やかましいこと、この上なかった。
周囲の人々の喧騒、乾杯の音頭、あちこちで沸き起こる歓声、笑い声。
それだけでも結構な音量なのに、更にそこへ、歓迎のしるしと称して音楽隊が楽器を奏で始めるのだから堪らない。
しかも、地味に調子っぱずれときている。
……早いところ、食事を済ませて部屋に戻ろう。
湖の町の、歓迎の宴。
ほんの数時間前まで、身を隠しながら行動していたのが嘘みたいだ。
事実、武器庫の前で捕らえられた時は、完全に罪人扱いだった(まあ、これはこちらに非があったから仕方ない。何しろ武器を拝借しようとしていたのだから)。
それが、今はどうだろう。
食事から何から振舞われて、まるで救世主のような扱いだ。大層な歓迎ぶりである。
ここまで扱いに雲泥の差があるというのも、いっそ潔いかもしれない。
――不法入国ならぬ、不法入町を果たしたドワーフの皆はしかし、どうにか町の長に受け入れられて、明日にはあの山に入るのだという。
わたしはふと、バルドさんのことを考えた。
町への潜入を手引きしてくれた。それだけでも相当な無茶だったのに、できる限りの武器になり得るものも用意してくれた。
しかし、頑なにあの山へ入ることを拒んだのはそのバルドさん自身だった。
それというのも、彼の話を聞けばそれなりの道理があり、無理もないことだとわたしは思っている。
だからこそ、こうして町の長に受け入れられたドワーフ一行のことを決して面白くは思っていないだろう。
そのことが気になって仕方がなかった。
いろいろと無理を聞いてもらい、たくさん助けてもらったというのに。
音楽隊の、お世辞にも上手とは言えない演奏が続いていた。
わたしはそそくさと食べられそうなものを適当に口に押し込み、そそくさと広間を抜け出した。
ドワーフの皆のうち半分くらいはまだ残って飲み食いをしていたけれど、何人かはいつの間にか姿が見えなかった。
もう休んでいる人もいるかもしれない。
……当たり前だ。
エルフの牢獄からの脱出、川下りをしながらのオークとの戦い、樽に入り込みながらあまつさえ魚漬けにされ、そのままで果たされた湖の町への潜入――。
一日に起こるイベントの発生密度が高過ぎる。
いかに屈強なドワーフの皆といえど、疲労の蓄積は免れないはずだ。
食べるのが大好きなビルボさんでさえ、そこそこに食べ終わると、わたしより一足先に宛がわれた部屋へと戻っていった。
今はもう、眠っているだろうか。
……できるだけゆっくり、休んでほしい。そう思う。
広間を離れ、喧騒が遠ざかりつつある通路。
その先に、二人のドワーフの後ろ姿があった。よろめき掛けている一人を、もう一人が支えている。
わたしが駆け寄ると、支えていた方のフィーリさんがこちらを振り向いた。言った。
「、すまないがオイン殿を呼んできてくれないか」
「分かりました」
ぐったりとするキーリさんは、何も言わずに辛そうな呼吸を繰り返している。
伏せられた顔は血の気が失せ、青くなっているのが傍目にも分かった。
オークの矢を脚に受け、大した治療もないままここまで来たのだ。当然といえば当然だろう。
わたしは広間に戻り、オインさんがいるかどうかを見渡した。……いた。
耳の聞こえが良くないらしい彼の肩を叩き、身振りで来てほしいことを伝える。
一緒に戻れば、既に通路に彼らの姿はない。
与えられた部屋の一つを覗けば、丁度フィーリさんが彼の身体を寝台へと横たえたところだった。
さっきよりかは落ち着いたのか、キーリさんは目を薄く開くとわたし達を見て、弱々しくも笑んでみせる。
「……大丈夫、一晩寝て起きれば治ってるさ」
「そうなら医者はいらんのだが」、
オインさんは彼の射られた脚の傷に巻かれた包帯、そこに滲み出している赤い色を見て眉間の皺を深めた。
「しかしこの傷では」
「頼む! 伯父上には言わないでくれ!!」
オインさんにそう縋ろうとして、危うくベッドから落ちそうになるのをフィーリさんが押し留めた。
どう考えても安静が必要だが、キーリさんは旅を続けたがっている。余程、この旅路に思い入れがあるのだろうか。
オインさんが言うには、傷そのものも勿論だけれど、何よりその矢毒が一番気掛かりだという。
適した解毒剤を処方しなければいけないのだが、持ち合わせの薬は全て、あの川下りの際に駄目にしてしまったという。
そしてそれは、そう簡単に手に入るものでもないらしい。
アラゴルンさんが今、ここにいてくれたら。
そんなどうにもならないことを、わたしは思った。
彼はアセラスとも王の葉とも呼ばれる薬草の扱いに長けていて、旅中でも時折それを使っていたのを覚えている。
あの人がいてくれたならば、きっとその癒しの力でキーリさんを救ってくれる。
思うが、本当にどうにもならなかった。
――いや。
わたしはふと考え込んだ。本当にそうだろうか?
