「ビルボはミスリルの鎖帷子を持っておった。トーリンの贈りものじゃ」
「おお、ドワーフの王トーリンが!」

先導するガンダルフさんの言葉に、ギムリさんが感嘆の声を上げる。
その声はいつもと変わらないそれだったので、わたしは少し安堵した。
ドワーフ族の彼は、知り合いがいるから坑道を行こうと提案していた人物だった。
しかしその地下坑道には、生きている誰かの気配がまるでない。
それが、さぞギムリさんにとっては辛いことなのだろうと思えてならなかった。実際今まで、彼は一言も発していなかった。
でもひとまずは、大丈夫なのだろう。少なくとも、表向きには。

「ああ。ビルボは気付いとらんが、あれはホビットの里全てを合わせたより高価なんじゃ」

ガンダルフさんの言葉はそこで途切れ、ミスリル談義は終了した。
目の前にとてもきつい勾配の階段が現れ、立ち塞がったのだ。
わたしの言葉で言うなら、まるでお参りのお寺にあるみたいな、一段一段が高くて長い石階段だ。
ちょっとした難所かもしれない。

「うわあ……傾斜がすごいですね」
「足元に気をつけろ。下ではなく、前を見るんだ」

ボロミアさんに言われて肯いてはみる。
しかし実際に上ってみると、やはりと言うべきか、それなりに大変だったりする。
以前は整備されていたのだろうが、今はそこかしこに朽ちた骸や崩れた岩壁が横たわり、クモの巣と埃にまみれ、黴臭い。
長さも結構なもので、ホビットの皆なんてほとんど終始よじ登る格好で、かなりの苦労を強いられている。
結局どうにかこうにか上り終える頃、皆で一息つくことになった。
辿り着いたのは少し開けた空間、そしてその先には開けっ放しの門が三つ。
どれを行くのかはまだ判らないけれど、少し休息しようとなって皆で腰を下ろす。



目を閉じたのは、少しの時間のつもりだった。
意識して眠ったわけではなかったが、短いうたた寝をしたらしい。気付いたら、わたしは自分の部屋に戻ってきている。
はたと気になって見回すけれど、そこには誰の姿もない。
今回は、ボロミアさんはこちらに来ていないらしい。
ふうと息をつくけれど、これはどういう加減なんだろう。前回はたまたま? そもそも、何がどうなのだろう。
夢を通じて、別の世界を行渡りしている。
……考えても仕方がない。
仕方がないけど、これって、いつか終わりが来たりするのだろうか。
それとも、何かきっかけがない限り、ずっと続いていくのだろうか。
傍らにあった携帯電話の表示を見る。
着信などは無く、日付は、最初に中つ国へ落ちた時から一週間ほどしか経っていない。
息をついて電話を置く。
つけていたストラップが、差し込む陽の光を静かに跳ね返すのを少しの間眺めていた。



短い時間の間に身支度を整え、中つ国に戻ってきた瞬間に違和感があった。
しゃがみ込んで目を閉じていたはずなのに、わたしは歩いている。
……なんで? おかしいな。夢遊病じゃあるまいし。
見れば、皆もさっきまでと同じように歩みを進めている。
……いつの間に出発したんだろう。結局、あの三つの門のうち、どれを選んで進んだんだろう。
わたしが疑問符を浮かべていると、先頭方向から声が上がった。

「ビルボはミスリルの鎖帷子を持っておった。トーリンの贈りものじゃ」
「おお、ドワーフの王トーリンが!」
「ああ。ビルボは気付いとらんが、あれはホビットの里全てを合わせたより高価なんじゃ」



わたしは一瞬、ガンダルフさんが二度も同じことを言っているのかと思った。
しかし、それに応じるギムリさんまでが、さっきと同じことを繰り返しているのだ。
わたしは恐る恐る、他の皆の様子をみた。
周囲の皆は決して訝る様子もなく、至ってふつうだ。
そしてよくよく見なくても、辺りの景色は少し前に見た景色が広がっている。
前方に、さっき上りきったはずの石階段がそびえていたのだ。

???

わたしは今度こそ、混乱を来した。
あれ、これおかしくない? 一体、何がどうしたっていうんだろう。
うまく状況が呑み込めない。

?」
「!!」

軽く肩に手を置かれただけなのに、のけ反るくらいに思い切り背筋が伸びてしまった。
そんなこちらの反応に、手を置いた張本人のボロミアさんは驚いたようで、一度瞬いていた。
探るみたいに見下ろしてくる目と、ばっちり視線がかち合う。
……と思っていたら、その顔がまじまじとわたしを覗き込んでくる。
ほとんど至近距離といっていい距離で顔と顔をつき合わせる形になった。
今抱えている混乱の上に、さらに別の混乱要素が重なって、わたしは内心ひえっとなった。
ひえっとなっている真っ盛り祭りだというのに、それでもわたしの主は、こちらを相変わらずジッと見つめてくるのだ。
あまりに真っ直ぐすぎる視線に耐え切れず、わたしは目をあさってに向けながら両手で彼を制した。

