ゆっくりと歩く。
足場はあまりいいとは言えない。辺りは霧がかかり、空気は陰りを帯びている。
何とも言えず、陰鬱だ。
とはいえ、吹雪の雪山の後ともなれば、よっぽどマシには違いなかった。

「こう太陽が見えないと、時間も分からないなあ」

そう言ったのは、すぐ後ろを歩いていたピピンだ。

、今何時だい?」
「十六時を過ぎたところだよ」
「もうそんな時間かあ。ホビット庄の我が家にいるときなら、おやつを食べ終わって寛いでる頃なんだけどなあ」

どんよりとした空気を払拭しようとしてか、或いは全くの素なのか。
ちょっと遠い目をするピピンは、そのまま続けて言う。

「庭先のテーブルで食べるバタースコーンに淹れたての紅茶、それにたっぷりのミルク!」
「やめてー、聞いてるだけでお腹が空いちゃう……」

わたしまで遠い目をしていると、ピピンが笑った。
小さな人達の中でも一番の年少だという彼が笑うと、確かにまだあどけない印象が際立つ感じがする。
小動物みたいだと思う。ほにゃっとした笑い方とか、かわいらしい空気とか、そんなところが。

「いつかホビット庄を訪れることがあったら、我が家にどうぞ! 御馳走するよ、お二方とも」
「ですって。ボロミアさん」

傍らを歩くその人をちらと見れば、しかし、ボロミアさんは視線を落としていた。
表情は無いに等しく、黙々と歩を進めるだけだ。
わたしはそれを、敢えて間髪入れずにスルーした。

「ピピンも、ミナス・ティリスに来たら……ええっと、本当はわたしが言うことじゃないんだけど、美味しいお茶、淹れるね」
「それは嬉しいなあ」

にこにこするピピンも、幸いそれ以上突っ込んでくるでもない。
そうするうちに狭い岩場を順に降りるような地形に入り、自然に会話が途切れた。
さて、と思う。
雪山を下山してからは、たっぷり一日近くを掛けて休息した。
それに加えてわたしとボロミアさんは、どういうわけか「向こう」へ戻り、特別な休み方をもした。
おかげでわたし自身、それなりに元気になったのだが(体調も一番つらい日は過ぎたので、どうにかやっていけそうだ)、しかし。

「ボロミアさん」
「……?」

岩場を降りきり、他の仲間を待つ間にわたしは彼に呼び掛けた。
覗き込むように見上げると、流石に今度は気付いてくれた。

「なんだ」
「あの、疲れが残ってたりとか、しませんか?」
「……そのように見えるか?」
「いえ、あのう。気分を害したなら、申し訳ないんですけど」

そこまで言って、ようやくふっとその人が笑う。
それだけ見れば、それは、いつものボロミアさんだった。

「私だって、十分に休息はしたぞ」
「……」

疲れているとか、そういう問題ではない。そう何処かで思う。
何とも言えないものが、わたしの中にあった。
裂け谷を出てからの、カラズラスを越してからの、そして今微かに感じている彼の違和感を、果たして無視していいものだろうか?

「そんなに見るな、私に穴を開けるつもりか?」
「……またー。ボロミアさんてば、そういうことを仰る」

わたしは手を振って笑った。

「本当に大丈夫かなーって思って見てただけですから」
「そういうは平気か? 辛い時は教えてくれねば、私はあまり気が利かぬぞ」
「そこに前回は助けられましたけどね……」
「なんだそれは」
「えーと……女の人は、体調面でいろいろあるんですよ……」

……迷ったところで、今のわたしには何もできないのも、事実だった。
彼が何に惑っているのか、そうさせているのは何なのか、どうするのが最善なのか。
雪山で何かヒントになるような夢を見た気もするが、夢は夢だ。正夢とは限らない。
とにかく、分からないので、わたしは普段通りにするしかない。
わたしは会話を続けながら考える。
……わたしにできることって、何だろう?
答えは出ないまま、道はただ続いていく。



すっかり暗くなった時分、皆で、岩壁を伝うように歩く。
すぐ傍には池なのか沼なのか、流れていない大きな水たまりがある。
岩と水に挟まれた狭い道だった。もし水に満ち引きがあれば、道が消えることもあるのかもしれない。
聞けば、ドワーフの秘密の地下坑道の入り口が、この辺りにあるのだという。
そこを経由して山を越えるのだとか。

