陽はまだ高く、風も幾らかやわらかい。
わたしはしゃがみ込んだ姿勢のままで、目を上方に持ち上げた。
ほとんど落葉してしまった木々の枝の間から、陽光が射し込んでくる。冬の季節独特の淡いぬくもり。
ぐるりと視線を巡らせると、皆がめいめいに身体を休めている。
雪降り積もる山を越えるのに、必要なものを揃えなくてはならない。
聞けば、近くに小さな集落があるという。
そして、それは確かに存在しており、今居るこの高みから充分に見下ろせるところにある。
そう離れてはいなかったけれど、実際に集落に下りて行ったのはアラゴルンさん、それにエルフのレゴラスさんだけだ。
それも、もっとものように思う。そうでなくてもこの人数、更には種族も大いに混ぜこぜときている。
二人程度ならそう目立たないし、あの人達なら身も軽い。この数日のうちを過ごしただけでも、それは充分わかることだった。
わたしは改めて、悟られないようにしながらそっと、一人一人を見やった。
ホビット、ドワーフ、魔法使いに人間、エルフ……。
「うーん」
「どうした、」
何を唸っている、と傍らに居たボロミアさんが訊ねてくる。
バランスのいいパーティーですけど、ドラクエだったら馬車が必要な人数ですよね。
……というのは、思うだけにしておいた。
「いえ、雪の山に登るのって、わたし初めてなので大丈夫かなって……。あ、ふつうの山登りは昔、学校の遠足でしたことあるんですけどね。こんなことなら、山岳部に入っていれば良かったです」
「…………」
それらしいことを繕って言う。
返事を期待して言ったのではなかった。
しかし、ふと主を見れば、何やら考え込んでいるような思案顔である。
「ボロミアさん?」
言うと、彼はちらとこちらを見て微かに笑んだ。すぐに、その目が向こう側を向いた。
「ガンダルフ」、
少し離れた先にいた魔法使いに呼び掛ける。ボロミアさんの声は続いた。
「道を逸れ、ローハンの谷からゴンドールへ行くのはどうだろうか。……あの山を越えるのは考え直した方がいいように思うが」
彼はそんな提案をした。
わたしはというと、おお、と心の中で声を上げていた。
ローハン! もしそうなれば、またエオウィン姫やエオメルさん達に会えるかもしれない。
彼らならきっと、この大所帯でも快く迎え入れてくれるだろう。
わたしはこの世界の地理にそう明るくないので、何処を通ろうと何とも言えない。
けれど、今行こうとしているルートを通るには、何か理由があるのだろうと思っていた。
だから、別のルートを推薦するというのを考えていなかった。
なのに、ボロミアさんはそれをあっさりとやってのけたのだ。この人は世界を知っていて、今後のことを見据えてものを考えている。
すごいなあ、としみじみ感じ入っていたのも束の間、ガンダルフさんはそれにすぐさま不同意を示した。
「言ったはずじゃ、我々の行く先は見張られておると」
「しかし」
ボロミアさんは食い下がったが、ガンダルフさんは首を縦に振ろうとはしなかった。
魔法使いには、魔法使いなりの考えがあるのだろう。
そして、それは勿論ボロミアさんにも。この人は、できる限り危険を伴わない道を考えてそれを提言したのだ。
黙り込んでしまった主に、わたしはそれとなく水を向けた。
「ローハン……エオウィン姫と会ったのが、つい昨日のことみたいですね」
「……そうだな」
「……ふふ」
「何だ」
「いえ、次会う時までには、上達してるかなあって」
「ああ……今のまま鍛錬していれば、きっと姫も、の剣の上達ぶりに驚くだろうな」
そう言うボロミアさんは、すぐにいつもの彼らしさを取り戻している。少しホッとした。
しかも思いがけなく、ちょっと剣について褒められたような気がする!
