ふわりと、香ばしいいい匂い。
わたしは書きつけていた日記から顔を上げた。
傍ではソーセージがフライパンの中でじゅうじゅうと音を立てている。
一休みの時間、みんなが思い思いに過ごしていた。
一番近くに食事の支度をしているサムとフロドがおり、少し向こうではボロミアさんがメリー達と何やら言葉を交わしている。
それを見ながらパイプを吹かすアラゴルンさんの姿があり、更に離れたところではガンダルフさんやエルフのレゴラスさん、ドワーフのギムリさんがいる。
流れる時間は、穏やかだ。少なくとも、わたしにはそう感じられた。
裂け谷を出てまだ幾らも経ってはいなかった。
今日までにあのオークのような敵らしい敵と出くわす訳でもなく、特にトラブルにも出くわしてはいなかった。
敢えて言うなら、わたしが旅に加わったことこそが皆にとってのトラブルだっただろう。
しかし今更、それを言うまい。言ったところでどうにもならない。
わたしは日記を荷の中にしまうと、皿によそったソーセージをサムから受け取り、焼き上がった順に配っていった。
お昼としては少し遅い時間で、ギムリさんに配った時など
「後は樽いっぱいのビールがあればなあ!」などと言ってのけているくらいだった。
それに思わず笑ってしまうけれど、気持ちはわかる気がする。
気温も過ごしやすいくらいで、風も強くはない。この前まで寒風が続いていたのでありがたいことだった。
ちょっとくらい、まったりしたいと思う気持ちにもなるだろう。
「、お茶を淹れるから、これも皆に配ってくれるかい?」
「お茶?」
フロドの声に、わたしは一瞬いいのかなあ、という気持ちになる。
水はそう簡単に汲んでこられるわけでもなく、且つ人数分を確保しておくのは案外難しい。
そのように感じ始めていたので、今使ってしまってもいいものかと思ったのだ。飲用水ともなれば、特に。
言いたいことが伝わったのか、フロドはそんな不安を直ぐに払拭してくれた。
「アラゴルンがさっき、湧水を汲んできてくれたのさ。お茶に使うくらいなら平気だよ」
「そっか、いつの間に」
全く気付いていなかった。
しかしそういうことならと、湯気の立ち昇るお茶を順番に回していく。
――旅って、大変だなあ。つくづく、そんなふうに思う。
水や食料の確保もそうだし、お風呂だってそうそう入れない。
しかしわたしはというと、正直、ズルをしている。
慣れない水浴びをしてうっかり風邪でも引こうものなら、完全なる足手まといである。
だから眠る度に自分の部屋に戻って、こっそりそちらで身体を洗うようにしている。
ここ最近は途切れることなく、向こうに戻れるようになっていた。
水だって、こっそり向こうの水道から汲んだものを補給できないかとちらりと考えもした。
しかし明らかにバレるのは目に見えている。故に、今のところは思い止まっているのだ。
……やっぱり、喋ってしまった方がいいんだろうか。
時々、そんなふうに心が揺らぐけど、その度に(それは最後のとっておきにしておくべきだ)と考え直す。
わたしがあちらに戻れると判ったなら、その時点で「帰れ」と言われるだろう。
ゴンドールに戻るまでは、それは避けたいのだ。
「浮かない顔をしておるの」
「そんなふうに見えますか?」
ガンダルフさんにお茶を渡すと、そんな言葉を代わりに受け取った。
果たして、そんなに表情に出ていただろうか。気を付けなければならない。特に、この魔法使いさんの前では。
わたしは改めて、その人物を見た。
思いのほか長身である彼は、身の丈ほどもある長い杖、そして剣までをも携えているようだった。
今はそれらも脇に置かれ、手にしているのは茶の器だ。
ガンダルフさんはほとんど一口に中身を飲み干してしまうと、次いで懐からパイプを取り出した。
煙を楽しむ余裕まであるらしい。
「ガンダルフさんは」、空のお茶の器を受け取りながら、わたしはちょっと訊ねてみたくなった。
「こんなふうに歩き通しで、疲れないですか?」
「わしをあちこちが痛むばかりの年寄りだとでも?」
「えっと、気を悪くされたなら謝りますけど……」
そういう意味で言ったのではない。
寧ろわたしの方が、ここ数日歩き通しで筋肉痛なのだ。
何日か前に眠って向こうに戻った時など、ドラッグストアへ塗るタイプの筋肉痛薬を買いに行ったくらいだ。
だから、余裕のありそうなガンダルフさんがどう体力を維持しているのかと思って訊いただけに過ぎない。
もしかして魔法を使っているのだろうか、或いは、普段から旅をしているようだし、その日々の積み重ねの賜物だろうか。
単純にレベルがカンストしていて体力自体がすごい、とかだったらまるで参考にならないが。
けれど、彼の口からこぼれたのはいっぺんには解せない言葉ばかりであった。
「……いや、そうじゃの。この姿で中つ国に遣わされて久しいが、確かにこの身は寒さも応える、節々も痛むしかなわん」
「遣わされたんですか」
わたしは取り敢えず反芻するに留めた。
その言い方だと、この中つ国以外の何処かからやって来た、というふうに聞こえる。それで合っているのだろうか。
それに、この姿で、というのは。本当はもっと別の姿をしているとでもいうのだろうか。
「左様。……ヴァラールは、何故わしをこのような老人の姿でこの地に遣わしたのかと考えた時もあったが」
「えっと……」
ちょっと、何言ってるのか分からないです。
思わず胸の内でそう呟いてしまう。そしてその半分方は、ほぼ独り言であるかのようだった。
そもそも、ヴァラールって何だろう。偉い人?