あの指輪の旅をしていた時、彼は八十七才だった。
この時代はそれから六十年前なのだから、単純計算しても既にアラゴルンさんは成人している。
レゴラスさんにだって会えたのだ。彼にだって、また会えるのではないだろうか?
秒でそこまでを考える。
しかし、……やはり無理があった。
そもそも彼が、今何処にいるのかも分からない。
この広大な中つ国、たった一人の人間をどう探すのだ。既にアセラスの癒しという業を彼が身につけているかどうかも分からない。
駄目だ。この案は最初から破綻している。まあ、知ってた。思っただけだ。
わたしは思考を断ち切って、抱えていた鞄の中からそれを取り出した。
「あの……、鎮痛薬ならわたし、持ってますけど」
誰へともなく言う。
振り返ったオインさんに、キーリさんに与えてもいいかどうかを訊ねれば肯いてくれた。
少しでも痛みを和らげられれば、それに越したことはない。
わたしはアルミ包装された粒錠の痛み止め、その封を裏面から押し出して破った。二錠を、キーリさんの手の平に乗せる。
フィーリさんに手渡された水と共に飲み下せば、ふう、と彼は小さく息をついた。こちらを見て、
「ありがとう」、ともう一度小さく笑んだ。
「もう効いてきたような気がする」
「ふ、ふつうは効くまで三十分くらい掛かりますよ?」
「冗談さ」
はは、と取り繕うみたいに彼は振舞った。
それに合わせて、わたしも少しだけ口の端っこを持ち上げてみせる。
キーリさんは、いつもの彼を演じているだけなのだろう。大丈夫なのだと、旅を続けられるのだと思わせたいのかもしれない。
とにかく、彼には休息が必要だ。わたしにはもう、他に何もできることがない。
オインさんは、彼の傷口の包帯を取り替えるため、部屋に残るという。
わたしは「おやすみなさい」の挨拶をして、すぐさま彼らの部屋を出ようとした。
扉を閉めようとして、戸口までやって来ていたフィーリさんに
「」、と呼び止められる。
「薬、ありがとう。……助かる」
「少しでも、痛みが引けばいいんですが」
わたし達はお互い、ほんの少しだけ笑みを浮かべた。
……自分自身、あの川下りで荷物も服も全てが水に浸かってしまった。
皆にはなんとなく、未だわたしが眠る度、自分の世界に戻れることを言っていなかった。
本当ならば服も向こうで取り替えてくることができたのだが、言っていない手前、それはしていない。
荷物――武器は闇の森でエルフに取り上げられてしまったが、武器以外のものは返してくれていた――も川の水でびしょ濡れで、いくつかは新しく買い直すことにした。
鎮痛薬も、改めて買い直したものの一つだった。
キーリさんの矢毒のことは、もちろん頭にあった。
しかし流石に、近所のドラッグストアに解毒剤なんてあるはずがない。ゲームで道具屋の店先、そこで毒消しを買うのとはわけが違う。
バルドさんの船上、樽の中で魚漬けになっている間に向こうへ戻って準備した薬だったが、それでもほんの気休めだろう。
少しでも効いてくれればいい。そう思う。
わたしは今度こそフィーリさんにおやすみなさいを言って、その場を離れた。
通路はほとんど人気がない。
それでも遠くの広間の喧騒がここまで届いていて、わたしは反対側に向かって歩いた。自分に与えられた部屋はそちらの方向だ。
しかし――ふと立ち止まった。
広間から離れるにつれ、辺りの空気はひんやりと冷えていく。
その中にいて、わたしはただ、その場に佇んでいる。
人間の町。宴の夜。
たくさんの食べ物にお酒、人々の話し声、笑い声。
誰もいない通路の途中で、わたしは一人、ぽつんと立ち尽くす。
目を閉じれば、思い出されるのはローハンの国でのことだった。
裂け谷に向かう途中、あの馬の司の国に立ち寄った時のことを懐かしく思う。
実際には、それ程以前のことではない。それなのに、ひどく懐かしい。
……また、あの国を訪れたかった。できることなら、わたしの主と。
そう思いながらそっと目を開く。
眼前には、楽しそうにお酒を酌み交わしている多くの人々の姿があった。
