目を開けると、すぐ傍で炎が揺れている。
身体を動かさないまま、視線だけを巡らせてみた。
あれだけあった雪の白はどこにも見当たらず、ただ薪が火で小さく弾けている。

「まだ横になっていた方がいい」

掛かった声色は、レゴラスさんのものだ。
微動だにしていないつもりだった。
どうして起きたのがわかったのだ、とも思うけれど、同時に、まあ、エルフだもんね、とすぐに納得する。
人間とは違って、そもそも感覚的にも優れているのだろう。
とりあえずそこまで思って、ふと他に誰もいないことに気が付く。
割と明瞭に、何がどうなったのかは覚えている。
遭難した挙句、雪崩が直撃である。にも拘わらずこうして生きているのだから、実は結構すごいと思う。
しかし、皆そうなのかどうかが分からない。ボロミアさんは無事だろうか。
眠ったおかげか、体調自体はそう悪くなかった。そっと身を起こしてレゴラスさんに訊いてみる。

「あの、皆さんは、どちらに……」
「じきに下りてくるよ。僕達は先に下山したんだ」
「…………」
「大丈夫、皆無事だよ。君の主も」

ある程度、言いたいことは汲み取ってもらえているらしい。
わたしは頭の中を整理しようとして、はたと思った。
先に自分たちが下山した、というのはつまり、わたしが一時的に意識を失くしたからだろう。
レゴラスさんは雪なんて苦にしないし、今なおこの通りまるで平常運転だ。
わたしが足を引っ張ったのを、どうしにかしてくれたのだと思い至る。

「……ごめんなさい、わたし、ご迷惑をお掛けしたんですね」
「そうではないよ。ガンダルフも、あのまま進軍する事は困難だと判断しただろうしね。呪いの言葉が、空を荒ぶるものにしたんだ」
「ええっ、何ですかそれ、怖い」

何それ怖い、普通に怖い。
わたしは思わず顔を顰めた。
この世界は割と本気で何でも起こるから、呪いだってリアルにありそうだから困る。

「山で、気味の悪い声を聞かなかったかい? あれは魔法使いの呪いの言葉だよ」
「それって、ガンダルフさん以外にも、魔法使いがいるってことですよね」

それも行く手を阻む真似をするということは、敵側にそういう存在がいるということだ。
わたしはあまり、この旅の全貌についてを聞いてはいなかったし、そうする必要もないと思っている。
自分はあくまで、旅のオマケみたいなものだ。ただ、ボロミアさんと共にゴンドールに帰還できればそれでいいのだ。
けれど、……わたしは今になって薄ら寒くなってきた。
皆がどれ程の困難に立ち向かおうとしているのか、それがようやく、朧げながら見え始めてきた感じがしたのだ。
思わず自らの腕をさすっていると、傍までやって来たレゴラスさんがしゃがみ込み、こちらの顔を覗き込んだ。

「顔色も少し良くなってきたようだね」
「そんなにひどい顔色でした?」
「ああ、心配したよ」
「それは、ご心配をお掛けしました」

小さく頭を下げるも、続ける。

「でもわたし、ゴンドールに戻るまでは死ねませんからね!」
「……そうだね」

レゴラスさんは微笑むと、後方にある白い峰の方に目をやった。
今わたし達が居るのは雪の消えた麓で、時間も夜のものではない。
うすぼんやりとした雲が掛かってはいるが、しばらくの間、暗くはならないだろう。

「皆が戻るまであと少しだ。もし身体が大丈夫なようなら、火を絶やさないように見ていてほしい。僕はもう少し薪を集めてくるから」

わたしには見えなくても、エルフの目には、皆の姿が見えているらしい。
遠くには行かないと言い残して、レゴラスさんは離れていった。
途端、思い切りくしゃみが出た。流石にまだ、全快とはいかないようだ。
……ボロミアさんが戻ってきたら、もう大丈夫だと自信を持って言えるようにしなければ。
見れば、目の前の火はさっきまでと変わらず燃え続けていて、小さくパチパチと音を立てている。
皆ができるだけ温まれるようにと、炎が大きくなるよう燃えている薪の端っこを掻き混ぜた。


一行の姿が見えた時は、
「エルフの目って確かなんだなあ」
と若干のんびりしたことを思っていた。けれども現実を目の当たりにするとそれどころではない。
ひどい有様だ。
ホビットは全員目も虚ろだし、そうでない勢もフラフラに近い。これはひどい。大層ひどい。
わたしとレゴラスさんとで、皆を順に火の周りに座らせ、荷物の中から毛布を宛てがう。
一包み残してあった飴を取り出し、それぞれに配って歩き、残り少ない水を回して飲んだ。
一段落したところでボロミアさんの傍に行けば、寒さでまだ上手く口が回らないのにも拘わらず、
「おまえも暖を取れ」と言う。

