モリアに入る、少し前の事だ。

の世界を訪れる夢をみた。
不思議な世界だった。
彼女の部屋から出ることはなかったが、が外出している間は「てれび」なるものを見ていた。
彼女の世界の情報が流れ出してくるというその箱には、なるほど、初めて目にする景色や物事が詰まっていた。
聞き慣れない単語、初めて耳にする音楽、が綴るのと共通の、私には識別出来ぬ文字の羅列。
もし仮にあの夢が真実を語っているなら、は確かに遠い世界の者なのだろう。
遠い、遠い国からの訪問者。
本当に彼女を、いつかあの国へ帰してやれるのだろうか。
そして、改めて思う。
そもそも、どのようにして彼女は、この中つ国へと渡ってきたのであろうか。

そんなことをとりとめなく考えている時に、ふと彼女を見ていて気付いたのは、ほんの微かな違和感だ。
……気のせいといえば、そうなのかもしれぬ。
女の身だ、特に気を付けているだけ、ただそれだけのことなのかもしれないが。
――長旅を続けているにも関わらず、清潔なのだ。
川や湧き水に恵まれない日も当然ある。水を浴びることもままならないはずなのだが、不思議と彼女はきれいなのだ。
真っ直ぐに梳かれた黒髪はいつも艶やかで、近くにいれば、石鹸か、或いは何かの花のような良い香りがする。
そう思い至り、ついその横顔に見入っていると、すぐにはこちらを見た。目が合った。

「何ですか、ボロミアさん」
「いや……」

僅かに、言い淀む。
口にしなくても、いいことだったかもしれない。
それなのに言ってしまったのは、自分の中でまだ形を取らない漠然とした考えに対する答えが欲しかったからだろうか。

「……は、いつもきれいだと思ってな」
「えっ」

絶句するように彼女は固まり、私を見返してくる。
みるみるうちに頬が赤く染まるので(どうしたのか)と思っていたら、ふと周囲の視線が集まっているのを感じた。
見れば、ホビット達はぽかんとしたように口を開けており、アラゴルンに至っては何とも言えない生温かい温度の視線を送ってくる始末だ(他の者は離れており、私の声は届かなかったらしい)。
一瞬の疑問符の後、遅れて私は自分の発言を思い返し、ようやく合点がいった。

「違う!! そういう意味ではなくてだな!」
「えっ、ちょ、違うんですか!? ……違うんですか、そうですか……」

慌てて弁解しようとしたが、は急速にしおれていく。
それを目の当たりにして、自分が更なる大失態を演じていることに今更ながら気が付いた。
メリーが天を仰ぐようにしながら片手で目を覆い、ピピンはまだあんぐり口を開けている。
フロドとサムはまるで我がことのようにバツの悪そうな顔をしていたが、もはやそれどころではなかった。

「うん、まあ、そうですよね……わたし美人でも何でもないですし」
「いや、そのだな、
「いえ、何も言わなくていいです。いいんですけど、ボロミアさん。持ち上げておいて落とすスタイル、精神的に辛いので止めてほしいというか……あはは」
「…………」

目はあさってを向き、乾いた声で言うに次ぐ言葉が見つからない。
二の句が継げずに詰まっていると、やれやれというふうにアラゴルンが首を振っていたように思う。
結局、最初の私の小さな疑問はそのままうやむやになってしまった。
……あの時、自分でもはっきりと形を取っていなかった想像は、今思えばあまりに現実的ではない。
考えを切り上げることにして、私は目を開けた。



仄暗い坑道の中の、すえた匂い。
目の前で揺れる焚火の熱に、私は現実に引き戻される。
視線を巡らせれば、は、少し離れたところで独り、座り込んでいる。
それというのはおそらく、私の隣に座るアラゴルンがパイプを燻らせているからだ。彼女は煙が苦手だった。
そして実のところ、私自身もそう煙が得意ではないのだが、それでも私はここにいる。
私は彼を、アラゴルンのことをもっと知らねばならない。

「……長考になるだろうか」
「さて」

行く先の道を思い出そうと考え込んでいるガンダルフをそっと指し訊ねてみる。
アラゴルンはパイプの吸口を離して、ちらりと向こうを見た。

「……今は待とう、焦っても仕方あるまい」

話し掛ければ返事をする。
共に歩み、戦い、旅の中を過ごす。時には笑うこともある。
彼は、確かに人間だった。
旅の一行で(を除けば)唯一の同種族であり、同胞である。
そう考えれば、最初の頃、自分は何を惑っていたのかと思いもする。
自分と彼との間に、何か見えない壁らしきものが存在するように私は感じていたのだが、それは自分で作った壁だったのだろう。
……が、傍にいたフロドと目配せをしている。
と思えば、そっとガンダルフの方へと二人が駆けていく。何事かを話しているが、内容までは聞き取れない。
いつの間にか、なりに、旅の仲間の中に溶け込みつつあった。

「あんたは心配かもしれないが」、
アラゴルンの声が、続いていた。
「我々はこれまでもガンダルフに導かれてきた。ここからも出られるさ。あんたも、あんたの大事な連れも」

最後の方の意味がよくわからず、たっぷり十を数える程の沈黙を作ってしまった。
ようやく、という形で彼を見返して
「……最後に言ったのはのことか?」と聞き返してしまう。
向こうはゆっくりと煙を吐き出しながら目を細めていた。