わたしは若干、いやはや大層にちんぷんかんぷんだったけれども、何となくそんなふうに想像する。
ガンダルフさんを改めて見る。
ゆっくりとパイプから昇る煙が空気の中に消えていく。
その目は遠いいつかを見るみたいに細められていて、その中にどんな記憶があるのか窺い知ることはできなかった。
ガンダルフさんは、不思議な魔法使いである。
顔を合わせてまだ幾日も経っていないのに、ずっと前から知っていたような気もする。
ボロミアさんから話を聞いていたからだろうか、どうしてだろう。
……どうしてこの人は、この旅へのわたしの参入を許してくれたのだろう?
そして本当に何処か別の場所からやって来たなら、次行くところは何処なのだろう。
ほんの僅かに遠い目をしていた彼は、ふと我に返ったみたいに一度瞬きをした。
「いや、そなたに言うべきことではなかったの」
「いえ、わたしの方こそすみません」
ヴァラール云々、のことについて深く訊くまいと思った。
わたしに直接関わることでもないように思えたし、さっきのガンダルフさんの問い(何故老人の姿で、というやつ)にも到底答えられそうになかった。
「そのヴァラールという人が、爺萌えだったんじゃないですか」。
そんな率直な意見は、流石のわたしでもちょっと言えない。
気付けば、刃のぶつかり合う音が響いている。規則的な音の連なり。
わたしはガンダルフさんの傍を離れて、フロドとサムの方に戻った。
茶の器を預けて音のする方に臨めば、ボロミアさんがメリー達に剣を手解きしている。
見れば、丁度わたしの主が手首のところで剣の柄をくるりと回していた。
今まで何度か、そんなふうにしているのを目にしている。
(かっこいいなあ)と思うのと同時に、(どうやってるんだろう)、とも思う。
多分、癖なんだろうと思うが、どうやって回転させているのか未だによく分からない。
うっかり失敗したら、軽い怪我では済まないのではないかと思う。ペンを回すのとはわけが違う。
逆にその分、ボロミアさんが剣に慣れているということでもある。
わたしは独りでそう納得した。
……わたしも、もっと練習しなくちゃいけない。まだまだレベルは低い状態なのだ。
「! も一緒にどうだい」
「君も、剣を習っている最中なんだろう? 僕らだって負けてられないからね」
ピピンとメリーから都合よくそんな声が掛かる。
ボロミアさんは何も言わず、ただ笑んだまま少しだけ顎をしゃくるような仕草をしてみせる。そちらに立てということだ。
わたしはそのポイントに立つと、真っ直ぐにその人を見つめた。
……わたしの主は、何も訊かずにいてくれている。
わたしが、いつか中つ国を去るだろうことを口にした時も、この人は問い詰めるでもなく、ただボロミアさんのままでいてくれた。
今は、このままこの人と一緒にいたかった。せめて、ゴンドールに戻るその時まで。
わたしはそんなふうに思いながら、腰に差している刃の柄に触れた。
剣の稽古の最中というのは、時間の感覚がわからなくなる。
ローハンでそうしていた時も、ふと気付けば思っている以上に時が経っていた、ということが多かった気がする。
だからこの時も、ほんの数分なのか、それ以上経っていたのか判然としなかった。
わたしが動きを止め、短剣の振り方を頭の中で思い描いていた時、不意にピピンが剣を取り落した。
慌てた様子でボロミアさんが謝りの声を上げたので、彼の方が刃を振る時の力加減を間違ったのかな、と思った。
けれど次の瞬間わたしはちょっと吃驚した。
ピピンが思い切り我が主の脚を蹴り上げたのだ。
「え、えっ」
思わずぎょっとしてしまうけれど、そうしている間にも今度はメリーまで加勢して、ボロミアさんをひっくり返してしまった。
「え、ええー……」
どうしたものかとすぐ傍にいたアラゴルンさんを振り返るも、彼までもが面白げに静かに笑ってパイプをふかしている。
いや、確かに見れば当の三人だって楽しそうにはしているけれど。
お父さんと子供みたいで和むけど。
これは、わたしも笑ってしまっていいものだろうか。
取り敢えず、どうにかことを収めてやってほしい。アラゴルンさん。
