の顔が、微かに強張っている気がする。
簡素な朝食を終え、一行が出発の支度を整えている間のことだ。
昨日アラゴルン達が手に入れてきたものの中に、小振りの手袋があった。丁度、彼女に合いそうな大きさだ。
防寒用に身に付けるものを分け合い、私がにそれを渡そうとした時になって気が付いた。
「これを」
「わたしが頂いていいんですか? ホビットの誰かの方が……」
「訊ねてみたが、小さな人には少し大きさが合わないそうだ。ならば合うかと思うが」
素知らぬふりで告げると、向こうは納得したようにそれを受け取る。
口調も表情も、普段通りだ。
ただ、数刻前……夜中に起き出して、アラゴルンやレゴラスと言葉を交わしていた時とは、何処か様子が違うように思える。
手袋を両の手にはめた彼女はこちらを見上げ、
「そうですね、ピッタリです。ありがたく頂きますね」、
そう言って布地を馴染ませるように何度か手を開いたり閉じたりしている。
……気のせいだろうか。
何しろ、我々はこれから雪中行軍しようという時だ。それを思えば、緊張するのも当然だろう。
見回すと、それこそ小さい人達は何処か落ち着かなげだ。
手と手を擦り合わせていたり、行く先の白い峰を見て何とも言えない吐息を漏らしていたりする。
気丈に見えても、とて不安は大いにあるだろう。
……無事に、行く先へ辿り着けるように、今はするべきことをするだけだ。
殊に自分には、ゴンドールには、あまり時間が残されていない。
「行こう、」
「はい」
そう返事をする彼女は、やはり私のよく知る彼女に違いなかった。
地面は既に、白い一面の雪に覆われている。
幸い今は晴天に恵まれているが、いつ天候が変わるとも知れない。
今のうちに、できる限りの距離を進んでおかなければならない。
進路確認のために僅かばかり歩みを止めた時、が包みをこちらに差し出してきた。
「ボロミアさんもおひとつ、いかがですか?」
「……飴玉か?」
「はい、丁度持ち合わせがあって。良ければ、喉が痛くならないようにおひとつどうぞ」
蜂蜜でできてますから、栄養補給にもなりますよ。
その言葉が示すように、包みの中は黄金色の粒が満たされている。
そのうちの一つをもらい口に入れようとして、ふと、いつの間に調達したのだろうと思う。
ゴンドールを発った時でさえ、の持ち物はそう多くはなかったはずだが。
「僕達にも分けてもらえるとありがたいんだけどなあ。こう空気が冷えて乾いていると、鼻と喉の奥がツンとして仕方がないよ。なあピピン」
「そうだねえ。そうでなくたって、朝食後のおやつの時間をとうに過ぎてる。ねえメリー」
「……取り敢えずひとつどうぞ。順番にね」
いち早くやってきたホビット達に、彼女はそれを分けてやる。
飴玉を口に放り込んだピピンは
「君のくれるおやつはいつも美味しいねえ」と言ってにこにこと微笑んだ。
「裂け谷でもらったのも、また食べられたらなあと思っていたんだ」
「……裂け谷で?」、
私が口を挟むと、小さき人ピピンはその時の事を思い出すかのようにうっとりと目を細めて続けた。
「ええ! あれは初めて食べたけどなかなかのモノだったなあ。何ていうお菓子だったっけ、ねえ……」
「ピピン」
声が、続きを遮るように発せられた。
見れば、は薄く笑んだまま、ジッと声を向けた先を見ている。
それだけのはずなのに、何処か妙に有無を言わせぬものを含んでいる。ゾッとしたように、ピピンが口を噤んだ。
「その話はまた、後でね」
にっこりと微笑んで言うと、彼女は他の者達の元へと回って歩いていく。
その姿が幾分離れた頃に、「なんだかさあ」、とメリーが言った。
「今日の、いつもと何か違うと思わないかい」
「……僕はいつも通りのだと思う」
「それはどうかなあ」
やはり、メリーから見てもそう映るらしい。
はて、と私は思う。
どうしたものだろうか。体調が優れないのを押し隠しているのか、或いは、何か別の理由があるのか。
そういった事を正しく察するのが自分は不得手な方だ。直接訊ねて、果たしては、本当のところを口にするだろうか。
すぐに皆に飴を配り終えた彼女が戻ってくる。