わたしは無意識に何度か肯いた。よーし、と思う。
もっと練習しなくちゃ、と思った。
思ったけれど、それと同時に、わたしは自分の言葉の真意を口にする。
「ふふ、わたしのこともそうなんですけど。……姫の、料理の腕前も上達していればいいんですが」
「何だそれは」
「あっ、いくらボロミアさんでも、これ以上は内緒です!」
言うと、何だかよく分かっていない様子の(当然なのだけれども)主が瞬きしている。
その表情が何だか面白くて、ちょっとだけ笑ってしまう。
最初こそそんな顔をしていたボロミアさんも、わたしにつられてか或いは苦笑か、幾分表情を緩めてくれる。
この人は、怖い顔をしているより笑っている方がずっといい。
……早く、ゴンドールに戻りたいな。
そんなふうに思った。
ふと、目を覚ました。
カラズラスという雪山に入る前に、皆で順に睡眠を取ることになっている。不寝番の誰かは起きているはずだけど――
辺りは暗く、まだ夜なのは明白だ。
そっと頭をもたげると、ほとんどが眠っていて、静かな時間がそこにある。
「起きたのかい」
囁き程度の声がした。
見れば、座ったままでこちらに視線を寄越している人……否、エルフがいる。レゴラスさんだ。
「……起きちゃいました」
「まだ朝は来ない。もうひと眠りしたらどうだい」
「そうですね……」
言いながら、わたしは地味に眠気が何処かへ行きつつあるのを感じていた。
眠る都度、わたしは自分の世界へ戻っている。このところ途切れなく戻れていて、さっきまでもそうだった。
雪山登山に必要そうな個人的なものを買い揃えてきたが、向こうで少し睡眠を取ったこともある。
暗がりの中で、ちらと腕時計に目を落とす。
読み取れた針からすれば、夜明けまであと数時間程度あった。
「それは何だい?」、レゴラスさんからそんな小さな問いが発せられる。
「時々君は、そうやって手首を見ているね」
「これですか? 時計ですよ。腕時計」
「時計?」
彼は不思議そうに一度瞬く。
……思えば、レゴラスさんとは、まだそう多くの言葉を交わしていない。
少し、お話してみようか。
向こうが、良ければの話だけれど。
気まぐれに思うも、周りを見る。小さな声でのやり取りだ、離れていてはやりづらい。それに、誰かを起こしてしまうかも。
傍らを見やれば、横を向いたまま目蓋を閉ざすボロミアさんや、連なるみたいに固まって眠るホビットらがいる。
くっついて寝る子犬とその親みたいだった。
わたしが立ち上がって抜き足差し足する間も、レゴラスさんは黙って静かに見守ってくれている。
それが、傍まで行って手首を見せると、僅かながらも表情が変わった。
「こんなに小さな時計は初めて見たよ」
そう口にする顔には微笑みがあり、本当にそうなのだろうとわかる。
永く生きるエルフ族でも、初めて見るものというのはあるらしい。
そしてそれは、微笑みを誘う程度には彼に響いたらしい。少なくとも、そんなふうに見えるくらいには。
この中つ国の方が、ちっぽけな時計なんかよりずっとたくさん素敵なもので溢れているだろうに。
思っていると、不意にレゴラスさんの顔から笑みが失せた。一度その目が泳ぎ、再びこちらを見る。
静かに、というようにそっと人差し指を自分の口の前に持ってくる。
次の瞬間に、その手には弓矢が番えられている。
わたしはというと、何がどうしたのか解らず事態をただ見つめるしかない。
向こう側の暗がりからアラゴルンさんが現れても尚、理解に時間が必要だった。
すぐにレゴラスさんは武器を下げ、アラゴルンさんもいつもとさして変わらない顔をしている。
「遅かったな」
「そのつもりはない。いつも通りだ」
応酬はごく短く、それでも、ぶっきらぼうな物言いでは決してない。
寧ろ、その逆のように感じられる。二人は、どうやら仲良しさんらしい。
大分遅れて、なるほど、見回りか何かから帰ってきたその人への「おかえり」の挨拶だったのらしいと分かった。
映画にありそうな一場面だと、ふと思う。
それにしても、物音などしただろうか。わたしには聞こえなかったように思うけれど。
「レゴラスさんには」、つい訊いてみたくなって、わたしは口を開いてみる。
「足音とか何か、聞こえてたんですか?」
「エルフの耳だ」
そう答えたのはアラゴルンさんの方で、それ以上何を言うでもない。
当のエルフ本人は静かに小さく笑んでいるだけだ。
ただ、その一言だけでなんとなく納得できる気もする。
まあ、エルフだもんね。
やたら寿命が長かったり、外見も整ってたり、見たまま耳はちょっと尖っていたり。
あとは個々によるだろうけど、魔力や素早さに秀でていたり。きっと中には、流した涙がルビーになったりするのもいるんだよね。
方向が大きく逸脱しそうになった頃には、アラゴルンさんも傍に腰を下ろしている。
昼に、集落に下り立っていった二人だなと思い出していると、
「君も」、
ぽつりと一つ言葉が落ちる。レゴラスさんから。続いた。
「君の主と同じ意見なのかい?」
「はい?」
「これから通る道の話さ。……ローハンを抜けた方がいいと思うかい?」
そこまでを聞いて、昼間の話かと合点がいく。
彼らが戻ってきた後も、これからのことを其々が話していた。
小さな人達は雪山ルートに不安を隠せないでいたし、そうでない人達は……、これは、わたしの耳の及ばないところで会話が為されていた。だから、よく判らない。
「わたしはこの辺りの地理に疎くて、正直よく分からないんですけど……」
取り敢えず前置きはしておくことにする。
少し頭の中で言いたいことを組み立ててみる。出だしを口にした。
「わたしとボロミアさんは、裂け谷に着く前にローハンに立ち寄ったんです。皆さん、親切にしてくれましたよ。……ボロミアさんは、可能な限り安全な道を行った方がいいと判断したんだと思います」
「しかしローハンは、アイゼンガルド近くに位置している」
低くそう言ったのはアラゴルンさんだ。
そもそもアイゼンガルドとは。アレフガルド、みたいな?