心の声が届いたかどうかは定かでないが、彼は立ち上がると戯れているホビット二人を剥がしに掛かった。
……直後、アラゴルンさんも二人に膝の辺りを掬われ、ひっくり返されてしまった。
「えええええー……」
これはひどい。
わたしは我慢しようと思っていたのに、ついつい、今になってふき出してしまった。
ようやくどうにか笑いを押し留めて、ボロミアさん達を起こした時、……わたしにとっては本当に突然のことに思えた。
ひどく和やかな時間がつい今しがたまでここにあったというのに、一瞬にして其れが消え去ったように感じられたのだ。
「クレバインだ!!」
空気を切り裂くような、レゴラスさんの声だった。
わたしはそれが何を意味しているのか解らなかったし、何がどうしたのかも解せなかった。
ただ、丁度ひっくり返っていた主の身体を起こそうとその手を掴んでいたので、そのままボロミアさんにぐいと引っ張られていた。
それについていくのが精一杯だった。
気付けば辺りに耳障りな、カラスか何かの羽ばたきみたいな音が充満している。
それが遠ざかっていくのをただジッと聞いているしかなかった。
……重い。
辺りが静かになる頃になって、ようやく自分が今どういう状態になっているのかを確認できるようになった。
重いのは、ボロミアさん自身の体重もそうだろうし、足すことの重装備なのもあると思う。
目の前に、腕の部分の鎖帷子が覗いている。これを身に付けて歩いているのだから、すごいなあと思う。
普段持ち歩く武具も合わせたら、相当のものではないだろうか。
当の本人は空の方向を見上げていて、わたしからは表情は見えない。
ようやく状況が落ち着いたと判断したらしいボロミアさんがこちらを見れば、至近距離で目と目がかち合った。
我が主はわたしの上に被さってくれているのだから、首の向きを戻せばそれはそうなる。
一瞬、微かに向こうの身体が強張ったような気がしたけれど、ともかくわたしは御礼を告げることにした。
「あの……すみません、引っ張ってもらわなかったら行動遅れてたと思います。ありがとうございます」
「……いや」
「あと、ごめんなさい、ちょっと重いと言いますか、何というか」
「すまん」
身を退く主の下から恐る恐る辺りに這い出てみると、何もなかったかのように思える。
けれど、皆も身を隠していたらしい、わたしと同じように方々から出てくると、ある方向を見つめている。
つられて見れば、空に小さな黒い点々が固まっていて、徐々に遠ざかっているらしいのが分かる。
ガンダルフさんが苦い口調で呟いていた。
「サルマンのスパイじゃ」
誰。
また新しい言葉が出てきたけれど、わたしはもう突っ込むのは心の中だけにすることにした。
どうもこの世界は、固有名詞だけでもついていくのに一苦労していけない。
わたしは今後も自分に必要なことだけを拾っていこうと心に決めつつ、話を聞く。
どうも、行く先を敵に見張られているらしい。
故に、進路を変更してこれからカラズラスというところへ向かうという。
皆が見るその方角をわたしも見上げて、えっ、と思う。
見上げた先は、白く輝く峰が連なる山々がそびえ立っていた。
「……ボロミアさん」
「どうした」
「もしかして、あの山を越えるんでしょうか?」
「そういうことになるな」
彼自身もあまりこのルートを良く思っていないのか、どうにも難しい顔をしている。
つい他の人達の顔を見回してしまうけれど、どの人もボロミアさんと似たようなものだった。
冗談抜きに、雪山登山を決行しなければならないらしい。
わたしは自分の足元を見下ろした。
そこにあるのはいつも履いているスニーカーである。これで行くのは多分に厳しい。
向こうに戻って、色々準備してきたら駄目かな。
靴に限らず、ダウンとか、防寒するためのもの全般的に、もういっそ、ここに居る全員の分を買い込んできたい。
駄目かな。……駄目だよね。
わたしの自問自答は数秒で終了した。どうしようもなく嫌な予感がしてならなかったが、ともかく。
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