「イシルディンか……星と月の光に浮かび上がる」

ガンダルフさんの言葉に皆で空を仰ぐ。
夜の黒雲が切れるかどうかと思った矢先、微かに白いものが差した。
月明かりがサッと差し込むと、ぼんやりと壁の一部が鈍く光り始める。すぐに、はっきりとその模様が現れた。
おお、と内心で歓声を上げる。
大きなアーチに何か木を描いたような図、そして細かく文字らしきものが刻まれているみたいだった。
秘密の入り口というだけあって、普段は見えないように隠されているのだとか。

「あぶり出しみたい……どういう仕組みなんでしょうね」
「そうだな。不思議なものだ」

口々に言う間にも、ガンダルフさんが扉に刻まれていた文字の意味を説いている。
合言葉を唱えれば扉が開き、中に入れるのだという。
そうして何か長い呪文を唱え始めるところまでは良かった。

「ビクともしない」

そう言うピピンの言葉通り、扉はまるで微動だにしていなかった。
いくつか他の言葉を試すガンダルフさんだけども、それでも開かずに両手に力を込めて押してもみている。
いやいやいやいや。物理的に、そんな無茶な。
心の中で手を振り思うが、やっぱりというのか、まるで開く気配もない。
どう見ても手詰まりの状態だ。

「以前のわしじゃったらエルフ語オーク語、どんな呪文でも、全て言えたんじゃが……」
「じゃあどうするんですか?」
「お前さんの頭で叩くんじゃペレグリン・トゥック! それで開くか試せばよい!」

あっけらかんと訊ねるピピンに、ガンダルフさんが怒鳴るのをうわあと思いながらひとまず聞き流す。
他の皆が各々荷物を下ろし、しばしガンダルフさんが正しい言葉を思い出すのを待つ態勢に入るのを見て、それに倣おうと思ったのだ。
微かにしょぼんとしながらこちらにやってくるピピンの肩をぽんと叩く。
此方を見上げて目を瞬くピピンは、それ相応にしょっぱい顔をしていて、言葉にするなら
(またやらかしちゃったよ)、とでもいうようなそれだった。
(気にしないの)と、わたしも顔だけで言う。
仕方ないと思う。
そういうつもりでなくても、相手をイライラさせたり、怒らせちゃったりとか。
気持ちや感情がすれ違ったりすることって、実際にあることなのだ。どうしたって、本当に。
わたしがそれをやらかした場合、すごくへこんで、長い時間引きずってしまうものだけれども。
荷を置き終わって見れば、ピピンは思いの外すぐに明るい表情に戻っている。そう簡単に、へこたれたりはしない方みたいだ。
……いつも通りでいられるって、すごいなあ。
素直にそう思う。
わたしも見習わないとなあ、とも思う。
それこそが今のわたしにできる、数少ないことの一つには違いない。
そうこうするうちにふと見ると、少し離れた先でアラゴルンさんが馬の荷を下ろしているのに気付いた。
手伝おうかな、と思って近付いてみると、目が合った。
訊いた。

「全部下ろすんですか?」
「坑道に馬は連れていけない。いくら勇敢でもな」

一瞬、それがどういう意味かすぐには判別できなかった。

「……それってつまり、あれですか、その」
「ビルとは、ここまでだ」

アラゴルンさんがそう言って初めて、わたしはこの馬の名を知った。
それが聞こえたようで、ホビットたちが真っ先にこちらの方へやって来る。
特に思い入れのあるらしいサムなんて、心の奥底から残念そうな顔をしていた。
めいめいに別れの言葉を掛け、最後の頭絡を外してやるとアラゴルンさんが馬のその背を送り出す。
徐ながら、ビルは来た道を戻り始めた。……こんな所で解放してしまって、大丈夫なんだろうか。

「心配するな。ちゃんと帰るさ」

アラゴルンさんはそう言うけれど、本当に大丈夫だろうか。
見れば、サムも何だか気が気でないような様子でいる。
わたしは後方を振り返った。
ガンダルフさんは今なお扉と悪戦苦闘している。時間は大丈夫だろうと思えた。

「ボロミアさん、ビルをちょっとだけ見送ってきますね」

近くに居た主に断りを入れ、少しだけ馬のその後ろ姿を追うとサムも当然のようについてきた。
余程気に入っていたらしい。

「一番よく面倒みてたもんね」
「え、ええまあ……」、
ちょっと口ごもりながら、サムはビルを見る目を細めた。

「……賢い馬ですから、元来た道も覚えていると思うんです。でも……やっぱり、少し心配で」
「そうだね……」

そんな短い言葉を交わす。
同じホビットと言えども、ピピンとはまた違い、彼は慎重な考え方をする方らしい。
わたしもわたしで、そのつもりだった。だから、皆と離れるつもりは、まるでなかった。
十分に皆の視界に入る距離でのことだった。
月明かりの陰の向こう、その暗がりの先へ物怖じもせずビルが歩いていこうとして、ちょっとだけこちらを振り返った。
少しの間だった。すぐに、また歩き始めて、姿は暗闇に消えた。
それをしばらく見つめていたあと踵を返そうとして、不意に、闇の中に光るものが現れた。

