早朝、ふと目が覚めた。
ゆっくり身を起こして、窓の向こうを確かめる。
まだ暗闇が立ち込めていて、湖の町の姿はほとんど見えない。
わたしはそっとベッドを出ると暖炉に近付いて、火をつける。
点火するための道具は備え付けられていたけれど、試しに昨夜使ってみても全く火がつく様子もなかった。コツがいるのだと思う。
故に、眠っている間に向こうで準備してきたマッチを使った。自分の世界に戻れるのって、つくづく便利。

火がしっかり入ったのを確認して、すぐさまベッドに戻る。
寒い。とても。
空気が、ひんやりしている。
夕べは雪も少し舞っていたから、もう冬なのだろう。
今のうちに火をつけておけば、着替えをする頃には部屋中が暖まっているはずだ。

そう思いながら目を閉じようとしてみたけれど、眠気の残滓は潔いほど無かった。
夜、早くに寝入ったからだと思う。
わたしは毛布に包まりながら、ぼんやりと取り留めもないことを考える。
それというのは、夕べ見た幻のことだ。



ローハンで過ごしたあの日の夜の幻。
ボロミアさんがいて、エオウィンさんがいて、エオメルさんやセオドレドさんがいた。
彼らの姿は鮮明で、今なお目に焼き付いている。
今まで何度となくボロミアさんのことは考えてきたし、他の人たちについて考えることだって、勿論あった。
そして今、わたしは改めて彼らについてを思う。

――わたしが物語を変えてしまったことで、ローハンの人達に何か影響って、あるものだろうか?
早すぎる朝の、ほとんど音のない時間の中。
わたしは順に考えてみる。

(まずは、エオウィンさん)

彼女については、おそらく何の問題もない。
ストーリー通りに進んで、ぺレンノール野の合戦で魔王を倒すのに違いない。
その後はファラミアさんと出会うはずだし、彼女については何の心配もないのだと思う。
……よくよく考えないまでも、(わたしって凄い人達に剣の手解きを受けてたんだな……)と思う。
白の塔の大将様だけに留まらず、ローハンの盾持つ乙女にまで短い時間とはいえ剣を習っている。
そしてそれは、この旅中で大いに役立っていた。
仮にまた会えるのなら、その時は改めてお礼を伝えたい。そう思う。

(それに、エオメルさん)

こちらも、きっと心配ない。
アラゴルンさん達一行が彼と出会うのは「二つの塔」に入って割とすぐだけれど、どうということもない。
もしボロミアさんがアラゴルンさんと同行していれば、多少話が通りやすいとは思う。
けれどどうだろう。裂け谷でボロミアさんは、旅に加わりつつゴンドールへ帰郷するつもりだと話していた。
アモン・ヘンでアラゴルンさんと別れたのか、同行することにしたのかは判らない。
でも、どちらにしても「王の帰還」に入れば舞台はゴンドールに移るのだから、結局は合流するはずだ。
その辺りはあまり気にしなくていいような気がする。
そもそもエオメルさんについては、何も変わりようがない。だからきっと大丈夫。

(それから……セオドレドさん)

その人の名を思い浮かべて、少し気持ちが重たくなる。
映画の中では、登場早々瀕死だった。そして意識を取り戻すこともなく、そのまま亡くなってしまう。
だから、どんな人物なのか映画だけでは分からなかった。
けれど――、わたしは彼が健在な時に会っていて、少し、本当に少しだけだけれども、言葉を交わしている。
そしてそれは、わたしがボロミアさんの生死をひっくり返したことではおそらく変わらない。
アラゴルンさん達がローハンに到達する頃には、セオドレドさんは中つ国を去っている。

……残念に思う。
快活そうに笑う人だった。
わたしの歌をまた聴かせてほしいと言ってくれた。
ボロミアさんとも親しげにしていて、それを見る限りお互い気性も合っているように思えたものだ。
立派な顔立ちで、人柄もきっとそうだったのだと思う。あのセオデン王の息子に当たる人物だ、生き残っていたならローハンの王にどれだけ相応しかっただろう。
思ったけれど、仕方のないことだった。

セオデン王についても、おそらく変わらない。
わたしとボロミアさんが訪ねた時、会うことは叶わなかった。
それもそのはず、きっとあの時既に、自我を失っていたのだろう。
その後は自分を取り戻して復活を果たすけれども、「王の帰還」で辿る道筋はそのままのはずだ。


微かに窓の外が白み始めてきた。
その気配が忍びこむ窓辺と天井をぼんやりと見つめる。
変わらない。
ボロミアさん以外の誰かを救えるわけでもなく、ローハンの人達に影響を与えることはたぶんない。
変わらない。彼らについては、何も。
……なら、ローハン以外では?

