記憶が、途切れている。



「今度は何の化け物だ……?」
というボロミアさんの声に、ふと我に返った。
気付いたら、さっきまでとは違う場所にいて、あれ、と思う。
おかしいな。
さっきまで、ギムリさんを追いかけて辿り着いた、お墓のある広間に居たはずなのに。
見れば、いつの間にか何処までも続くような広い広い空間に移動していて、固まって立ち尽くす皆はある方向を見つめたまま息を詰めている。
その視線を辿っていくと、仄暗かった道の向こうに差し込む光があった。
まるで夕陽のようなオレンジがかった光が、波のように緩やかに動いている。
嫌な色だなあと、なんとなく思う。
暗い夕暮れに入る直前のような色合いの光だ。それがゆっくりと、しかし確実に、こちらに近付いてきている。
それが一体何なのか分からないし、そもそもわたしは、自分の置かれている状況すら分からない。
どういうことなのだろう。どうして場面が切り替わっているのか、てんで腑に落ちない。
いくらかの沈黙の後、ガンダルフさんの言葉が重々しくこぼれ落ちた。

「バルログじゃ」

古代より生きてきた悪鬼だと言うその言葉に、わたしはまだ、まるで理解が追い付かない。
おそらく、あの光の正体のことなのだろう。バルログ。頭の中でとりあえず繰り返す。
ストリートファイターにいたわ。そういう人。
そう能天気なことを思える事態ではないというのを、わたしはこの時まだ理解していなかった。

「お前たちでは相手にならん……」

そう告げるガンダルフさんの静かな声が合図だった。
そこには彼なりの焦りの色があり、切迫の間があって、ようやくわたしは
(あ、これ、やばいやつかも)、
大変にまずい状況なのだというのを解した。
そんな最中にいたものなので、皆が一斉に駆け出すのに、遅れないようにするのが精一杯だった。
何がどうして、こうなったのだろう。何が何だか理解できない。
相も変わらずドワーフの地下坑道にいるのは違いないけれど、さっきまでとの記憶がわたしの中で繋がらないのだ。
まるで、少し前にあった時間が巻き戻った現象、今度はその逆に、時間をいくらか先送りでもしたかのような感じだった。

――。

そうなのだろうか?
頭に一瞬沸き起こった考えに、ますますわたしは混乱した。
何が起こっているのか見当がつかない。
取り敢えずあのお墓の広間からは脱したのだろう、けれどそれがどのくらいの時間を経たものなのか、数分か数時間か、或いは一日以上経っているのかさえ判断できないのだ。
こういうのというのは、果たして何処に苦情を出せばいいのだろう。
わたしは少なからず、この訳の分からない現象に対して頭にき始めていた。
責任者出てこいと言いたいのに、その声をぶつける対象が見当たらないのがまた腹立たしい。
そしてそのことについて、ゆっくり時間を掛けて考えている暇などなさそうだった。

とにもかくにも、今のわたしは我が主に追い付こうと必死だった。
ボロミアさんは結構な重装備(服の下の鎖帷子に加えて剣と盾だ、盾だけ持たせてもらったことがあるものの、それだけでもそれなりに重かった記憶がある)にも拘わらず、いつの間にか先頭を走っていた。
そしてその事実に、少なからずわたしは吃驚していた。
ボロミアさんという人は、こんなにも足が速かっただろうか?
軽装のわたしでもそうは走れず、見れば追い付こうとするその先、階段を駆け下りるボロミアさんがこちらを振り返った。
目が合った。
ぎょっとした。
その階段のあと数歩というところ、そこから途中でぷっつりと、道が切れてなくなっているのが分かった。
そうして彼は、それに気付いて止まったのではない。わたし達のことを確認するために振り返っただけだった。
そのままの勢いで再び一歩を踏み出そうとしたので、