「……近いと駄目ですか?」
「駄目だ」
「はあ」
にべもなく言われると、そうですかと返すしかない。何がしかの理由があるのだろう。
しかしそうなると、本当に雪山ルートに入ることになる。
……この二人は、このルートが本当に最善と考えているのだろうか。
問おうかと思って、止める。
下手な問答をしてわたしが弱音を吐いているように聞こえたりしようものなら、旅から外されるかもしれない。
それだけは何としても避けなければならない。
わたしはふと、別に思ったことをそのまま訊ねてみた。
「じゃあ、あの、他に道はあるんでしょうか。えーと、カラズラス……と、ローハン以外で」
「……ドワーフは、モリアを行こうと言うだろうね」
レゴラスさんが、目をほんの少し細めて言った。
けれどもその目は、向こうでいびきをかいて寝ているギムリさんを見ようともしない。
声もさっきまでトーンが違っていて、わたしは内心ぎょっとした。
微笑んでいる時はにこやか且つ和やかな空気を発していたレゴラスさんが、一瞬にして凍れる雰囲気をまとって見える。
え、何、どうしたんですかレゴラスさん。
胸の内で思うが、そう言えばこの旅路の間、エルフとドワーフが仲良くしている図は見掛けていなかった。
寧ろ、意図的にかそうでないのか、互いに心持ち距離をとっているようにさえ見えたものだ。
今の様子からすれば、前者だろうが。
「ええっと、じゃあその、モリアという道もあるわけですよね」
「いや、その道は最後の選択肢だ」
「……そうなんですか?」
「ガンダルフはそう考えている。……私も同じ意見だ」
そう言うアラゴルンさんの目は、暗い所だとますます表情が読み取りにくい。
彼が決して見た目通りでなく、寧ろ親切な人であるのは分かり始めているところだ。
けれど、ボロミアさんが彼とまだそう打ち解けている様子がなく、従ってわたしもまだ、アラゴルンさんとそう会話を重ねていない。
……どうしてだろう。
同じ人間同士、歳も近そうに見えるし、もっと距離が近くても良さそうなものなのに。
「色んな意見があるみたいですけど……」
頭の中の疑問はさておき、わたしは呟いた。
一番最初に、レゴラスさんから自分の意見を問われていたのを思い出したので。
「わたしはどの道がいいのかっていうのは判らないですけど、皆さんの意見のいいところと、今の状況とか、そういうのを照らし合わせてみて、一番いいと思うルートを行けばいい…………」
と、思うのです、けれども。
言っていて、語尾がだんだん小さくなっていった。
一行の中でおそらく自分は、かなり年少の方であろう。
それなのに、この世界のことを何も知らない上で一意見を言うのが、急に何だか生意気なような気がしてきたのだ。
アラゴルンさんはこうだし、レゴラスさんに至っては、実年齢なら数百歳とかふつうに生きていそうだ。迂闊なことは言えない。
「……すみません、生意気言いました」
「そんなことはないよ。君のいうことも最もだ」
レゴラスさんは首を振って言った。特に気にしていないみたいだった。
そしてそれは、アラゴルンさんも。
「……?」
出し抜けに、聞き慣れた声がした。
見ると、ボロミアさんが半身を起こしてこちらを見ている。少しだけ乱れた髪。
今し方、目覚めたばかりらしい。
「何をしてるんだ」
「え? えーと」、
わたしは状況を説明するべきだろうか、と考え、ひとまず分かりやすい明朗な答えをした。
「起きちゃったんで、起きてました」
「……見ればわかる」
説明にはならなかったらしい。
というか、ボロミアさんの機嫌が何だか地味に悪そうに見える。笑ってないどころか、目も細まってるし。
……それもそうだよね、きっと、うるさくしてしまって目が覚めたのだろうし。
思って謝ろうとするより早く、傍に来るように言われる。
「体力を温存しておけ。今は身体を休める時だぞ」
「はい、すみません」
わたしは大人しく従って、もう一度、少しだけ横になることにした。
レゴラスさん達に頭を下げると、二人から妙に温かい視線をもらったような気がする。
多分、ほんの少し会話を重ねた結果による親交の表れに違いない。
彼らとお話できて良かったと思いながら再び寝床に戻る。
唐突に肩の辺りを掴まれて、小さく「ひゃっ」と声を上げてしまった。
何事かと見れば、もう既に眠りに戻ってしまったらしいボロミアさんの片手が肩に掛かっている。
すぐ隣で寝ているのだから、その腕を投げ出せばそれはそうなる。寝惚けているのだろうか。
起こそうにも、さっきのちょっと機嫌悪そうな様子を思うとそれも憚られる。
おかげで、夜明けがやってくるまでの数時間の間、わたしはその状態のままでいることを余儀なくされてしまった。
先程、声を上げてしまったのを確かに聞いたであろう不寝番の二人の方から、何とも言えない嘆息があったような気がした。
←BACK
▲NOVEL TOP
NEXT→