ぬめりを帯びた光だった。

何故か一瞬、魚の目を連想する。でも決して、魚ではない。ここは陸地だ。
そして光るその二つの目は、今しがた消えたビルのものでもなかった。
腰に差していた短剣を抜こうとするより先に、誰かが――傍にいるのはサムだけだからサムだ――わたしの腕を引っ張っていた。
それに乗じて駆ける。すぐ傍に皆がいる、確かにその方がいい。

ところが、だ。
わたしとサムはまたも仰天することになった。
どうにか合言葉が見つかったのだろう、扉がちょうど音を立てて開いたのはいいが、同時に、池か沼かもわからない水中から何やらとてつもなく長いびろびろが皆に向かって伸びていたのだ。
誰かに巻き付き、そのまま水中に引きずり込もうとする。
その誰かがフロドだったもので、サムはさっきでさえ抜かなかった長剣を抜いて斬りつけにかかった。

「アラゴルン! アラゴルン!!」

サムが助けを求めながら、続けて剣を振った。
もはや、さっきの目がどうのどころではなかった。
いっぺんに事態が急変してわけがわからない形だったが、わたしは周囲を見回した。
あの目を見た方向からは何も現れない。ならば今はひとまずこっちの緊急事態が優先だ。
そう思う間にもびろびろは斬り付けに一度は退いたように見えたが、今度はいっぺんに何本もびろびろが伸びてきて、あっという間にフロドを掬い取ってしまった。
宙吊りでなす術もないフロドがもがくうちに、そのびろびろの本体部分が水の中から姿を現す。
イカともタコともつかない異形の何かは、大きくその口を広げた。
ホビットでなくても一口に呑み込まれてしまいそうな大きな口に、牙らしいとんがりが幾つも生えているのが遠目にもわかった。

「離せえ!!」

勇ましい声は、わたしの主だ。
ボロミアさんとアラゴルンさんの二人が続けざまに異形の脚を斬ると、そのうちの一本がフロドを捕まえていたものだったらしい。
拘束が解けて落っこちてくる小さい人を、ボロミアさんが見事に受け止める。
もはや、外は危険でしかなかった。

「レゴラス、中へ入れ!」

フロドを抱えたままで叫ぶボロミアさんを避けて、矢が放たれた。
レゴラスさんの矢が急所にでも入ったのか、異形が奇怪な呻きを上げた。
動きが鈍った隙に皆で扉の中へ逃げ込むも、びろびろは意外と丈夫なようだった。
伸びてきた脚が入り口の扉を掴むと、すごい音を立てて崩落が始まった。
皆で奥へ詰めジッと様子をみる。
……すぐに、真っ暗になってしまった。何も見えない。
代わりに感じるのは冷えた空気だ。埃っぽく、何とも言えない匂いがする。
ふわりと光が灯ったのは、ガンダルフさんの魔法のようだ。彼の杖のてっぺんが、白く煌々と光っている。

「もはや進むしかなくなったな」

何処までも続く、暗いトンネルを行くしかない。
そんなふうに魔法使いは言う。
……そういえば、ここはドワーフの坑道だったんじゃなかったっけ。
道すがら、ギムリさんが時々この道を行こうと何度か提案していたのを思い出す。自分に近しい誰かがいるのだ、とも。
わたしはそれをボロミアさんに訊ねようとして、ギクリとした。
照らし出された辺りの様子は、あまりにもあんまりだったのだ。
鎖帷子やら斧やら、武装した誰かと思しき骸があちこちに横たわり、そのどれもが矢を受けていた。
生きている者の気配がまるでない。
思わずボロミアさんのマントの裾を掴んでしまう。彼は黙って、わたしを見て肯いた。
「大丈夫だ」とも、「気を付けろ」と言っているようでもあった。

「油断するな。この地底奥深くには太古の昔より恐ろしい魔物が潜んでいる」

その魔物に、この誰か達は倒されてしまったんだろうか。
閉ざされた空間の中で、ガンダルフさんは「静かにな」と言った。

「魔物どもに気付かれないことを祈ろう」
「……」

わたしは口を開こうとして、言うべきかどうか迷ってしまった。
言わなくてもいいことかもしれない。こうして、扉は塞がってしまったのだから。
そもそも、そう大したことではないかもしれない。
けれど、映画とかだとこういう情報が意外と重要だったりする。
、どうした」
ボロミアさんがわたしの様子を見て小さく言ってくれたので、思い切って告げることにした。