もう少し範囲を広げてみる。
わたしが物語を変えてしまったことで、誰か別の人のその後が大きく変わることってあるだろうか?

(ファラミアさんはどうかな……)

やっぱり、一番影響するのは執政家だろう。
殊に彼については、兄が生存することでそれなりに変わることがあるはずだ。
けれど、良くない方向に向くとは思えない。……思いたくない。
想像するに、遅くても「王の帰還」の中盤には、ボロミアさんとファラミアさんの二人は再会できると思う。
物語通りなら一時的に命の危険に晒されるファラミアさんも、どうなるのかは正直判らない。
でも、ボロミアさんがいて、アラゴルンさんもいる。……なら、大丈夫だろうなと思う。
うん。ファラミアさんも、きっと大丈夫。


そもそも、ボロミアさんの生死を変えたことで、別の誰かが命を落とすというのは考えにくい。
なら例えば、亡くなるはずの人がそうはならない……そんなことって、ないんだろうか?
すぐに、心当たりのある人物が浮かんだ。

(デネソール侯……)

彼は、どうなるのだろう。
今になってその可能性に思い当たる。
ボロミアさんが生きていれば、その絶望が狂気に陥ることもないかもしれない。

わたしはデネソール侯のことを思い返す。
間近に接したのはごく短い時間でしかなかったけれど、映画で観た以上の厳しい目つきが印象に残っている。
そして当時は思い出していなかったけれど、今のわたしは、彼の背景を少しは知っている。

だからこそ、一つ小さな気掛かりがあった。
デネソール侯は、原作ではパランティアを使用している。
「見る石」と呼ばれるそれ。
……映画でも、アラゴルンさんが石を通じて自分の姿とアンドゥリルをサウロンに晒している。
デネソール侯の方の石は、映画には登場しなかった。
それは、この世界では使っていなかったという見方もある。
同時に、単に尺の関係で描かれなかっただけかもしれない。原作でそういう設定なのだ、使用していても不思議ではない。

彼はパランティアを使ったが故に消耗し、その心と精神は蝕まれていった。
デネソール侯が辿った結末、そこへ至るまでの道筋を今のわたしは少し、本当に少しなら知っている。

部屋はいつの間にか暖まっていた。
多少まだ早いけれど、身支度くらいはしてしまってもいいかもしれない。
ベッドから身を起こして、足を床に下ろした格好のまま、思った。
……もし結末が変わるのなら、変わってほしい。
それを侯が望むかどうかは、分からないけれど。




朝の支度がひと通り済んだところで、ノックがあった。
ゆっくりとした、弱々しいノック。
わたしはドアを振り向いて、次いで腕時計を見る。
確かに明るくはなってきたけれど、それにしたってまだ早い。誰だろう。
その答えはすぐに分かった。

。……起きてるかい」
「キーリさん?」

戸の向こうから聞こえたのはキーリさんと思しき声だ。
すぐさま近付いて開けてみれば、だるそうにしながらも両膝に手をついて、静かに深く呼吸を繰り返しているキーリさんがいた。
上げた顔は未だに青く、どう見ても具合はよろしくなさそうだった。

「夕べはありがとう。……あの薬のおかげで、どうにか眠れたよ」
「よかったです」

ひとまず応じながらも、少しハラハラする。
どう見たって、これから竜退治に行ける状態ではない。
リーダーであるトーリンさんは何というだろう。わたしから見ても、安静と療養が必要だと思うけれど……。
しかしキーリさんの方は、そう考えてはいないらしかった。

「それで。……良かったら、またあの薬をもらえないかな」
「……キーリさん」、
わたしはすぐに返事をしないで、彼に訊ねた。
「このまま、はなれ山に行くつもりなんですか?」
「勿論さ」

微かに笑ってみせてくれたけれど、ほとんど引き攣っているのに近い。
無理をしているのがすぐに分かる、きっと誰の目にも明白なのに違いなかった。

「これくらいで戦線離脱だなんて言ってられないさ。だから、俺も――」
「わわっ……キーリさん!」

唐突に、キーリさんの言葉が途切れた。
かと思えば、そのままぐらりと身体が揺らめいて、こちらに倒れ込んでくる。
慌てて受け止めはしたけれど、ぐったりと力が抜けたドワーフはそれなりに重い。
どうにか部屋の中に引き摺り入れて、整えたばかりのベッドに寝かせればその顔は苦悶に満ちていた。
ひとまず一回分の痛み止めと水を飲ませて、落ち着くまで休んでもらうことにする。
薬をのんだという安心感からか、十分程度でキーリさんはその身を起こした。

「君の持ってる薬はよく効くなあ」
「……でも、まだ休んでなきゃダメですよ。食べられるようなら、朝食ももらってきますから」
「うん。……いや。やっぱり、部屋に戻るよ」