「他に誰がいるんだ?」
「…………」

言い返そうとして、止めた。
確かに彼女は、大事な存在だ。それに、言い募ろうにも、分が悪い。
何しろ彼は、私の「大失態」を間近に見ていた一人である。
内心、溜息をつく。
全く、どうしたものだろうか。アラゴルンにしてもにしても、どちらも私の頭を悩ませてくれる。
そんなことを思っていた矢先、ガンダルフが声を上げた。行くべき道が分かったのだという。
皆が腰を持ち上げる中で、魔法使いの傍にいたがこちらを振り返った。
いつもと同じ微かに笑む表情が其処にある。
一瞬沸き上がったのは、自分の中に燻っている現実的でない想像だ。
……突然現れた者が、ある日突然、その姿を消すことがあったとしても、それは道理と言えるのではないだろうか。
いや。
「彼女が既に、帰り道を見つけているのではないか」と考えるなど、どうかしている。
私は自分の中で首を振り、その想像を再び胸の奥底にしまい込んだ。



広大な地下を歩く。
ガンダルフの持つ灯りに照らし出された地下宮殿は、想像を遥かに超えたものだった。
今でこそ生きる者の気配は無いが、かつては栄華を極めていたのだろう。
そう思っていると、急にギムリが走り出した。
向かう先には一筋の光が差し込む空間で、ドワーフと思しき屍が複数横たわっている。
戦いの後、そのまま時間が経過したのだろう。
中央に置かれた棺は文字が刻まれ、ガンダルフがそれを読み上げる。

「 『 モリアの領主、フンディンの息子、バーリン此処に眠る 』 ……死んでいたか」

恐れていた事が。魔法使いはそう続ける。
聞けば、ギムリの親族であったという。肩を落とすドワーフの心中は察するに余り有る。
……敵に敗れれば、こうなるのだ。
わかっていた事が、今、ただただ現実として目の前にある。
ガンダルフがふと、屍の一体が抱えていた本を取り上げた。
砂と土に塗れ、広げれば頁が抜け落ちる程劣化していたが、読むには問題なかったらしい。
読み上げられたのは、この場で何があったのかだ。抱えていたのは、記録をつける者だったのだろうか。

「!」

不意に、隣にいたが小さく息を呑み込むように呻いた。
次の瞬間、大きな音が響き渡る。それも、続けざまに。
井戸の傍の屍に触れてしまったらしいピピンが、引き攣った顔をしていた。
そうする間にも屍が、そして脇に置かれていた鎖に繋がった桶までもが大層な音を立てて井戸の奥に呑み込まれていく。
全員が凍り付いた。
――しばらくの後の、静寂。
あれで、オークどもが気付かぬはずがない。
実際、遠くから聞こえ始めたのは太鼓の音だ。ゴブリンやオークといった輩の、戦いの合図。そして何より、

「剣が……!」

フロドの持つ剣が青白く輝いていた。
元はエルフの剣であったこと、オークが近付くと光を放つということを旅中で話には聞いていた。
この空間の入り口、その扉へと駆ける。
手を掛けた扉、正に目と鼻の先に突き刺さる矢が二本。
とにかく入り口を閉ざすも、歯噛みする思いだった。全員が無事でいられるかどうかの保証はない。
無数のオークらと一緒に、巨躯のトロルがこちらへ向かってくるのが見えたのだ。

「下がれ! ガンダルフの傍にいろ!!」

アラゴルンがホビット達に叫ぶ。
レゴラス、そしてアラゴルンと共に閉ざした扉につっかえを施し、迎え撃つための距離を取る。
ホビット達と共にも魔法使いの傍らに立つ。剣の手解きを確かに少しはしたが、実戦がこれでは。
内心に焦燥があった。しかしとにかく、打ち倒していく他ない。
押し寄せるオークの軍勢に扉が破られたのは、すぐのことだった。
嵐のような時が訪れた。




どのくらいの時間が経っただろうか。
私達は一人も欠けることなく、道を駆けていた。
誰一人、大きな傷を負うことなく押し寄せる邪悪な者共を倒したのだ。
トロルの一撃にフロドが倒れたかと思われたが、そうではなかった。
彼は身に着けていたミスリルの鎖帷子に護られていたのだ。
強運の持ち主である指輪所持者は地に伏すことなく、今なお、我らと共にある。……必ず、皆でこの坑道を抜けるのだ。

そう願うも、追手はあまりにも多すぎた。
棺の置かれた部屋を出て走り抜けるも、オーク共は後から後から這い出して来る。
大群に囲まれ窮地に立たされたその時、一瞬にして音という音が消えた。
悪しき者共のがなり立てる声、荒々しい息遣い、武具の擦れ合う鈍い金属音。
どれも全てが、まるで凍り付いたかのように時間を止めていた。
……蜘蛛の子を散らすように、オーク達が逃げ去っていく。
それは、遠い向こうに現れた何かの存在に恐れ戦いたからなのだろう。得体の知れない恐ろしい唸りが、ここまで届いていた。

「今度は何の化け物だ……?」

邪悪なる者でさえ怖気づくのだ、相当な化け物なのだろう。
闇の先に差し込み始めたのは、夕暮れを思わせるような橙の光。
ゆっくりと迫りくるその色を睨みつけていると、私の呟きに答えるようにガンダルフが言った。

「バルログじゃ」

古代より生きてきた悪鬼だと、彼は続けた。
我らの手には負えぬ存在なのだとも。ならば、取るべき道は一つしかない。
私達は走り出した。
走るその先に、未だ希望の光が見えることはなかったが、ともかく。






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