「ボロミアさんストップ!!!」
「!!」

いつにないわたしの大声に驚いた様子の主は、ギリギリのところでどうにか持ち堪えた。
バランスを失い、手にしていた松明が深く暗い闇の中へと落ちていく。
わたしがその腕にしがみついたのと、レゴラスさんが彼を身体ごと引っ張ってくれたのがほぼ同時だった。
後ろになだれ込むような格好で三人とも倒れ込んだので、それなりに背中を打ち付けもした。
けれどもとにかく、わたしは主を失わずに済んだ。済んだけれども。

「すまん、助かった」
「何よりです」

レゴラスさんにも頭を下げ、立ち上がり、辺りを見ればうっすらと浮き上がる光景に正直げんなりする。
何しろ照明も何もない地下なので、相当に見通しは良くない。
それだというのに辺りが見渡せるのは、何やら遥か下の方で、どういうわけだか炎が立ち上がっているせいなのだ。
そして視界に入るのは、別に分岐した道の向こうの、とてつもなく長く続く階段の急勾配だ。
観光名所でゆっくり巡るのならとにかく、後方でバルログだか何だかが押し迫っているこの状況では辟易せざるを得ない。
と、ゴネたところでどうしようもない。

再び走り出した先、すぐさま足を止めることになった。
またも階段が途切れている。
そもそも坑道自体、あちこち崩れていたり塞がっていたりとダンジョンさながらなのだが、ここは見事に階段が寸断されていた。
見るに、上から重い何かが落ちてきて、この部分だけ陥落したといった感じだった。
数段なら大したことなかっただろうに、全員が一瞬躊躇するような微妙な長さだ。
身軽なレゴラスさんがまず先に、続いてガンダルフさんが跳躍したところで、足場に衝撃が当たるのを感じた。

「!」

皆がそちらを見た。
暗がりから矢らしきものが飛んでくるのを認めて、すぐさまレゴラスさんが応戦に入る。
番えた矢は姿すら見えない敵を確かに捉えていたのらしい、暗がりから落ちてくるのは一体のオークだった。
しかしまだ数がいるらしい、特有の耳障りな鳴き声が遠くに響いている。


そう呼びかけられたのはすぐ隣からだ。
「私が先に跳ぶ。……その後に続け、必ず受け止める。必ずだ」

アラゴルンさんが矢を放つのを視界に捉えながら、その声を聞いていた。
思いの外、落ち着いた声色だった。
うっかりすれば、オークの矢が当たるかもしれない状況だというのに。事実、何本かが頭上を掠め、遠くに落ちていった。
それでも、その人の声を聞くとほんの少しばかり安心できた。
いいか? と問うボロミアさんに、わたしは肯く以外にない。

「そう言って頂けるの、とっても心強いです」
「そうか」

お互い前しか見ていなかったので分からないけれど、微かに、我が主は笑った気がした。
わたしがそう感じただけかもしれない、直後、
「メリー、ピピン!」
二人を抱えたボロミアさんが幅跳びよろしく大きな跳躍をした。
後退ってしまったのは、彼が跳んだ瞬間に足場が大きく崩れたからだ。
見ると、今向こう側に渡った三人は無事のようだけれども、こちら側はハードルが上がった形になっていた。
さっきよりも距離が広がっている。

「サム!」

とはいえ、誰も諦めてはいなかった。
アラゴルンさんが小柄なホビットである(しかし体躯はほどほどにふっくらとした)サムを抱え投げたのには一瞬肝が冷えたけれども、なるほど、ホビットならばそうもできる。
実際、ボロミアさんが難なく受け止めてくれていた。
ギムリさんは投げられるのは嫌だったらしく自ら跳んだのだけれど、やや飛距離が足りずにひえっと思った瞬間、レゴラスさんが掴んでくれて事なきを得た(掴まれていたのがその立派なヒゲであることさえ除けばだが)。
さあ、どうしたものだろう。
いつの間にやら、こちらに残っているのはわたしの他、フロドとアラゴルンさんだけだった。
本当ならボロミアさんのすぐ後に続こうと思っていたのに、ハードルが上がったためにタイミングを逃したような格好だ。