しかしその息は何かを押し込めるかのように、そしてそれを悟られまいとするかのように静かで深いものだった。
「」
「……はい?」
何でしょう、とこちらを見る顔は、やはり、微かに強張っている。
「何処か、その、……具合の悪いところはないか」
一瞬、彼女は凍ったかのように動かなかった。
「いや、何事もなければいいが……」
「ないないないないない、ないです! ええ、ないですとも!!」
両手を振って否定を示すが、その目はこちらを見ていなかった。
素振りは私から見てもおかしいように思えたが、はそのまま口を挟む間もなく一気に続けていた。
「今までの人生の中で今が一番絶好調です! それより聞いてください、今さっきギムリさんのところ行ったんです、甘いものはもしかしたら食べないかなって思ってたんですけど、うっかり包みに残ってた五粒全部、私の目の前でぺろりと平らげちゃったんですよ!」
「ええ、なんてこった! 僕らだってまだ一粒しか口にしてないってのに!!」
思わず天を仰ぐ小さき人達だが、は
「別に包んでるのがあるから、後でまたあげるね」と宥めている。
……本当はやはり、何かを隠しているのではないだろうか。
思うが、或いは、実際に何でもなくて、ただ自分が杞憂しているだけということもある。
向こうから、ガンダルフの出発の声が上がった。
各々が再び歩み始め、自分の目の前をが歩いていく。
結局、何を確かめることも叶わなかったが、もし仮にいざという時は、自分に話してくれることを信じる他ない。
……そう、ひとつだけなら、確かめてもいいだろうか。
「」
「……はい?」
速度を緩めずに彼女はこちらを振り向いた。
言った。
「私にも、後でまたもらえるか」
「さっきの飴ですか? 勿論ですよ」
「それはありがたい。ところで」
「はい」
「何処であの飴を? オスギリアスを出た時には手持ちになかったと思うが」
「ああ……ローハンです。発つ前に、エオウィン姫から差し入れを頂いたんですよ。甘いものが恋しくなるかもしれないからって」
「……そうか」
肯くと、はふっと微笑んだ。
前に向き直ると、何事もなかったかのように元の足取りで雪を踏みしめていく。
歩き進むその足跡は、彼女が身に付ける靴独特の、不思議な模様を残していた。
勾配のきつい斜面に差し掛かっていた。
皆黙々と歩いている。先頭を行くガンダルフの体力にも感服するが、何よりホビット達の逞しさに内心驚かされていた。
彼らは靴を履く習慣がないらしく、この雪の中でも裸足である。
それでも何ら雪の冷たさに不平を言わず、また進む道に臆するでもない。
彼らは道を知らず、魔法使いの導きに従って歩くが、その道程に弱音を吐くこともしなかった。
自分はいささか、小さい人達のことを侮っていたかもしれぬ。
ふと、の様子が気に掛かった。
俯き気味に沈黙のまま歩いているが、彼女は一行で唯一女の身だ。それに、先程までのこともある。
のことを窺おうとした時、後方で小さく悲鳴にも似た声が上がった。
見れば、フロドが足を滑らせたらしく、雪の上を転がり落ちていた。アラゴルンがそれを助ける。
広がる白銀の中で、それは、小さく金色に光っていた。
転んだときに落としたのだろう、指輪は雪の上で、陽の光を静かに跳ね返している。
それを私が拾い上げたのは、たまたま自分が一番指輪に近かったからだ。
すぐに、持ち主に返すつもりだった。
それだというのに、思わずそれに見入ってしまったのは、予想以上の重みを感じたからだ。
こんなに重いものを、今まで彼の小さい人は独りで抱えていたのか。
「ボロミア」
誰かの声があったが、何故か返事をすることができない。
鎖に繋がれたその金の輪は、ひどく小さなものだった。何の装飾もない、一見すればただの指輪にしか見えない。
これが、こんな小さなものが。
「こんな小さなものが……」
かつて冥王の作り出したもの。魔力が込められた一つの指輪だというのか。
「我らに多くの恐怖と、猜疑心をもたらすとは」
今なお、冥王はこの指輪を探しているという。
ならば、その力があれば。それを上手く使うことができたなら。
そうすれば、我が民は東の脅威に怯えずに済むのではないか?