「あの……、ビルを見送った時に、すぐそばに何かがいたのを見たんです」

意識して小声で話しても、辺りには静寂が満ちている。皆にも十分聞こえるはずだ。

「何か?」
「はい、あの、暗がりに目が二つ光ってて。……サムも、見たよね?」
「ええ」、
視線を投げると、彼ははっきりと肯いてくれる。
あの何処か得体のしれない感じを思い出したらしく、眉をしかめながら頭を振るサムが続けた。
「獣ともまた違う感じで。ビックリしちまって、慌てて戻ったんです」
「引っ張ってくれて、ありがとうね」

わたしは小さくお礼を言った。

「でなかったら、出遅れるとこだった」
「い、いえ」
「礼を言う」

言葉少なに視線をさまよわせているサムへ掛けられた声は、ボロミアさんだ。

「ホビットの里の庭師が、こうも勇敢だとは」
「そんな、大したことは」

そんなふうに言うけれど、二人は互いに互いを見合い、どちらともなく口角を持ち上げている。
淀んだような空気が、ほんの幾らか軽くなるのを感じた。
それに安堵を覚えながらも、わたしは続けて言葉を繋ぐ。

「それで、サムとダッシュで戻った途端にこれですよ」

わたしは一呼吸置いた。続けた。

「……動物か何かかもしれませんし、もう入り口も塞がっちゃったので、お話しなくてもいいかなとは思ったんですけど。一応……」
「そうか」

徐に言ったのはガンダルフさんだ。
光源の傍で一際白く明るく照らし出されるその表情は、最初こそ険しかった。
言わない方が良かったのかなと一瞬ヒヤッとしたものの、すぐに、それが微かに笑みを形作った。

、お前さんは賢明じゃ。自分が今何をすればいいかを考えられる力がある」
「……」
「常にそう在るよう努めることだ。それがいつの日か己を救うことになる」
「……」

わたしは静かに魔法使いの言葉を聞いていた。
思いがけず、褒められてしまった気がする。
同時に、簡単そうでいてしかし、実は難しいことを告げられてしまったような気もする。
そう思ううちにもガンダルフさんは歩み出していて、一行はモリアと呼ばれるらしいこの場所を進み始めた。

「頑張ります」

小さく言った返事は、言葉をくれた人物にも届いたと思う。
傍らの主が、そっと背中を押してくれたのをきっかけにわたしも足を踏み出す。
灯りに浮かび上がる広大な道程を見渡しながら、ガンダルフさんの言葉の意味をわたしは考えていた。



歩いてどのくらい経った頃だろう。
曲がりくねった道や階段を上がったり下がったりするうちに、狭い足場の空間に出た。
梯子がやたらと渡してあり、鎖があちこちに垂れ下がっている。
壁には、これまでには無かった白いキラキラした何かが線のように走っている。
それが灯りに反応してか、とても明るく輝いた。
特殊な鉱物か何かだろうか。
わたしはなんとなく、天空の城ラピュタの飛行石を思い浮かべた。この空間自体、鉱山を彷彿とさせる気がする。

「金や宝石など取るに足らん。ミスリルがここの富じゃ」

ガンダルフさんが答えを教えてくれた。
ああ、ミスリル。
聞いたことのある単語に、わたしは妙に納得する。確かFFでそういうのがあったっけ。
そうする間に、大きく開けている空間の底に向かって、ガンダルフさんが杖の先端、その光を向ける。
そこは、今まで暗闇だけで満たされていたはずだった。
不思議な光景だった。
ゆっくりと、辺り一面が白くやわらかく輝き出したのだ。何処から来るのか、風が通り過ぎていくのを感じる。
皆が、言葉もなく目の前の光を見下ろしている。
きれいですね、と言おうとして、ボロミアさんを見た。彼もまた不思議な輝きに見入っている。
その人に、白い光がやわらかく当たっていた。
淡い光であるはずなのに、ボロミアさんの目の碧色がはっきりと見て取れる。透き通るような碧。
風に、彼の茶金髪がふわりと舞い上がった。
……きれいだ。
そう、心から思う。
そしてふと、こちらに気付いたボロミアさんは、どうしたとでも問うように微笑んでくれる。

大丈夫だ、と自分の中で思った。
ボロミアさんは、いつものようにここにいる。
わたしが心配したような、彼が彼ではないようなことなんて、あるはずがない。
わたしは心の何処かで小さく疼いている心配事に蓋をして、何でもない、というのを示すためにゆっくりと首を振った。






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