「危ない!」
「!」

そうこうしている間にも足場が更に崩れ、フロドとアラゴルンさんが何とか落下するのを免れた。
二歩分だけ後方にいたわたしは、フロドに手を差し出し何とか立たせた。

「大丈夫?」
「う、うん」

少しぶりに間近で見るその顔はうっすらと土や埃で黒く汚れていて、何とも言えない気持ちになる。
そういうわたしも似たようなものだろうけれど。アラゴルンさんは……まあ、こちらは元々か。
そんな考えを手放し、いよいよ三人で改めて立ち尽くす。
跳ぶには無理のある距離になってしまった。

「動くな、ジッとしてろ」

そうアラゴルンさんが言うので小さくコクコクと肯く。
実際のところこちらもそうする以外にないのだけれど、策らしい策もないように思える。
おまけに背後から地響きがするので思わず振り返れば、例のバルログなのだろう、煌々とあの嫌なオレンジ色の光が迫ってきている。
揺るがす振動にバラバラと辺りの石壁が崩れ、そのうちの一つが今立っているこの長い階段の後方を直撃した。
こういともたやすく、石階段というのは崩れてしまうものだろうか。
まるで狙ってそこに落ちたかのようだった。
後方の階段が削ぎ取られるように無くなってしまい、わたし達は退路をも断たれてしまった。
あ、詰んだ、と思った。
……どうしてこの難関の後の時間に、わたしを早送りしてくれなかったのだろう。
わたしはやや自棄気味にそんなことを思った。
そもそも本当に時間を飛ばしているのかどうかもハッキリとはしていない、けれどもそうも思いたくなる。詰んだ感じしかしない。

「掴まれ」

そう言ってアラゴルンさんもフロドとわたしの肩を掴んだ。
おしくらまんじゅうに近い形だったが、さっきの後方階段の崩落のせいで、もはやこちら側は階段そのものが大きく揺れ動いていた。
左右どちらかにでも傾けば一巻の終わりだと思う。
……そう言えば、この世界で死んだら、わたしはどうなるんだろう。
ふと、そんなことを考える。
この中つ国では勿論、元の世界でも死んでしまったことになるんだろうか。
或いは、この世界だけの死であって、その後は元の自分の部屋でいつもみたいに目覚めるんだろうか。

、もっとこっちへ! 傾く!」
「わたしが重いみたいに言うの、止めてください!」
「わ、、危ないよ!」

アラゴルンさんが言うので思わず言い返してしまい(実際それなりに重いだろうけれど)、思考は中断した。
向こう側に渡った皆はハラハラと成り行きを見守っている。

「前へ!」

揺らめいていた足元を踏ん張り、わたしとフロドはアラゴルンさんに掴まって重心が前に傾くように努めた。
揺れが徐々に大きくなり、向こう側の階段へと傾いていく。
何ともいえない、独特の気持ち悪さがあった。
エレベーターがスッと下に下がっていく瞬間のような、ちょっとだけ身体が浮くような感じと少し似ていたかもしれない。
決してスローモーションになるわけでもなく、あっという間のことだった。
階段と階段がぶつかり、繋ぎ合わせになった。
そうしてわたし達はといえば、無事に向こう側の皆に受け止められていた。
見上げればすぐ眼前にボロミアさんの碧の目があって、そこには確かに安堵の色がある。
一刹那の安息に過ぎなかった。
すぐさま、階下へと駆け下りなければならなかった。何しろ、いつの間にか辺りが熱を帯び始めていたので。
火柱が一面に立ち始め、急に気温が上昇していた。合流を喜ぶ暇もないまま階段を下りきり、真っ直ぐに続く道を走る。
突然、熱風が轟いた。

