

そう思った時には、誰にも告げないまま木をよじ登り始めていた。
どっちみち、皆に何かを言おうにも言葉は届かなかったに違いない。それくらい、全員が憔悴しきっていた。
ほんの一瞬、(には一声掛けるべきだったかな)とも思ったけれど、その時にはもう下を見るのは憚られた。
既にそれなりの高さまで来ている。

そうして唐突に、木々の葉っぱの天井を抜けた。
清涼な空気に、赤みがかった日差し。
それが、やわらかく辺りを包んでいる。
遠くには空があり雲があり、すぐ近くでは自分が木々から顔を出したことに驚いたのか、いくつもの蝶が羽ばたき舞っていた。
美しい夕暮れだった。
遠くには湖と川が水面を輝かせていて、そして更に向こうにははなれ山も見える。
……もう一息だ!

「方角が分かったぞ!」

嬉しくて、思わず声を上げる。
そう、行くべき方向は分かった。
あとは、森に惑わされずに進めばいい。ただそれだけだった。
けれど、……何の反応もない。
声が届いていないのだろうか?

僕は訝しんで、何度も皆に呼びかける。
しかし、依然として返事はなかった。変だ、と直感的に思う。何かおかしい。
頭を再び沈める。
そうした時には、蜘蛛の糸が足に絡み付いていた。
森の中のあちこちに張られていた蜘蛛の糸。ずるりとそれが足元で滑り、バランスを崩した僕は為す術もなく落ちていく。


目を開けると、視界が白い何かで不明瞭だった。
すぐに、それが何だか分かった。蜘蛛の糸でぐるぐる巻きにされているらしい。
どうも気を失ったようだけれども、感覚的にそう時間は経っていないと思えた。
そして今、自分の目の前にはとてつもなく大きな蜘蛛がいる。見たこともない大きさだった。
僕を食べものだとでも思っているんだろうか?
――冗談じゃない!!

不意をついてエルフの剣で刺してやれば、流石に応えたらしくそいつは身悶え、すぐに下に落ちていった。
全身に巻かれていたベタベタする不快な糸をどうにか剥がす。
辺りを見れば、もうそこは森ではなく、もはや蜘蛛の巣の中だった。
木々のそこいらじゅうに糸が張り巡らされ、幾つもの大きなさなぎのような物体が枝にぶら下がっている。
それは人の姿が透けて見えていて、すぐに事態を理解した。
皆、今の僕のようにがんじがらめにされたのだ。

あまりにも、蜘蛛の数が多すぎる。
僕はあの指輪の力を使って、どうにかほとんどの注意を逸らすことに成功した。
再び指輪を外し、ぐるぐる巻きにされている仲間たちを見上げる。
ザッと数を確認する。
数えて、……もう一度数え直した。数が合わない。
三度数えても同じだった。何度数えても、一人足りないのだ。

僕はゾッとした。
誰が、一体足りないというんだろう?
もしや、もう食べられてしまったなんてことがあるだろうか?
一体誰が、トーリンは、は無事だろうか?
そう焦っていた正にその瞬間のことだった。

「!?」

声も出なかった。
唐突に、何もない場所からがその姿を現したのだ。
バッと翻した彼女のマントが目に焼き付く。
けれど、僕はその自分の目を疑った。木々の幹や枝、それに蜘蛛の糸。確かに、それしか見当たらなかったはずなのだ。
なのにどうして――
、と呟く僕に向かって、彼女はニッと両の口端を釣り上げた。笑ってみせてくれたのだ。
すぐに、それが真面目な顔になる。言った。

「ビルボさん、あれ、トーリンさんです!」

そう言って差した先、一つのさなぎはピクリとも動かない。
いや、動いていないものの方が圧倒的に多かった。急がなければ!
と協力して、一つ一つの糸を剥いでいく。……すぐに、皆が目を覚まし始めた。
騒がしくなり始めたこちらに気付いて戻ってきた蜘蛛たちを倒していくけれど、僕はこの時再び足を滑らせてしまい、またしても皆と離れ離れになってしまった。

仲間と再会できるまでの間、それなりにそこそこ、色々とあった。
再会してからも色々とあって、息つく暇というものもない。
彼女がどうやって、蜘蛛からその姿を隠すことができたのか。
その疑問はいつしか有耶無耶になり、ついにと別れる時まで訊くことはなかった。
大分後になってから、僕は本を書くことになる。
執筆の最中にふとその時のことを思い出し、(訊ねておけばよかった)と少しだけ、後悔した。





まるでシェロブの巣だ。
わたしはそう思った。
「王の帰還」の中盤で、フロドが蜘蛛の糸に絡め取られる場面がある。
いざ自分がその状況に置かれてみると、確かにこれはひとたまりもないと思った。
自分が知っている蜘蛛の糸とは、粘度も強度もてんで比較にならなかった。
そもそも蜘蛛自体の大きさがふつうじゃないので、それで当然なのかもしれない。

