辺りは、大分静かになっていた。
格子の外は、ほんのりと灯りが灯っている。近くに、ドワーフの皆の気配。
それが幾らかの慰めだった。牢の中だから皆の顔までは拝めないけれど、会話だってそれなりにできる。

わたしは改めて、自分が入れられた空間を見回した。
特別に狭苦しいとまでは思わない。
閉じ込められているとはいえ、あの暗く得体のしれない力に満ちた森の中、そして蜘蛛の糸で出来た繭の中よりは、ずっとずっとマシではある。
わたしは壁に背を預けたまま、座り込んだ姿勢で目を閉じた。
流石に、エルフの檻に入る羽目になるとは思わなかった。おまけに、ビルボさんともはぐれてしまったと来ている。
きっとドワーフの皆も、八方塞がりだと思っているのではないだろうか。
捕まっている誰かと誰かの囁き。何処か遠くで、楽しそうなエルフの音楽。
ぼんやりとそれを聞き流しながら、抱え込んだ膝の中に顔を伏した。わたしには、殊にもう一つ、気分の塞ぐことがある。

腰から、いつもある筈の重みが失せていた。
……エルフ達に、皆、武器を取り上げられてしまった。それは勿論、わたしだって例外ではない。
ファラミアさんから委ねられた短剣。あれこそ、あの時代から借りてきたわたしの唯一の武器だった。
エルフに取り囲まれた時、ごねてもドワーフの皆に迷惑を掛けるだけだと思い大人しく手渡してしまった。それを、わたしは今になって悔やんでいる。
あれだけは、渡してはいけなかったのではないだろうか?
例えどんな状況に陥ろうとも、取り上げられることを頑なに拒んでもよかったのではないだろうか?
そんなことをぐるぐると思い悩んでいる。……今となっては、どうしようもなかったけれど、それでも。

誰かの気配が、すぐ傍にあった。
伏せていた顔を上げれば、格子の向こう、すぐ其処に見慣れたエルフが立っている。
……否、「彼」はわたしの知っている彼ではない。姿形は見慣れた其れでも、纏う空気は吃驚するくらい刺々しかった。
「君は」、レゴラスさんが口を開いた。続いた。

「人間だろう? どうしてドワーフ達と一緒に?」
「…………」

言って、何になるだろう。
この人はわたしの知るレゴラスさんではない。そんな人に何かを働きかけることで、この状況が変わるだろうか。
……そんなふうには、思えなかった。だから、黙ってわたしはレゴラスさんを見返した。
一拍の間を置いて、彼は再び続けた。

「……君は、ゴンドールの人間かい? この紋章はあの国のものの筈だ」

取り出されたのはわたしが身に付けていた短剣だ。わたしはほんの少し身を起こして、言った。

「答えたら、其れ、返して頂けますか?」
「それは出来ない」
「……ですよね」

言ってみただけです、とわたしはどうでもいいみたいに答えた。
実際、どうでもよかったのだ。本当に返してくれるわけがない。
わたしはレゴラスさんの事を、少し考える。
彼とわたしは、遠くもなく近くもない未来、また顔を合わせるのだろうか。
そうだとしたら、レゴラスさんはわたしの事を覚えていてくれるだろうか、それとも忘れてしまっているのだろうか。
その時には、彼は、わたしの知る彼になっているだろうか。
いや、と思う。こんなふうに出会ってしまったから、レゴラスさんもわたし達をこう扱わざるを得なかったのかもしれない。
彼は、彼の仕事をしただけなんだろう。
だからといって、剣を取り上げられた事や、トーリンさんへ向けた言葉に憤慨した事には変わりないが。
わたしは、そんな一切合財をとりあえず頭の片隅に追いやった。

「……返して頂けないなら、ひとつお願いを聞いてもらえませんか」
「……?」
「その短剣、借り物なんです。わたしから返せないなら、代わりに、返してもらえませんか」

わたしはおおまかな条件をレゴラスさんに伝えた。今の時代にゴンドールに届けられても困る。
想像通り、彼は困惑した様子でいたけれども、どういう事かと聞かれてもわたしはそれ以上を告げなかった(告げようがなかった、という方が正しいけれど)。
それでも本来のレゴラスさんは、信頼に足る人物だった。
今の立場のわたしからの願いでは、結果どうなるかはわからない。
どのみち、いつかは返さなければと思っていたものだ。上手く、本当に上手くいったならば、それは将来、持ち主の元へと還るだろう。
それ以上何も喋らないわたしに見切りを付けたらしく、このやり取りだけを交わしてレゴラスさんは立ち去った。
相変わらず、胸の内はすうすうしていた。
大切なものは、ちゃんと自分の中にある。失くしたくない記憶は全部わたしの中にある。
それなのに、もう、あの剣が戻ってくる事はないだろうと思うと、こころの中の空洞がその空間を広げたように思えてならなかった。



いつの間にか、少しうとうとしていたかもしれない。
気付けば周囲の空気が微かに色めき立っている。
何かあったんだろうか、そう思っている間に、向こうにひょっこり現れた人影があった。ビルボさんだ。
「今出してあげるからね」、そう言って手早く鍵を開けてこちらを見た彼は、不意にぎょっとした顔になった。
!?」 と慌てた口調で呼び掛けながらこちらの中へ駆け寄ってくる。

「どうしたんだい!? ああ……そうか、怖かったんだね。助けに来るのが遅くなって悪かったよ、もう大丈夫、大丈夫だから」
「……どうしたんですか、ビルボさん」、わたしはポカンとして彼に尋ねた。
「そんなにわたしなんかに、気を遣わなくても」
「どうしたもこうしたも、君、ひどい顔をしてるじゃないか!」
「この顔は元からです!」
「そんなんじゃなくって……ああ、もう!」

ビルボさんは焦れたみたいに、座り込んだままのわたしの顔を覗き込んできた。
触りそうな、或いはそうでないかどちらかといった辺りで、その指がわたしの目元らへんを彷徨っている。

「泣いたみたいに赤くなってるよ、皆に気付かれたくなかったら、顔は伏せていた方がいい。大丈夫、僕が先導するよ」

そう言って手を差し出してくれる。
泣いた覚えは全くない。
ないのだけれど、ビルボさんがそう言うのなら、傍目にはそう見えるのだろう(どういうわけかは解らないけれど)。
そして確かに、そんなふうに思われるのは、わたしの好むところではない。
わたしは大人しく、彼の申し出に従う事にする。
取った手は大きくはないけれどわたしのよりも厚く、力強さを覚える。
……ビルボさんの手は、最初からこんなふうだっただろうか?
そんな事をふと考える。
いつの間にか、ずっと前から旅をしてきた人のように、たくさんの時間と経験を重ねたかのような其れに思えて、それが何だか不思議だった。
「行こう!」、そう促されて、わたしはビルボさんに手を引かれエルフの牢を後にした。
一度、思い出の詰まった品に別れを告げた場所を振り返る。
誰もいないがらんとした空間が、何事もなかったかのようにただ広がっているだけだった。






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