「っつ!!」

上の言葉は、熱風のおかげで言葉の原型を留めなかった「熱い」である。
思わずフードを被りかけ、一瞬、視界が暗くなる。ボロミアさんがマントで熱を遮ってくれていた。
風が収まり振り返れば、後方のずっと向こうに大きな炎が燃え盛っている。
それは怪物の姿をしていて、例のバルログなる怪物があれなんだろうと理解した。
この空間に姿を現したために、空気が膨張して起きた熱風だったのかもしれない。
こうして見ると実に大きく禍々しく、悪鬼というのに相応しかった。なるほど確かに、直接戦うのは困難だろう。
ストリートファイターの方だったならまだしも。
大きく咆哮するその口の奥にもまた炎が眩しく盛っていて、これはダメだ、無理ゲーだと思った。
接触した瞬間にゲームオーバーになるやつだ。逃げるしかない。
皆で走って走って走っているうちに長い細い道を抜け、ふと振り返ればそれが橋だったのだと気付く。
そしていつの間にか一番後ろにいたガンダルフさんが、橋の中央で足を止めていた。

「この先は通さん!」

その手に持つ杖が光を灯し、白く眩しく力を集めていくようだった。
実際、眼前に迫ったバルログの一撃を弾き返してみせたのだ。さながら映画みたいだった。
固唾を飲んで見守るしかない中、けれど、事態は思いがけない展開をしてみせた。
バルログが次なる一撃を繰り出そうと足を踏み出したその時、足場が崩れその身もろとも落ちていったのだ。
炎が視界から消え、辺り一帯が静かに元の暗さを急速に取り戻しつつあった。
皆が息を吐き出し、わたしも(自滅してくれてよかった)と思っていた。ガンダルフさんの足に何かが巻き付くのを見るまでは。
バランスを崩したその姿に、思わず息が止まった。

「駄目だ、行くな!!」

走り出そうとしたフロドを、ボロミアさんが必死に留めてくれていた。
一瞬ガンダルフさんの足に巻き付いたものを確かに見た、炎の鞭のようなそれは、下から伸びたものだった。
バルログの最後の一撃だろうか。

「ガンダルフ!!」

絶叫にも近いフロドの声に、崩れた橋にどうにか両の腕だけで掴まっていた魔法使いさんはその顔を上げた。
きっとフロドを見ていたのだと思う。
それなのにどうしてだろう、わたしとも何故か、目が合ったような気がした。或いは、皆を見ていたのだろうか。
今からでは、あの距離では、間に合わない。
一瞬、耳が痛くなるほどの無音が空間に立ち込めていた。

「行け! ばか者!」

石の床と手が擦れる音さえ、ここまで聞こえたように思う。
ガンダルフさんの姿が消失していた。
フロドの叫び声が反響し、そのまま彼を抱え上げたボロミアさんが走り出していた。
わたしとアラゴルンさんの名を呼んでいるのが分かる。
わたしはボロミアさんの方を、そして魔法使いさんの落ちたその先を、そしてボロミアさんの方を再び見た。
走った。ずっと遠くの方で再び這い出てきたオークらが矢を番えているのが見えていた。


呆気ないほどあっさりと外に出ていた。
出口を抜けた先には青空が広がっている。
こちらの世界では数日ぶりの陽の光だった。空気も坑道の中とは比べ物にならないくらい清々しい。
それにも拘わらず、それを喜ぶような状況ではなかった。
ギムリさんが坑道に引き返そうとするのを我が主が押し留め、レゴラスさんは沈んだ表情を隠さない。
ガンダルフさんを特に慕っていたのだろうホビットの皆に至っては、見ていられなかった。
唯一普段と変わらないように見えるのはアラゴルンさんだ。
そしてわたしはというと、……どうしてだろう。
何故か、不思議と悲しくない。
たぶん、自分では分からないけれど、それなりにショックなのだろう。
反動で、すぐには実感が沸かないのだと思う。きっと、後から悲しくなるのだ。
ただ、
(もう自分は、ガンダルフさんとは会えないのだろうなあ)
ということだけはひしひしと感じていて、悲しいという感情をすっ飛ばして寂しいなあ、と思っているのは確かだった。
……寂しいな。
わたしはもう一度、そう思った。






←BACK      ▲NOVEL TOP      NEXT→