「わたしはもう十分あったかくなりましたから、皆さんで……」

……言う途中で、腕を引っ張られて座らされてしまった。
むう、と思って見るも、わたしの主はもうこちらを見るでもなく目を閉ざし、薪の炎の熱をただジッと受け止めている。
ほとんど皆がそうだった。疲労困憊、ただ回復に努めている。
誰の会話する声もなく、ただ火だけが爆ぜている。
わたしも座り込んだ姿勢のまま、いつの間にか再び眠りの中に滑り込んでいた。





気付くと、わたしの部屋にいた。
眠ってしまって、こちらに戻ってきているらしい。
前回はいやな夢を見てしまって、こっちには帰ってきていなかった。少し振りの帰省だ。
今のうちに、自分も体力の回復をしておかなくては。それから、細々使ってしまったものの補充。買い出しに出るべきか。
さて、まずは何から――

「う…………」

微かな呻き声が聞こえた気がした。
なんとはなしに見て、首を戻し、二度見をする。
ボロミアさんが傍らに横たわっていた。

「…………えっ」

思わず、周囲を確認する。
わたしの部屋だ。わたしの世界だ。中つ国ではない。三度見する。ボロミアさんがいる。
……なんで? どうして、こんなケースは初めてだ。いやいやいや、ちょっと待て、そんな馬鹿な。なんでまた、どうしたわけで。

「…………?」
「ぎゃっ」

思わず両手を斜め上に挙げた、盆踊りみたいなポーズでわたしは叫んだ。
目を擦りながらむくりと起き上がるボロミアさん自体は何のことは無い、いつも通りだ。
が、あまりに何というか、背景が自分の部屋というのは場違いが過ぎる。
出来の悪い合成写真コラージュみたいな画だった。じゃない、今ここで目覚められても、わたしはどうすればいいのだ。
混乱状態のこちらを不思議そうに見る主は、ようやく自分が初めて見る場所にいることに気付いたらしい。
ポカンとしたように辺りを見回した後、彷徨う視線はやがてわたしに定まる。
ひえっと思う間もなく、彼は言った。

「…………。ここは、一体」
「えーーーと……わたしの部屋です」
「おまえの?」
「はい、あのう……そう! これ、夢なんです」
「夢?」

言葉を繰り返すボロミアさんは、まだ少しピンときていない感じだった。
わたしは畳みかけた。

「はい。カラズラスを下りて、皆で今、休んでいるんです。それで、今ボロミアさんは夢を見てるんですよ。ここは何度かお話した、わたしの元居た世界なんです。わたしも、ボロミアさんの夢の中のわたしであって、現実のわたしじゃないというか、何というか」
「……では、私は今、夢の中でニホンに来ているのか」
「そう、そうなります!」

半ば自棄っぱちな笑顔でわたしは言い切った。

「だから、えーっと……そうだ、お風呂に入りましょう!」
「風呂?」
「ええ! だってさっきまで雪山にいたんですよ、身体をあっためないと! 低体温症になったら大変ですよ、この前、テレビでやってましたっ」
「いや、しかし……」
「夢ですけど、あったかくしてサッパリした方がいいでしょうから!」

まだ疑問符だらけのボロミアさんをとにかく浴室に引っ張っていく。
お風呂場の使い方をおおまかに説明してバスタオルを置き、戸を閉めリビングに一人で戻る。
ひとまずお風呂に押し込んだはいいけれど(余談だけれど、ボロミアさんの体格ではとてもうちのバスタブには身が収まらない気がした。まあとにかく)、それにしたってどういう事だろう。あの人まで一緒にこちらに来てしまうだなんて。
これって、いつもみたいにちゃんと向こうに戻れるやつ?
そればかりが気に掛かって仕方がない。
もし戻れなかったらどうしよう。
いろいろと脳裏を過ぎる中で、はたと、当座切実な問題にわたしは直面してしまった。

「ボロミアさんの着られるような着替えがない!」

ついでに、脱いだ服も一度洗ってしまいたいところだが、わたしの部屋には乾燥機がなかった。
もし向こうに戻れるなら、それまでに乾かしてしまわなければいけない。
わたしは浴室の戸越に「すぐに戻りますから」と伝えて、コートを羽織り部屋を飛び出した。