「ボロミアさん、あの、ち、近いですから」
「嫌か」
「嫌じゃな……い、です、けど……」

何を言わせるのだ。
語尾が小さく窄まりながらゴニョゴニョしているわたしを見て、ふっと彼は息を吐く。
何かに小さく安堵したかのような、そんな色が含まれているように見えた。

「……すまない。いつもと様子が違うように見えたのでな。こう暗くては、近付かなければ顔色もわからないだろう」
「え、あ、……あの」

わたしは言い淀んだ。
ボロミアさんは、わたしを心配してそうしてくれたのだ。
そして、何も言葉を発していなかったにも関わらず、そう見えるほどに自分は混乱していたということでもある。
どうしよう。相談した方がいいのだろうか。でも、どんなふうに伝えればいいんだろう。

「ボロミアさん」、
わたしは意を決し、とにかく、当たり障りのなさそうな形で訊いてみることにした。
「この道、さっきも通りませんでしたっけ……? 何だか、見覚えある景色のような気がして、それで」
「確かに」、
そう口にしたその人に思わず「やっぱり!」と声を上げそうになる。
けれど、
「暗がりでは、そう感じられることが多い」
と続ける主に、わたしは声の音を自分の中に留めた。
ボロミアさんは一度言葉を切り、ふいと闇に沈む坑道内を見渡した。
そしてその目は、既に階段を上り始めているガンダルフさんらに向けられる。
細められた目が、長い階段の終点を捉え、声が続いた。

「しかし、この石階段に今まで出くわしてはいないな」
「…………」

わたしは今になって、急にうすら寒くなってくる。
駄目だ。やっぱり、おかしい。
わたし達はさっき確かに、この急な階段をやっとのことで上り切ったはずなのだ。
はずなのだけれども。

「……うーん、そうですよね」、
わたしもボロミアさんに倣って、先頭の人らを見やった。
「それにしても、傾斜がすごいですよね」
「足元に気をつけろ。下ではなく、前を見るんだ」

わたしはそれに肯いてみせる。
一時停止していたビデオ、それを再生したら、何故かほんの少し前の場面まで戻ってしまってそこからスタート。といったところか。
でも、そう感じているのはわたしだけらしい。それを、どうにも説明しようもない。
……こういうパターンは初めてだ。
思うけど、そもそも、前回のボロミアさんまでわたしの世界に来てしまうのも初めてだったわけだ。
何が、どうなっているのだろう。
設定が自由すぎやしないか、と誰へともなく悶々と思う。
けれどわたしには思考を一時中断する必要があった。もう一度この急勾配石階段に挑まなくてはいけなかったのだ。



長い一時休憩だった。
さっきのわたしはすぐに寝入っていたらしく、皆がどのくらい休息していたのかは知らない。
けれどメリーとピピンのひそひそ話を聞く限り、今しばらくここに留まることになりそうだった。
ガンダルフさんが道に迷ったらしいのだ。
少し離れて座る魔法使いさんは向こうを向いているので表情はわからないけれど、他の皆が近付かないあたり、難しいことになっているのかもしれない。
皆はあまり明るい面持ちとは言えなかったものの、わたしは行く先については、然程心配していなかった。
何といっても、いざとなったらわたしは自分の世界に戻れるという反則技がある。食事や水に困るでもない。
皆にそのことを告げるのは最終手段にするにしたって、いざとなればそれはその時だ。
それに、ガンダルフさんは何だかんだで入り口の門も開けている。
実際、とても頼りになる魔法使いさんなのだ。きっとすぐに、行く先を導いてくれるような気がする。

却って、時間があるのは良いことだった。
わたしにとって、自分の中を整理する時間ができたことになる。
そして落ち着いてみれば、時間を少し遡ったという現象は、ただそれだけに過ぎないと気付く。
何かとてもマズイことがあるわけでもなく、損でもなければ得でもない(二度も階段を上らされたのは損といえば損だが)。
そう思うことで、とにかく心を平常のものに保つことにする。

落ち着くと、いくらかは他の人たちの様子をみる余裕ができる。
わたしは視線を巡らせてみた。
わたしがほんの少しボロミアさんと離れていたのは、その隣にアラゴルンさんがいたからだ。
それは彼がどうというのではなく、ただ単に、アラゴルンさんがパイプを燻らせていたからという理由だった。
……そういえば、いつだったか、ボロミアさんに訊いてみたことがある。

「ボロミアさんは、パイプを吸ったりはしないんですか?」

他愛無い会話から(確か、食べ物の好き嫌いの話題からだったように思う)、ふとそう訊ねたのだ。
中つ国では、煙草ではなくパイプという文化が根付いているようだった。
にも拘わらず、わたしはボロミアさんがそれを嗜んでいるのを見たことがなかった。
わたしは煙が苦手なので、実のところどうなんだろう、と何気なく訊ねたのだが、当の本人は一瞬虚をつかれたような顔になったのを今でも覚えている。
最初こそ口籠っていたけれど、やがてボロミアさんはこっそりとこう教えてくれた。

