指輪の旅にも劣らない強行軍だ。
エルフの牢からの脱出。ドワーフの皆と樽に乗り込んで川を下る最中での、オークの急襲。
そして人間の町へこうして潜り込むため、今度は樽と共に魚漬けにされる有様だ。
魚の匂いと寒いのと、川の水でずぶ濡れなのとで大層ひどい。
(よく皆、体調崩さないなあ)
内心そう思い、感心する。
改めて、ドワーフは頑丈だなあと思う。それに勿論、ホビットも。
わたしだったら困憊の上に寒さにやられて、風邪のひとつでもひいていそうだ。
しかし実際のところ、わたしは今なお夢を通じて、自分の世界に戻れている。
向こうでひっそりと休養を取っていなければ、今頃ダウンしているだろう。
皆には申し訳ないけれど、体調管理する事が一番迷惑を掛けないことでもある。
わたしはもう割り切って、そう考えるようになっていた。それは、それとして。
……ふと、気になってキーリさんを見る。
何も言わないけれど、顔色は相当良くない。
オークとの戦いの中で、脚に矢を受けたのだ。十分な手当てもなく、具合が悪いのは当然だ。それに。
ドワーフの誰かが言っていたことを、そして以前、ボロミアさんからも聞かされたことを思い返す。
「オークの矢には毒が仕込まれていることが多い」のだという。
「矢を受けぬのが一番だが、もし毒を受けたなら直ぐに処置をしなければならない。心得ておけ」
わたしの主の声が、つい昨日にも聞いたものみたいに思える。
……今は、回想に浸っている場合ではない。
冷えた空気が辺りにあった。
ざわめきと視線が交錯しているのがわかる。人間の町で、ドワーフとホビットはそれなりに目立つようだ。
一行の先頭に立つのは、つい数時間前に知り合ったばかりの人間の男の人だ。
お金と引き換えに、町に入るのを手引きしてくれた。許可なくこの町に入るのは禁じられているらしい。
今はこの人についていくしかない。
何処か落ち着ける場所を見つけたら、そこでキーリさんの手当てを、そして態勢を立て直して、そうしたら――。
「止まれ!」
ギクリ、と皆の足が一瞬止まり、すぐに駆け出す。もちろん、わたしも。
見れば、何やら警備隊みたいな人達が数人。
密入国ならぬ、密入町を果たしたわたし達は、捕まるとさぞ面倒なのに違いない。
「おい、湖の町の統領の名において止まれ!!」
止まるわけがない。
逃走を図るも、回り込まれるとどうしようもない。
ドワーフの皆が一撃を食らわせ、追手を気絶させてしまうまではあっという間のことだったけれど、ここから先は、どうすれば。
皆で、物陰に身を潜める。
町の人たちに居場所を告げられれば、すぐに見つかってしまう。
……さっきの警備隊の中でも偉い人らしき人物が、通りの向こうに現れる。
?
疑問符が、頭を掠めた。
さっきまでこの一連の騒ぎを遠巻きに見ていた町の人たちが、急に、何事もなかったかのように振舞い始めたのだ。
昏倒している追手の兵をさりげなく隠してくれたり、あまつさえ、わたしの傍で呻き声をあげ目を覚ましそうになった兵に向かって鉢植えをわざと(しかし、何げなく)落としてくれて、再び気絶させてしまったおばさんまで居る。
……助けてくれている?
わたしはおばさんに頭を下げながら、様子を見守った。
今、通りで偉い人と会話を交わしているのは、町に入る手引きをしてくれた人――バルドさんだ。
知らぬ存ぜぬを通し、辺りに何某かの証拠もない。結局は、偉い人の方が断念し立ち去っていった。
けれど、そう簡単にいくものでもない。
「父さん!」
再び皆を引き連れて歩き始めたバルドさんの前に、そう呼びかける少年が現れた。
十代半ばくらいの、幼さが微かに残るその顔に焦りが浮かんでいるのがわかった。
「大変だよ、家が見張られてる」
皆に、歯噛みするような表情が走った。
進退窮まった、というところだけれど、さあ、どうするか。
そう思っていると、バルドさんがビルボさんに何事か耳打ちをする。
ビルボさんはといえばぎょっとした様子ではあったけれども、何度かコクコクと肯いている。これからの事を伝えたのだろう。
ドワーフたちを一度見回したバルドさんが、不意にわたしに目を留めた。そうして、手振りで近くに来るよう示す。
「何でしょう」
「……君は、此処で待て」
「? 一人で、ですか?」
「そうだ」
「おい、ちょっと待てよ」
異議を唱えたのは、丁度目の前に立つ形になっていたボフールさんだ。
「お嬢さんをたった一人で此処に置いてくってのか? 何でまた、そんな事する必要が?」
「黙って言うとおりにしろ」
にべもなく、バルドさんは言い放った。
再度こちらを見る。
「名前は」
「です」
「だな。大丈夫だ、すぐに」、
そこまで言って急に、「しゃがめ」、と小さく、しかし鋭い声で告げる。
皆が慌てて身を伏せ、わたしもバルドさんに腕を掴まれ一緒に座り込んだ。数秒ほどの、ジリジリとした時間が過ぎる。
「しつこい奴らだ」、と目の前でこぼすバルドさんの言葉からして、まだ追手がいたのらしい。
しかし、そんな状況の中でもわたしを別行動にしようというのは、皆が行こうとしているのが余程の難関ルートだという事だろうか。
……追手が去ったのを確認して、バルドさんが立ち上がる。わたしも続こうとして、片手でそれを制した。言った。
「すぐ迎えに来る」、そうとだけ告げて、息子さんと通りの先へと消える。
「……やはり好かん野郎だ」
心底そう思っているらしいドワーリンさんの舌打ちと呟きも、辺りの喧騒の中に消えていく。
今出来るのは、言われた通りにすることだけだ。
フードを目深に被り、しゃがみ込む。
人通りは多くない。裏通りの一角といったところだろうか。
それでも、近くの人たちが時折こちらを窺うような視線を感じる。悪意らしきものは無いように思う。
……さっき助けてくれたように、気に掛けてくれているんだろうか。
「!」
フードの中からの狭い視界、目の前に、誰かが立つのが分かった。
さっきの追手かと内心緊張していると、向こうもしゃがみ込むようにしてきてヒヤリとする。
しかし。
「……さん?」
「……?」
女の子の声だったので、わたしはそっと顔を上げた。
栗色の髪の、きれいな子だ。会った事はないと思うけれど。
「父から聞いてるわ。私の友達の振りをして、一緒についてきて」
「……バルドさんの……?」
「ええ」
小声で答えながら、彼女は肯いた。
どうやらさっきの息子さん以外に、娘さんもいたらしい。
わたしはひとまず立ち上がり、フードを被ったまま彼女についていく。
思いの外あっさりと、バルドさんの家まで着いてしまうと、中では既にビルボさんを始めとした皆が揃っていた。
ほとんどがげんなりとしていてびしょ濡れで、何故か機嫌も良くない様子だったけれど、とにかく。
……後に、ビルボさんからどんな道を通ったのかを聞いたけれども、なるほど、それは大層難儀なルートだと納得した。
まさか追手の人達も、湖に繋がるお手洗いからの侵入者が存在するとは考えもしなかっただろうから。
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