ボロミアさんの頭のてっぺんから、石鹸の匂いの湯気が立ち上っている。
ホカホカである。最初はのぼせたのか、何だかぼーっとしていたものの、今は静かに目の前の食事を口に運んでいる。
服は、申し訳なかったが、大学の構内で売られているシャツと運動着の下を着てもらった。
街まで出ればもっとマシなものを用意できるけれど、往復で一時間近く掛かってしまう。
大学に行く前に、こちらは幸いすぐ近くにあるコインランドリーに一切合財、ボロミアさんのいつもの服を突っ込んできた。
乾かす方は、おそらく問題ないだろう。
根本的な方の問題が解消されるかどうか、それこそが問題だが。

「これが……」
「はい?」

内心ハラハラとしながら黙って食事を取っていたわたしは、何を言われるのかヒヤリとした。

「何でしょう」
「これが、コメというものか? ニホンでは主食だと言っていたように思うが」
「ああ、はい。そうなんですけど、今回は雑炊にしちゃったのでこんなふうなんです。普段食べるのは、もっと水気は程々ですからね」
「ぞうすい、とは?」
「手っ取り早くあたたまれる食事をと思いまして。こんなふうに、えーと、シチューみたいに煮込んだものなんですけど……」

恐る恐る、わたしは改めて主を見た。

「お口に合いませんか?」
「いや、美味い」
「本当に?」
「夢で、世辞を言う必要があるのか?」

ボロミアさんは、口の両端を持ち上げて笑った。
いい笑顔だった。
それが何だか久しぶりに見るもののように思える。どうしてだろう、いつも見ていたそれではないか。
兎にも角にも、わたしはただ両手を握りしめてガッツポーズをした。

「本当に本当ですね? ああ、良かった!!」
「何だ、見ればわかるだろう」

そうしてボロミアさんは目の前の膳を示して見せる。
確かに鶏と卵と葱入り雑炊の土鍋はもうすっかり空になっていた。
でもああいった旅の最中、しかも屋内で食べる温かいものは久々だったわけだし、多少口に合わなくてもそこはお腹に収まるものなのかもしれない。
それにしたって、少しはおもてなしできていれば嬉しいのだが。
一息つこうと食後の緑茶を啜り終えた時、ふと時計が目に入った。
そろそろ、ボロミアさんの洗い終わった服が乾く頃だ。

「ボロミアさん、わたし、すぐ戻ってきますから」
「なんだ、どうした」
「コインランドリーに服取りに行ってきます、いつもの服がないと困るでしょう?」
「よく分からぬが、私はここで待っていればいいのだな」
「はい、申し訳ないんですけど、夢だからって外に出ないでいてほしいんです。それから、絶対に寝ないで待っててくださいね」
「夢の中でまで眠るつもりはないぞ」
「まあ、そうですよね」

小さく笑い合ったが実際のところ、わたしは気が気でない。
もしちゃんと戻れるのなら、ちゃんと正装で戻らねばならない。
今この人はうちの大学名の入ったシャツに運動着(下)を着ているのを忘れてはいけない、うっかりこのまま中つ国に帰ってしまうような珍事があっては、わたしもフォローのしようがない。
やっぱり、白の塔の大将様にはふさわしい衣装があるのだ。
早いところ、着替えてもらおう。
そう思いながら玄関を出て、足早にコインランドリーへ向かった。


戻ってきた時には、妙に静かだった。
いや、ボロミアさんひとりで居るのだから騒々しくてもおかしいけれど、そういうのじゃない。
嫌な予感しかしないと思いながら部屋に入れば、
「寝ないでって言ったのにーーー!」
ベッドの上でボロミアさんは目を閉じていた。
炬燵やらテレビやらのスペースを避け、少し身体を休めようとするならベッドの上しかない。
勿論中に入るではなく、掛布団の上にそのまま横になる格好でいる。というのは、今はとりあえずどうでもいい。

「ボロミアさん! 今寝ちゃ駄目ですってば!」、
彼の服を胸に抱えたまま、わたしはその腕を揺すった。
「ほら、乾きたてでふわっふわであったかくてキレイですよ!! 着替えるだけでいいので、起きて」

――引っ張られて、ぼふんと布団の上に転がってしまった。
見れば、すぐ傍に目を開けたボロミアさんの顔があり、何とも悪戯っぽく笑んでいる。
何がどうなったのかをしばし考え、ははあと思い至って、わたしはちょっと薄目になって睨んでやった。

「起きてたんですね?」
「誰かに寝ないで待てと言われたからな」

ふっと微笑む目は、忘れたい記憶にあるような濁りは一切ない。
初めて会った時感じたような、澄んだ色をしている。
……わたしは今も、あの時、思ったままをそのまま口走ってしまったことを覚えている。
何にも代えがたいような安堵も束の間、よくよく考えなくとも、ここはベッドの上なのだと思い至る。
あまり状況的によろしくない状況なのではないだろうか、とふと思う。
が、向こうはどういうわけだか、黙ってこちらを見てくるだけだ。