今もファラミア達は、モルドールの悪しき力に抗い耐えているだろう。
敵に太刀打ち出来る術があるとするならば、それは――
「ボロミア!」
強い声があり、思考は中断した。
声の主はアラゴルンであり、彼は真っ直ぐにこちらを見ている。
厳しく向けられる目は、まるで射るかのように鋭く自分を貫いている。何故だ。どうしてそのように冷えた目で私を見るのだ。
「指輪をフロドに返せ」
アラゴルンはそう続けた。
アラゴルン。アラソルンの息子。イシルドゥアの末裔。
……ゴンドールの王位を継ぐ者が、何故、ゴンドールを救う授かりものをむざむざと手放そうとするのだ。何故――
重みが、手の中から消え失せていた。
気付けば、私の手の中にそれはない。
いつの間にそうしていたのか、の手の中にそれはある。
私でさえ重いと感じたその指輪を、彼女はまるでただの指輪のように無造作に携え、フロドに手渡していた。
そうして私の傍を通り過ぎようとした時、彼女は一瞥を寄越した。
どうしたんですか、早く行きましょう。
そう言うかのような目で、しかし、は何も言わない。ただ沈黙だけがある。
何故だ。何故何も言わない。いつもなら彼女の言葉があるはずだった。なのに、それさえもない。
いつもあるはずのものが、確かだと信じていたものが、自分の中であっけなく崩れ落ちていく。
何かがおかしかった。
自分から世界が遠ざかるような、不可思議で不快な感覚。
一瞬気の遠くなるような感じに襲われ、私は立ち尽くす。少しだけ間の空いた距離、その先の向こうから、が私を見ている。
強張りの浮いた微笑みが、自分に向けられている。
背中を駆け抜けていったのは、悪寒か、それとも。
わたしはボロミアさんの背後にぴったりとついていた。
吹雪が吹き荒れている。
急な荒天で見る間に雪が降り積もり、歩みは急速に遅くなっていた。
何しろ、膝より上までの積雪があるのだ。わたしで言えば、太もも辺りの高さまで雪が積もっている。
ホビットの皆は、既にボロミアさんとアラゴルンさんに抱えられている。そうでないと、彼らの背丈では埋まってしまうくらいなのだ。
雪のせいで遅々として進軍は進まず、身体がどんどん冷えてくるのがわかる。
歩いていれば、身体を動かすからそれなりには温かい。
けれど、それが出来ないとなると、あっという間に温度は失われていく。
その中でわたしはというと、正直言ってかつてない危機を感じていた。
装備自体は、他の皆に比べて圧倒的に充実している。
薄手でも暖かいのを中に着込んできているし、ありがたいことに手袋まで宛がってもらっている。
こっそりあちこちにこれでもかとカイロも貼っている。バレない程度の防寒はできる限りを尽くしている。
……ずるい、と思われるかもしれない。
でもどうか、今日に限ってはご勘弁願いたい。どうしてかって、それは、
「」
風の吹く音の隙間を縫って、震えた声がした。
メリーだ。ボロミアさんに担がれて、その顔が肩越しにこちらへと向いている。
「……平気かい?」
「……」
そう言う本人の方こそ、血の気が失せて蒼白になっている。
そっちこそ、と言いたかったのだけれど、声にするのも億劫で黙って肯いてみせる。
彼に心配されるということは、それなりに、自分も体調良くなく見えるのだろう。
実際のところ、不調である。
ボロミアさんに身体の具合を訊ねられた時など、我ながらひどいリアクションをしたものだと思う。
あれでどうにかなったのは、相手がボロミアさんだったからに他ならない。
そもそも今朝からの体調不良、これを報告相談しなかったのは、傍から見ればわたしの不手際と思われるかもしれない。
けれど、ちょっとこれは相談できなかった。
……何故ってそれは、その、……出血しているので。何処からとは言わないけれど。
わたし達の小脇をゆうゆうと通り過ぎる誰かがいて、ぎょっとする。
見れば、レゴラスさんである。
エルフは雪に沈むことなく歩けるらしい。……どういう原理なの。意味が分からない。
そう言えば、裂け谷でエルロンドさんが、エルフは暑さ寒さをそう苦にしない、ということを言っていた。
何とも言えない気持ちが湧くが、レゴラスさんのせいではない。
そうこうしているうちに、わたしは自分の意識が朦朧とし掛けているのに気付いて愕然とした。
これは、まずい。
朝の二度寝の際に「向こう」へ戻り、そちらの装備も完璧だし、痛み止めも服用してある。
普段であれば、難なく振舞えた一日目だったと思う。
しかし流石にこんな時に遭難しそうなレベルの雪山に登るのは、とてもじゃないけれど無理があったらしい。
これが漫画だったら、きっと今のわたしの口からは、魂が半分出かかっている。
唐突に、頭上からバラバラと何かが降ってくる。
雪庇か、或いは落石か――どっちでもよかった。とにかく、何とかわたし達はそれを回避する。
ただ、早くこの状態を脱したかった。
ふと、わたしの主のことを思う。
あの蜂蜜飴だって、本当にエオウィン姫にもらったものだ。
いつもならもっとあれこれ軽口を叩いていただろうし、ピピンが口を滑らせたのだって上手く別のフォローをしていたと思う。
ボロミアさんが指輪を拾った時、どういうわけかアラゴルンさんが怖い顔をしていて、それが嫌で、わたしは主の手からその指輪を取ってやったのだ。
何故って、ボロミアさんは凍ったみたいに動こうとしなかったから。声だって掛けたのに。
まるで彼には、わたしの声が聞こえていないみたいだった。
どうしてだか、ボロミアさんが、いつものボロミアさんではないようにさえ思えた。
それ以上は、本当に声を出すのも億劫で、ただただどうにかここまでやって来た。
しかし、もう何も考えられない。
突如、閃光のようなものが頭上でパッと弾けたような、そんな気がした。
次の瞬間には、真っ白なものが頭上に迫っている。さっきのとは比較にならない雪の量。
刹那、伸ばされたものがボロミアさんの腕だったように見えた。確かめる術もない。
眼前が、白で埋め尽くされていた。
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