色のない空間に私はいた。
気付いた時には、そこにいたのだ。何もない場所。自分だけがここにいる。
……私は、何をしていたのだったか。どうしてここにいるのだったか。
思い出そうとするのに、思い出せるはずだというのに、何故かそうすることができない。
耳が痛くなるような静寂の中、私はただ立ち尽くしている。

「ひどい目に遭いましたねえ」

あっさりと静けさを破ったのはのんびりとした声。
しかし、その口調とは裏腹に、困憊の色は隠しようもない。
黒髪の娘はひとり座り込んで、片手を頭にやってやれやれとでも言いたげな顔をしていた。
目は細まり、今にも疲弊に目蓋が閉ざされそうになっている。

「後にも先にも、山で雪に呑まれて遭難だなんて、これっきりにしたいですね」
「……、」

そう呼んでから、ああ、彼女はそう言えばという名だった、とおかしなことを思う。
そんなことは、もうずっと前から知っているはずだというのに。
しかし私は一瞬そう感じただけで、奇妙な違和感のことなどすぐに忘れてしまう。

「やはり、この道を選ぶべきではなかったのだ。……すまない」
「ボロミアさんが謝ることじゃないですし、それに皆さんで決めたことです、仕方なかったんですよ。それに流石に、これ以上先に進もうとはしないと思うんですよね」

まあ、進もうにも無理があるでしょうし。彼女はそう続ける。
……ああ、その通りであった。仮に前進を強行したとして、一体仲間の何人が無事でいられるだろう。
そうして、その中には含まれるだろうか。駄目だ。やはり、引き返すしかない。徒労であったのだ。
こうしている間にも、サウロンの力はゴンドールに更なる影を落とそうとしている。
自分の中に、大きな焦りと苛立ちがあるのが分かる。
ファラミアは、父は、どうしているだろうか。皆、どうにか持ち堪えてくれているだろうか。
共に生まれ育ってきた者達を、同胞らを、我が民達を失いたくない。彼らが血を流すのを見るのはもうたくさんだ。
早く、南へと向かわなくては。
しかし、自分が戻ったとして、状況が大きく変わるわけではない。何か決定的な手立てが必要だった。
持ち帰るべきは大いなる恩寵だ。そしてそれは――。
ふと、の手に有るものが輝きを放つのを見て息を呑み込む。
指輪だ。
それは、彼女の手が握る鎖に繋がれ、金色の光を携えながら揺れている。


「はい?」
「何故、それをおまえが」
「さあ、どうしてでしょう」

自ら持つものに目さえくれず、は言う。
まるで関心がないように、子供がとうに飽きて、興味を失ってしまった玩具をそうするかのように、彼女は鎖を軽く振った。

「そんなこと、どうだっていいと思いませんか?」
「……それは、簡単に扱っていいものではない」
「こんな、ただの指輪がですか」
「違う」

それは、ただの指輪ではない。
冥王の造りし一つの指輪。力の込められたそれがあれば、或いは。

「その強大な力は、サウロンの手にだけは渡すわけにはいかないのだ」
「…………」
「その力を逆手に、敵を倒すことができたなら」

ああ、私はこの目で見るまで指輪の事など半信半疑であった。
けれど、今になって思う。目の前にある力を使わず、何故むざむざと戦いに明け暮れる日々を長く引き延ばす必要があるのかと。
彼のエルフの長らは、指輪は葬られるべきだと言った。彼らは永く生き長らえる種族だ、人間とは違う。
我が同胞らは、エルフほどの生を持たず、しかし、東の暗き影に今日も抗い続けている。
何故、戦い続ける我らが力を欲してはいけないのだ。

「……本当に、それしかないんでしょうか」

娘の声が、静かに響いた。
はいつの間にか立ち上がり、無表情にこちらを見ている。
それが、いつかの誰かに向けられた目と似ている気がして、ゾッとする。
何故だ。何故そのような目で私を見るのだ。