そう思ううちにもドワーフの皆が二人、三人とあっという間に糸に巻かれていく。
すぐに、(無理だ)と判断した。
いつの間にかビルボさんの姿はなかった。
どうもこれはストーリー上、ドワーフ全員が一度はこうなるらしい。いわゆる負けイベントなのだろう。
そしてこのままでは、この場にいる自分も巻き込まれてしまう。

それは避けたいと思った瞬間、
「敵の目から身を隠すのに役立つことだろう」、
ロスロリアンでマントを授かった時の言葉を咄嗟に思い出して、わたしは全身をそれで覆い隠していた。
蜘蛛相手に通じるかどうかは判らなかったけれど、事実、わたしは糸に巻かれることなくビルボさんを待つことができた。
けれども。



呆気に取られていた。
蜘蛛を次々に倒していく中、颯爽と現れたエルフ。
それはどう見ても、わたしが知る人物に他ならなかった。レゴラスさんだ。

目が点になるのを感じていた。
「ホビットの冒険」には、レゴラスさんのお父さんが登場するとは聞いている。
けれど、息子も登場するとは今の今まで、聞いたことがない。もし出てくるなら、それなりに情報として流れてくるはずだ。

(何でここにいるんですか……?)

胸の内で呟いてしまう。
存在すること、それ自体は何の問題もない。
わたし自身、会えるかもしれないと思っていたのだからそれはいい。
けれど、ドワーフ一行と接触するのはまた別問題だ。
彼らと遭遇するということ、それはつまり、ストーリー上でもそれなりに絡んでくるということになるからだ。
……わたしは今のところ、この世界を「映画版」だとほぼ断定して考えている。
思った。随分と設定をいじったものだなあ、と。

実際には、状況はゆっくり考えていられるようなものでもなかった。
レゴラスさん以外にも何人ものエルフがいつの間にか現れ、矢を番えている。もちろん、ドワーフと、それからわたしにも矢の先は向いていた。
察するに、蜘蛛退治の最中にわたし達を見つけたのだろう。
そして、エルフとドワーフである。

わたしは内心、ほんの少しだけハラハラしていた。
裂け谷のエルフ、エルロンド卿であれば器も広い。実際、自分たちを快く迎え入れてくれた(最も、あの時はガンダルフさんがいてくれたことも大きいのかもしれない)。
けれど今、こちらに向けられたエルフの面々の目はお世辞にも友好的とは言えなかった。
将来的には、レゴラスさんもギムリさんと仲良くなる。
でもそれは、この時代からもっと後の話だ。

言葉をそうも交わさないうちに、持ち物を調べられ、取り上げられる。
わたしは比較的中央にいて、順番がわずかに遅かった。
隣に立っていたグローインさんが取られたものを「返せ」と抗議の声を上げるのを聞いていた。お守りなのだという。
「ゴブリンの子か?」と訊ねるレゴラスさんを見るに、中に肖像画でも入っていたのだろう。
そう思っていたわたしは、
「わしの可愛い息子ギムリだ!」
憤慨を押し殺すように言い返すグローインさんの言葉を聞いて、ふき出しそうになるのをどうにか堪えた。
ダメだ。完全にここは、映画で使われるパターンのやつ。
狙いすぎにも程があるのでは、と思っていると、わたしを調べようとやってきたエルフがぎょっとしたようにこちらを見た。

何だろうと思う間にも、エルフ語で他のエルフとやり取りがなされる。
すぐに彼は、わたしにも解る言葉で問いかけてきた。
「それは」、
何処か困惑した様子で、言葉は続いた。

「エルフが織ったものでは?」
「えっと……そうですけど……」

わたしはひとまず応えながら、納得した。
どう見ても人間なわたしが、エルフのマントを羽織っている。
そのことに驚いたのらしい。

「何処でそれを」
「……ロスロリアンで頂いたものです」

隠しようもないので正直に言えば、周囲がどよめいた。
確かにマントを着せられ、襟元をブローチで留められた時に「我々の作った服を他の種族に着せるのは初めてだ」と言われている。
中つ国の長い歴史の中でも、前例がないということだ。
わたしは改めて、心の中でガラズリムに感謝した。
同時に、少し困ってしまってもいた。
嘘は言っていないけれど、もし確かめられても困ってしまう。そしてどうにも、周囲のエルフの目に猜疑心が見え隠れしてみえるのだ。
……ここのエルフは、どうも裂け谷やロスロリアンのエルフとは違うらしい。

わたしはまだそう考えられる程度には落ち着いていた。
けれど、それもこの時までだった。
少し離れた先でなされていた、レゴラスさんとトーリンさんのやり取りが聞こえてしまったのだ。
トロルの洞窟で手に入れた剣を検分していたレゴラスさんが、俄かには信じられないような言葉を発していた。

「どこで盗んだ?」
「……授かったものだ」
「泥棒だけではなく、大嘘つきときた」

耳を疑った。
あのレゴラスさんが、何を言ったのか理解が追いつかない。
追いつかないけれども、

「ちょっと待ってください!」

思わずそう言ってしまう程度にはカチンと来ていた。
わたしは普段、あまり突飛な行動はしない方のつもりでいる。
けれど、今の発言はどう考えてもひどかった。
矢を下ろしていた周りのエルフたちが驚いたように(ついでにドワーフの皆も目を見張っていたけれど、それはさておき)、わたしを留めようとしてくる。
けれど制止を受ける前に、わたしは二人の間に割って入った。
温度のない表情で見下ろしてくるレゴラスさんに向かって、とにかく弁明を試みる。