「付き合いで吸うことはあるんだが、実はあまり、あの煙が得意ではないのだ」と。

誰にも言うな、と口止めされた手前それは守っている。
けれど何処か恥ずかしそうにそう告げた主の姿を思い出すと、今でもニヤニヤしてしまう。
恥ずかしがる必要なんてないと思うのに。
……そんなボロミアさんが、パイプを手にしたアラゴルンさんの隣に座している。
たまに何事かを小声でやり取りしているのを見ていると、(なあんだ)と思う。
最初の頃こそ、何となく距離というのか、そんなものがあるように感じられた二人だけれど、だんだんふつうに仲良くできているみたいなのだ。
実際、空気は傍から見ていても決して悪いものでなく、二人並んで座っているのがごく自然な感じに見える。
わたしは少し、安心した。

「!」

そうした矢先に、近くにいたホビットが何かに気付いたように眉根を寄せた。
今しがた上ってきた階段の下を見下ろし、凝固しているのはフロドだ。
その目線を辿ると、暗がりの中で何かが動いているのがわかる。わたしも同じように一瞬固まった。
遠目にも、人のような手足があるのがわかる。動きはどこか動物じみていたけれど、動物ではない。
見れば、フロドもこちらを見ている。
いつものガラス玉みたいな綺麗な目が大きく見開かれ、表情は強張っている。
何か得体のしれないもの(実際そのとおりだ)を目にした顔そのものだった。

(見た?)
(見た)
(何だと思う、あれ?)
(分からないけど、とにかく)

目でやり取りをし、振り返る。
独り考え込んでいる魔法使いさんは、未だ動く気配はない。とにかく、現状の報告をした方がいい。
肯くと、フロドがいち早くガンダルフさんの傍に駆け寄る。
小声ながらも、怯えを隠しきれていないのがわかった。

「誰か下にいる!」
「ゴラムじゃよ」

まるで慌てるでもなく、ガンダルフさんはいつもの声色で言う。

「三日前から後をつけとる」
「ごらむ?」
「元はスメアゴルという青年じゃった。……、このモリアに入る時に、何かがいたのを見たと言っておったな」

それがゴラムだと、目を細めながら魔法使いさんは言う。
聞けば、今フロドが持っている指輪の、以前の持ち主だという。
その指輪には魔力が宿っていて、その力に蝕まれた者なのだとか。
敵に囚われていたはずのところを逃げ出したか、或いは放たれたか。とにかく、今も彼は、指輪を諦めていないという。
取り戻したい、ということだろうか。

「ビルボが会った時に、殺しておけばよかったんだ……!」

今まで黙っていたフロドが急にそんなことを言い出したので、わたしは少し吃驚した。
まじまじと彼を見る。
そう特別に仲が良い、とまでは言わない、けれど今まで接してきたフロドはどちらかと言えば大人しく、聡明な印象だった。
そんなフロドにしては、乱暴な物言いだなあ、と思ったのだ。

「情けじゃ。情けがビルボの手を止めた」

ガンダルフさんが静かに言う。
どうも指輪や、今あとをつけてきているそのゴラムというのには、ビルボさんが関係しているらしい。
あの、裂け谷で出会った小柄なおじいさんが。
それを、わたしは詳しくは知らないけれど。

「生と死を軽率に語ってはならん。賢者といえども未来は見えぬ」

灰色の長い髪と髭を帯びたその顔には、厳しい表情があった。
ガンダルフさんは、そのまま続ける。
あのゴラムにも何か役目があるのだという。「ビルボの情けが、多くの運命を変えた」のだと。
……わたしが中つ国にこうして辿り着いたのにも、何か、ここでの役目があるんだろうか。

「指輪なんかもらわなければ、こんなことにならなかった……」

フロドがぽつりと言う。
どうも、ビルボさんから譲り受けた指輪であるらしい。
そのことを後悔しているのか、さっきとは打ってかわって弱々しい声だった。

「辛い目に遭うと誰もがそう思うが、思ったところで今更変えられん」

それよりも自分が、今何ができるかを考えるべきだという。

「この世には邪悪な意思以外にも、別の力がある。ビルボは指輪に出会うべくして出会い、おまえもそれを受け継ぐべくして受け継いだのじゃ。……そう思えば力も湧く」

言葉はいつしか、勇気づけるものに変わっていた。
見れば、さっきまでガンダルフさんの顔にあった厳しい色は消え失せて、優しくどこか茶目っ気さえ感じられる微笑みが浮かんでいる。
……ホビットの皆が、ボロミアさんやファラミアさんが、この魔法使いさんを頼りにする理由が少し分かったような気がする。
わたしはまだ、そう多くの会話を交わしたわけではない。
それは、この旅の仲間の大半がそうだ。ボロミアさんを除けば、まだ皆とは少しの時間を過ごしただけだ。
でも、旅路はまだ続いていく。きっと、皆ともっと話をする機会はあるはずだ。もちろん、ガンダルフさんとも。
少しずつ、彼らのことを知っていけたらいい。
わたしはそう思った。






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