その中に混じって遠目に見えるのはセオドレドさんにエオメルさん。少し離れたところにはエオウィンさんもいる。
「……えっ」
一瞬、固まってしまう。
自分だけが硬直する中、世界は、何事もないかのようにさざめいていた。
ふと見下ろせば、テーブルの上には所狭しと並んだ食べ物に飲み物、わたしの前には自分でよそったチーズの切れ端が皿に乗っていた。
あのまん丸の、テレビでしか見たことのないような大きなチーズから削った切れ端。
「どうした、」
声は、ごくいつものように掛けられた。
隣を見れば、その人は何処か面白そうに強張ったままのわたしを見ている。
既にそれなりのお酒を飲んでいるらしいにも拘わらず、まるで酔ったふうでもない。
細められたその目の中の碧が、まるで宝石のように美しく透き通っていた。
「ボロ……っ」
「お嬢さん?」
肩を叩かれ、ハッとする。
世界は、当たり前のようにわたしから離れていた。
けれど、……ここは中つ国だ。
その証拠に、すぐ傍にボフールさんがいる。
目を瞬き、固まって動かないわたしを心配そうに覗き込んでいる。
「大丈夫かい? 気分でも悪いのか」
「いえ、その」
わたしはそう口に出して、初めて呼吸さえ止まっていたのに気付く。
慌てて大きく息を吸い込み、そして吐き出す。
酸欠かどうか知らないが、自分の身体が揺らめくのを感じる。すぐ傍の壁に手をつき、支えなければならなかった。
ボフールさんもぎょっとしたらしい。
焦ったように手を伸ばそうとするのを、わたしは片手で制した。
「平気……平気です。大丈夫、ですから」
「…………」
彼は沈黙しながら、少しの間こちらを見ていた。
ボフールさんはどちらかと言うと多弁というか、饒舌なところがある。
一つ言葉を掛ければ、二倍三倍にしてそれを返してくれる。そんな彼が、今に限っては何かを言うわけでもない。
ただ我がことのように、眉尻を下げてさも心配だというような顔で見てくるばかりだった。
優しい人だな、と思う。
同時に、さっきのキーリさんの気持ちがよく理解できると、そう思った。
周りの人達に、心配を掛けたくない。旅を続けたいという思いとはまた別に、そんな気持ちもあっただろう。
わたしは取り敢えず目の前の人の気を逸らしたくて、適当なことを訊ねる。
「ボフールさんも、もうお休みになるんですか?」
「いや、ちょっと用足しに出てきただけなんだけどよ……」
そんなふうに彼は言い淀んだ。
どうやら、宴に戻るつもりだったらしいことが窺える。明日には山へと出発するというのに、まだ休まないのだろうか。
わたしは小さく笑んで、言った。
「もう、飲みすぎですよ? あと一杯くらいにしておいた方がいいんじゃないですか?」
「……あー」
ボフールさんはいつも被っているその帽子に手をやり、ちょっと困ったみたいに視線を逸らした。
すぐに、その目が改めてこちらを向いた。
ぽつりと言った。
「まあ、お嬢さんにそう言われたら仕方ないな」
あら、素直。
内心わたしは思うが、しかしボフールさんは、相変わらずまだ何処か心配げな顔をしている。
部屋までついて行こうかとまで言ってくれたが、ほんの少しの距離だ。
大丈夫だと言い、わたしはボフールさんとそこで別れた。
大丈夫だ。
辿り着いた部屋、そのベッドの上で、わたしは繰り返した。
大丈夫だ。
疲れているだけだ。……わたしは、ひどく疲れている。あんな鮮明な幻を見るくらいに。
わたしはそのまま、目を閉ざした。
どうしてこの時代の中つ国に辿り着いたのかは、未だによく判らない。
けれど、きっと何がしかの意味があるのだろう。それを知るために、もう少し旅を続けなければいけないようだ。
眠りに落ちる寸前、大きな手がふわりと頭に置かれるような錯覚を覚える。
あの人の、わたしの主の大きな手。
――幻だ。何もかも、全て。
何も判らないまま、わたしは静かに意識を落とした。
細雪が音もなく舞い、積もるでもなく消えていく夜のことだった。
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