「これは本当に道中で手に入れたものです、盗んでなんかいません」
「……それを証明できるかい」
「証明……、証明!? 何をどうすれば、証明になるんですか」
「できないんだね」

まるで知らない人のように、冷めた声色のレゴラスさんがそこにいた。
それにしたって、何故そうなるのだろう。
言いがかりにも程がある。そして、そんな台詞を彼が口にしているのが本当に信じ難かった。

(レゴラスさんって双子の兄弟がいるとか、何かそんな設定、あったっけ)

それとももしや、映画版のオリジナル設定?
……いや、そんな改変あり得ない。改悪にも、限度というものがある。
思わずそう考えてしまう程度には、わたしは戸惑っていたかもしれない。
それくらい、目の前の人物は別人のようだった。
原作で「太陽を見つけに行ってきますからね」などと言っていた緑葉の王子の気配は微塵も感じられない。
せっかく会えた指輪の仲間の一人だというのに、何がどうなっているのだろう。
そしてその彼は、なおも言った。

「ならやはり彼は……盗人のほら吹きだ」
これには流石に頭にきて、
「トーリンさんはそんな人じゃありませんっ! ひどい!!」

思わずそう言い返してしまっていた。
向こうはわたしをまだ知らなくても、こっちはそれなりに知る人物だったこともある。
それに、そう。
トーリンさんは何だかんだあったけれども、今はビルボさんを仲間と認めてくれている。
あのアゾグとかいうオークの首領との戦い、危ういところをビルボさんが危険を顧みず助けに入ったことで、彼を信頼するようになっていた。
わたしと直接会話するような機会はあまりなかったけれど、それでもこちらへ向ける眼差しは以前よりずっと和らいで見えた。
そのトーリンさんに対して、いくら何でもひどすぎる。そう思ったのだ。

それから後は、あっという間だった。
さすがに王子に対して言い過ぎたのか、別のエルフがわたしを押し留め、持ち物を調べられた。
腰の短剣を取り上げられたけれど、いくらか自棄っぱちになっていることもあって(どうぞ勝手にしてください)、という感じだった。
どっちみち、ごねたところでこの状況ではどうしようもない。



岩屋に入れられ、エルフたちがいなくなる。
しばらくはドワーフの皆がどうにか壊せないかと牢を鳴らしていたけれど、すぐに無理だと判ったらしい。
やがて、別に詳しく取り調べられていたらしいトーリンさんも戻ってきて、同じように牢に入れられる。ガシャンと、錠の落ちる冷たい音が響いた。
この頃には幾分静かになり、さざ波のような……エルフたちが音楽を楽しんでいるらしい、遠くから微かな楽器の音色が聴こえる程度になった。

「なあ、お嬢さんよ。……聞こえるかい」
「ボフールさん?」

存外はっきりと、声が届いてきた。
結構な広さの牢獄だった。けれど上手い具合に反響し、会話を交わすのにそう不自由はないようだ。

「結構はっきり聞こえてますよ」
「そうか。……いやあ、さっきは驚いたぜ。あんな正面きって言いたいこと言ってくれるなんてよ」
「……えっと……」

どう言ったものだろう。
だからと言って、どうにかなったわけでもない。
寧ろ、色々と地味にショックだった。
わたしの知るレゴラスさんは、凛としながらも朗らかさも持ち合わせている人物だ。
それが、この時代ではああである。全く以って、理解が追いつかない。

「ボフールの言う通りさ。ちょっと胸のすく思いだったぜ」

ノーリさんと思しき声の反応があって、次いで、判別しきれない皆の同ずる声が上がった。

「聞こえただろ? お嬢さんには感謝してるんだ。俺たちの頭領庇ってくれてありがとな。――なあ、トーリン?」

大きく呼び掛ける口調で、ボフールさんが言う。
どの牢にいるのか、ここからでは位置が悪く、見えないでいた。
けれど、「…………ああ」、と数拍遅れであの重々しい声が小さく響いた。
何処か渋渋、というのが丸わかりな返事に、もうそれ以上の言葉はないと思った。
けれど。

「……殿」
「えっ。……はい?」
「その…………礼を、言っておく」
「いえ、あの。わたしが勝手にしたことですから……」

続く言葉が見当たらなくて、そのまま語尾が途切れた。
向こうもそれ以上、何を言うでもない。
再び辺りは静かになった。誰かと誰かが、小声で囁くのが時折聞こえるくらい。
わたしは体勢を変え、座り直した。

トーリンさんが今のように言ってくれたのは率直に嬉しい。
けれど、思いがけず出会えた旅の仲間、その再会は決して良い形ではなかった。
物事というのは、全てがいい方向に向かってくれるとは限らない。それで当たり前なのだろうけれど。
(上手くいかないな……)
そう思いながら、わたしは目蓋を閉ざした。






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