「あの、ボロミアさん」
「…………」
「夢ですけど、ほら、着替えの準備ができましたので、その」
「……そうだ、夢だったな、これは」
「はい。でも、一応、その」
「夢なら」

額に熱が触れたのがこの時ほど長い時間だったことは、今まで他にない。
硬直して動けないでいるうちに、そのまま背と頭に手を回される。何もものを考えられないでいると、そっと熱が離れていく。
ほとんど囁くような、独り言でさえあるような声が本当にすぐ傍から降ってきた。

「雪の中から救い出したおまえの白い顔を見た時、ひどくゾッとした。おまえを失うかと思った」
「…………」
「今も、目を覚ますのが恐ろしい。何処までが夢で、何処からが現実か私にはわからぬ」
「…………」
。……私の目が覚めた時、傍にいてくれたなら、私に祝福を授けてくれるか」

声は聞こえていても、強張りで上手く理解できない、何もできない。
長い長い時間が経つ頃にわたしの主は意識を閉ざしていたけれど、それはわたしも同じだった。
微睡みたゆたうのを繰り返しながら、ゆっくりとまた夢の奥へと沈み込んでいた。





目が開く。
その瞬間にバッとわたしが立ち上がりかけたので、近くにいたサムが仰天していた。
持っている器を危うくひっくり返し掛けていて、ギリギリのところでセーフ、という感じだった。どうやらこちらでの食事らしい。

「ど、どうしたんです? 何か変な夢でもみたんですかっ」
「う、ううん。そうじゃなくて」

変なわけでは…………いや、うん。まあ、とにかく。
それよりと辺りを見やれば、隣で身体を休め目を閉じているボロミアさんがいる。
見れば、ちゃんといつもの装束を身に付けていて、わたしは正真正銘心からの安堵を覚えていた。

「よしっ!!」
「な、何がですか……」

ガッツポーズをするわたしを見てサムは目をパチクリさせている。
「うん、こっちの話」と手を振りながら、さりげなくそっと彼の元に屈みこむ。
微かに洗剤か柔軟剤の、清潔な匂いがした。こっそり服の裾を触ってみると、キレイにちゃんと乾いている。
一瞬、誰かに気付かれるだろうか、と考える。
例えばとても鋭い感覚をお持ちの、どこかのエルフさんだとか。
でもまあ、だとしても、そこまで深く追究されるような事柄でもない気もする。まあ、何とかなるか。
なんて考えていると、目の前の我が主がうっすらと目を開けた。

「おはようございます、ボロミアさん」
「む…………」
「やあ、ゴンドールの大将殿もお目覚めですか」

何かを確かめるように辺りを見回そうとするその人に、サムが持っていたその器を両手で差し出した。

「お二人が一番の寝坊ですよ。休んでいらっしゃる間に、少しですが食べられるものを用意しておきましたからどうぞ!」

そう言ってすぐに、わたしの分も用意してきてくれる。
皆は少し離れたところで休んでいたり、何事かを話していたりする。本当に、わたし達が寝坊のワーストであるらしい。
「落ち着いたら皆の所へどうぞ」 と言い残して戻っていくサムを見送り、目を戻せば、ボロミアさんは少し放心したみたいに地面を見ている。

「…………夢をみた」
「夢ですか」
「ああ。……の世界に行った夢だ」
「それは、まあ」
「不思議な感じだ。……本当に、この世界を離れたかのような」
「良い夢だったら、いいんですが」

言うと、ボロミアさんはこちらを見て小さく微笑んだ。
つられてわたしも笑み返した。
けれど実のところ、今の今まで、どうしたものかと心底思いあぐねていた事がある。
ほんの僅かな時間ではあるが世界を飛び越え、そして無事に戻ってこれた。
それは確かに祝福されて然るべき、だろうか。
わたしは持てる勇気の全てを使わなければならなかった。

「ボロミアさん」
「うん?」

目を合わせずに呼び掛ければ、いつものように応じてくれる。
わたしは膝立ちになり、その人に向き合うと、額に口付けという祝福を落とした。
すぐに離れて、何事もなかったかのように食事の器の中をスプーンでかき回す。
主は何も言わなかったが、やがて向こうもゆっくりと食事を始める。さっき食べたはずだったが、まだ胃袋には余裕があるらしい。
そういうわたしも、黙々と食べ始めると結構入った。
もはや満腹なのか空腹なのか、自分でもよく分からなかった。






←BACK      ▲NOVEL TOP      NEXT→