「ボロミアさんは、裂け谷で他にも希望を見つけたんじゃありませんか」
「何をだ」
「……アラゴルンさんに、お話はされましたか」

次ぐ声を失くした私に、彼女は重ねて言う。
「一緒に戦ってほしいって、一度でもそういうお話をしたことは、ないんですか」と。
眩暈がするようだった。
ゴンドールの王位を継ぐ者――我ら執政は永き間、王の不在を守り続けてきた。
あまりに永い時間であった。生涯、会うことはないだろう。そう漠然と思ってさえいたように思う。
そして今、自分のすぐ近くに、その資格ある者が居る。
……幼い頃は、本当に王が戻ってくるのなら、それはきっと大きな存在なのだろうと想像していた。
圧倒的な威圧感、強大な力を携えて、我らの前に現れるのだろうと。
しかし実際に姿を現したその人物は、自分と然程変わらぬ姿の人間だった。そして今なお、私はどうするべきなのか戸惑っている。
――本当に、ゴンドールに王は戻られるのだろうか?

「今なら、まだ間に合うかもしれませんよ?」
、何の話だ」

私は不意に、彼女を訝しんだ。
に、指輪の話をしたことがあっただろうか。ゴンドールの還らぬ王の話を、そこまで話したことがあっただろうか。
記憶が混在し、すぐに答えを導き出すことができない。
しかし、何かがおかしい。彼女が、が、そこまでを知っているのは余りに不可解が過ぎる。
……おまえは一体誰だ。

「指輪なんか無くても、ボロミアさんなら」

その続きが何だったのか、私には分からない。
それというのは、私がの両肩を掴んでいたからだ。彼女は口を噤み、間近に迫った私の目を凝視している。
娘の手から鎖が滑り落ち、地面に当たる音がした。

「確かに王は戻られるかもしれぬ」
「…………」
「だが、我らには時間がないのだ」
「…………」
「もっと力が必要だ、それも、今すぐに……!!」
「ボロミアさん」

遮るような呼びかけ。冷たささえ覚える目が、瞬きひとつせずに私を見ていた。

「今のボロミアさん、私が知ってるボロミアさんじゃないです」

何を言い出すのか、彼女はそんなことを口にする。
湧き上がる感情は、これまでにに対した抱いたことのない類のものだ。どうして今、おまえはそんなことを言うのだ。
おまえが私の、一体何を知っている。

「知ってますよ」、
心を読んだかのように、彼女はそう言う。
「ボロミアさんがどんな人か、わたし、よく知ってます」
「……おまえは、一体誰だ」

呻くように口をついて出た問いに、彼女は答えない。
目を覗き込んでくるは、微かに笑ったようだった。
微笑んでいるはずなのに、何故か、泣いているように見えた。




意識が混濁するのを感じる。
冷たい。ひどく冷たい。
身体はおろか、顔に痛みさえ覚える。息が苦しく、もがくと視界が急に開けた。
途端、刃のような風が斬り付けるように吹き抜けていく。思わず吐いた息が、蒸気のように白く舞い上がり掻き消えた。
すぐに、状況を思い出した。
ほとんど雪崩のようになって落ちてきた雪に埋まってしまったのだ。思うのと同時に、胸が大きく脈打つのを感じる。
僅かな時間とはいえ、ひどく鮮明な夢をみた気がする。何も思い出せないが、それどころではない。
そうだ、は、小さい人達は何処に――
すぐに突き出された手を取りメリーとピピンを助け出す。
次に、と見やってギクリとした。の姿がまるで見えない。
辺りの雪をかくと何かが手に当たり、ようやく引っ張り出せば彼女だと分かった。
しかし、目は閉ざされたまま開く気配がない。

!」

呼び掛けても何の反応もない。
息はしているようだったが、首は力なく後ろに落ちてしまう。さらけ出された喉元の、その何と白いことか。
そこに、花びらのような雪が見る見るうちに貼り付いていく。