そう言って立ち上がろうとする。
わたしは内心、(薬、あげてよかったのかな……)と少し後悔していた。
キーリさんは痛みを押して、はなれ山に赴こうとしている。
けれど戦闘不能に近いさっきのあの状態ならば、トーリンさんもすぐに気付くだろう。
下手に動けない方が、逆に彼のためになったかもしれない。

かと言って、苦痛に耐える彼を放っておくこともできなかった。
痛みというものがどれだけ辛く苦しいかは、わたしも知っている。それを取り除けるなら、そうした方がいいに決まっている。
……今になってどうこう言っても、仕方がない。
わたしは立ち上がりかけていたキーリさんのその肩を押して、もう一度ベッドに座らせた。

「……朝ごはん、もらってきますから」

待っててくださいね、と言って返事も聞かないまま、わたしは部屋を出た。




出発の時間。
山へと向かう船の近くにはドワーフの皆とビルボさん、そしてわたしが揃っていた。
朝食を一緒に部屋で取ってから、様子を見つつ一旦キーリさんとは別れた。
そうして今、どうなっているかというと。
わたしはその方向を見て、思わず片手で頭を押さえてしまった。
それなりに痛みは抑えられているらしい。けれど、当然なことに根本的な治療は為されていない。
その結果、顔色は真っ青なのに(痛みは一時的に引いているため)行く気満々、表情は凛としているという、何とも言えない状態のキーリさんができあがっていた。
蒼白と言える顔色の悪さである。それでいて、この表情は明らかにおかしい。
トーリンさんは何と言うだろう。

「お前はいい。足手まといになる、残れ」

やっぱり、アウトらしい。
次々と小船に乗り込むドワーフ達、その中で彼だけをトーリンさんは押し留めた。
怪我を負ったキーリさんを気にかけていたのに違いない。
行くと言って食い下がる彼を、少ない物言いで町に残って休むように言いつける。
すぐに、オインさんも残ると言い出した。
怪我人の世話は自分の役目だという。
そしてフィーリさんも。数人はどうやら、湖の町に残留するような風向きだった。

(あ、ここで二手に別れるんだ……)

わたしはちょっと瞬いた。
キーリさんのことは確かに心配だった。
けれど同時に、それなりに固まって竜退治に行くのかな、となんとなく思っていたのも事実だった。
原作は、自分の世界に戻った際に少しずつ読み進めている。
けれどまだてんで序盤で、この湖の町でのストーリーは今のところ、詳しくは分からない。

(どうしよう)

一瞬、迷いが生じた。
二手に分かれるとはいえ、はなれ山へ向かうグループの頭数は十分だった。
反面、残留組は片手で足りそうだ。何より、わたしが山へ同行して、果たして役に立てるだろうか?
竜退治、である。
……うん。まあ、役には立てないかな。わたしは数秒で答えを弾き出した。
それならこちらに回って、キーリさんを看る方がまだ幾らかは手伝えるかもしれない。
わたしは隣にいたビルボさんを振り返った。

「ビルボさん。わたしも残ります」
「そうかい? ……うん、そうだね。その方がいい」

彼は何度か肯いた。
わたしは「どうぞ気をつけて」と言ってビルボさん達を見送ったけれど、正直言って然程の心配はしていなかった。
なんて言ったって、ビルボさんは物語の主人公だ。絶対に死なない。六十年後だって生きている。
抜群の安定感と安心感。絶大な信頼のビルボさんである。

しかし、こちらは。
がっくりと項垂れているキーリさんを、フィーリさんが支えている。
オインさんが、視診しているのか彼の様子をじっと見ていた。
……まさか。そんなわけない。
わたしは自分に向かって、胸の内であることを呟いた、丁度その時。

「お前らも遅刻組か?」

唐突に、何処か安堵が混じった声が掛かる。
寝坊したらしいボフールさんが、ようやく駆けつけてきたようだった。
キーリさんにフィーリさん、オインさん、ボフールさん。
そして、わたしの五人が揃っている。

――大丈夫。大丈夫。フラグを立てるようなこと、考えてはいけない。
わたしは頭を振った。
そう、きっと大丈夫。今はまず、キーリさんを休ませなければいけない。
そして、適切な治療をすればいい。治して、傷が癒えたなら山へ向かった面々を追い掛ければいい。ただそれだけのことだった。
思うのに、わたしは出発した小船の方と、それから今この場にいる皆とを見て、さっき心の中で呟いたことをどうしても思い出してしまう。

(誰も、死なないよね……?)

今まで疑いもしてこなかったことが、急に自分の中で膨れ上がりそうになる。
それを必死で、何処かに押し留めなければならなかった。






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