「ガンダルフ!!」

叫ぶと、既に自力で雪から這い出していた魔法使いは直ぐに察したようだった。
どうにか雪を漕ぎ分け魔法の言葉を掛けてもらうが、このままではどうしようもない。

「僕がを連れて山を下ります」、身の軽いレゴラスがそう申し出る。
「きっと僕が一番早く下りられるだろうから」

確かにその通りだったので、誰も異議を唱える者はいなかった。
私自身、彼女の身を考えればそうしてもらった方が良かった。自分でそうできれば一番良かったが、そうもいかない。
実際、を抱えたレゴラスの後ろ姿はすぐに吹雪の中に消えた。あの身のこなしであれば、おそらく心配はないだろう。
……そして我らは、エルフのように雪の上を沈まずに歩くことは叶わない。
まるで収まる様子のない吹雪は、容赦なく視界を遮っている。
麓までの帰途、皆が無事であることだけをただ祈るしかない。私はそう思った。








わたしは座り込んでいた。
あーあ、と思う。タイミングが悪い、としか言いようがない。
よりによって一番体調の良くない時に、こんなことになるなんて。最悪という、陳腐な言葉が思い浮かぶ。
お腹をさすってみるけれど、どうやら今は夢をみているらしい。痛みも何もない。
珍しいな、と思う。ここ最近、寝入る度に自分の世界に戻れていたのに、今回はそうではないらしい。
その証拠に、目の前にはわたしの主が立っている。
何だか不思議そうな顔をして、こちらをジッと見下ろしているのだ。

「ひどい目に遭いましたねえ」

夢だから、つい、そんなふうに言ってしまう。
言ってしまってから、あれ、そういえば、何か起こったんだっけ、と思う。何だっけ、思い出せない。

「後にも先にも、山で雪に呑まれて遭難だなんて、これっきりにしたいですね」

思い出せないことを、口にしてからわたしは思い出した。
そうか、そう言えば、そんなことになった気がしないでもない。あれ、でも、だったら夢みてる場合じゃないよね。起きないと死ぬ。
わたしはボロミアさんに、目を覚まさなくては、と告げようとした。
けれどその人はわたしではなく、わたしの手元を何故か凝視している。
何だろうと思って見れば、見覚えのある金色の小さな指輪、それが繋がれた銀の鎖が手の中にある。


「はい?」
「何故、それをおまえが」
「さあ、どうしてでしょう」

だって、夢ですから。
そうとでも言いたかったけれども、内心ヒヤリとする。
フロドが落とした指輪を拾った時の、わたしの主のことを思い出す。
いつものボロミアさんなら、すぐに持ち主に返したはずだ。なのに、何故かそうしなかった。
そして今、こちらを見るその人の目はやはり、いつもと何か違っている。何かおかしい。
漠然とした違和感が自分の中にあった。直感的に、この指輪を彼に近付けてはいけないと、そう思った。

「その強大な力は、サウロンの手にだけは渡すわけにはいかないのだ」
「…………」
「その力を逆手に、敵を倒すことができたなら」

わたしは目蓋を閉ざしてしまいたいと思った。
主はそう訴えるが、その人の目は、いつもと違う色をしていたからだ。
突然のことだった。ボロミアさんがわたしの肩を掴み、顔を近付けてくる。
夢とはいえ急なことで、わたしは声も出なかった。するっと手の中で鎖が滑ったような気がした。
そしてそうされることで、わたしはより一層いつもと違うボロミアさんを目の当たりにせざるを得なくなった。
この夢のボロミアさんは、私が知っているボロミアさんではない。
そうはっきりと悟る。
何故なら澄んだ碧を湛えていた目はどこにも見当たらず、代わりにあるのは、淀んで甘く濁った色彩ばかりだったからだ。
こんな夢ならば、見なくていい。……見たくない。
わたしは強引に意識を遮断し、夢を閉ざした。
それにも拘わらず、主の声が耳からどうしても離れない。何と言っているのかもう聞き取れないのに。
目を開けた時にいるのが、本当のボロミアさんであればいい。
わたしは、そう思った。






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