森は、静寂に満ちていた。
ひらひらと枯れ葉が舞い落ち、足元では踏みしめたそれが乾いた音を立てる。
聞こえてくる鳥の声が、反響するように遠くから届いてくる。
どこか、奇妙な森だった。
何がと言われると、上手く説明できない。
……疲れているんだ。
だからきっとそんなふうに感じるのだと、漠然とそう考える。
何度か自分の世界に戻って、休息を得ている自分でさえそうなのだ。皆の疲労は、どれ程のものだろう。
「みんな離れるんじゃないぞ、……この森には恐ろしい魔女がいるって噂だ」
そんな奇妙な森の静けさの中にいたものだから、背後の小さな囁きもハッキリと聞き取ることができた。
ちらと見れば、ギムリさんが少し遅れそうになっていたフロドの肩に触れ注意を促していた。
並べば背丈こそフロドとそう変わらないギムリさんもやはり年長者、それとなくホビット達を気に掛けてくれていたらしい。
……魔女。
さっきの囁きの中にあった単語を、胸の内でなんとなく繰り返す。
この中つ国なら、いてもおかしくはない。
だって魔法使いがいるくらいなのだから。
ギムリさんの声が、後ろで続いていた。
「エルフの魔女ですごい魔力を持っている」
……その魔法使いも、今はパーティを離脱してしまった。
ふと、先頭を見る。
夕暮れが迫っていた。
橙色の光が差し始めていた森の中で、黒い長身のアラゴルンさんの姿がぽつりと目につく。
今までは、ガンダルフさんとアラゴルンさん、この二人が一行のリーダーのような印象だった。
それが突然、あんな形でガンダルフさんを失った。
実質、今は独りでリーダーの役割を担っている形に見える。
ギムリさんの声が続いていた。
「彼女を見た者はその場で虜になり……二度と戻ってこない」
つい先程の、モリアを抜けた直後のことを思い出す。
心身ともに疲弊しきっていた皆を――とりわけ、ホビット達を心配して「休ませてやれ」と声を荒げたボロミアさんに、アラゴルンさんは冷静に言い放った。
「陽が落ちればオークの群れが這い出して来る。その前にロスロリアンの森へ」と。
すぐ隣を歩く我が主は、黙したまま行軍を続けている
どちらが正しいとか、正しくないとか、そういうのではなかったと思う。
ただアラゴルンさんは、リーダーとして最善の選択をしただけなんだろう。
……ボロミアさんは、それをどう思っているだろう。
モリアでは、二人で言葉を交わしているのを見た。仲良くしていそうな感じに、見えたのだけれど。
ギムリさんの声が続いていた。
「けどな……このギムリ様は妖術なんかには引っかからん」
そっと隣を窺う。
その顔はやや疲れてはいるものの、それさえ除けば、いつものボロミアさんのようにも思える。
けれど、その表情の奥に何かを隠しているようでもある。
どうなのだろう? ……わたしには、判断がつかなかった。
ギムリさんの声が続いていた。
「俺には鷹の鋭い目と、狐の耳がある……っ」
語尾で、妙な息の呑み込みがあった。
咳き込んだのかと思う間もなく、いつの間にやら眼前に番えられた弓と矢の先があった。
映画なんかで、カメラが視点を振ってまた戻ると、敵が目の前に音もなく立っている、なんてシーンがあったりする。
正にそれだった。
実際にそれが今起きたにも関わらず、その仕組みがどうなっているのかまるで分からない。
音も立てずに移動する、その原理というものが知りたい。
複数のエルフたちが、わたし達を取り囲んでいた。
はたと、目を開ける。
辺りは暗くなっていた。
幾らか眠ってしまったらしい、自分の世界に戻った記憶はない。けれど――。
反射的に腕時計を見る。九時四十二分。流石に午前ではないだろう。
キョロキョロと見回すと、一番近くにいたのはメリー、それにピピンだった。二人もわたしに気付いたようで、
「起きたのかい」、と声を掛けてくる。
「うん。えっと……」、わたしは言い淀んだけれど、訊ねた。
「……今日って、何月何日だっけ」
「おいおい、流石に丸一日寝過ごしちゃいないさ」
心配しなさんな。
そう言うメリーに、いいから、ともう一度訊ねる。
その日付はわたしの記憶としっかり合致して、正直安堵した。
モリアで二度ほどあったような、時間にズレが生じる現象は起きてはいない。
こっそり長く息を吐き出してから、いや、と思う。
(もしモリアの時みたいに、少し前の時間に戻っていたら……)
そうしたら、ガンダルフさんを何らかの形で失わずに済んだだろうか?
そんなふうに思う。
思うが、どうしようもないことだった。
改めて思い返してもあんなのは初めてのことだったし、それをコントロールできるわけでもない。
……あれというのは、一体何だったのか?
これからも起こり得るのだろうか、目を覚ます度に日付やら時間やらを毎回確認しなくてはならないのだろうか。
そう考えると正直なところ、面倒だなあという気持ちになる。
なるけど、これまたどうしようもないことだった。
そもそも中つ国と自分の世界との行き来自体がどうかしているのに、これ以上わたしを混乱させるような真似をしないでほしい。
内心溜息をついていると、遠くから歌声が響いてくることにようやく気付いた。エルフの歌だ。
「ガンダルフを悼んでる」
そう静かに言ったのはレゴラスさんだ。
わたしが横になっていた場所から少し離れたところに立ち、その歌声に耳を傾けている。
「何て歌ってるんだ……?」
「辛くて言えない。悲しみが深すぎて」
メリーが訊くけれど、その内容は教えてくれないようだった。
……矢を向けられさえしたけれども、結果的にはアラゴルンさんの意図通り、夜になる前にエルフの森に入ることができて良かったのだろう。
最初こそ「この先は通せない」と、エルフ達もいい顔をしなかった。
それというのは、大いなる悪を持ち込んだからだという。
半分くらいエルフ語でなされた会話の中で、その部分だけはわたしにも聞き取れた。
遠巻きにエルフ達が見ているのがフロドであるらしいのが少ししてから分かって、なるほど、その「悪」というのが彼の持つ指輪であるらしいことが知れた。
わたしはボロミアさんの隣に座ったまま、黙って目の前にいたフロドの方を窺った。
エルフ語が話せないわたし達にできることは何もなく、ただレゴラスさんやアラゴルンさんが交渉しているのを聞きながら待つ他なかった。
「ガンダルフの死は無駄ではない」
そうボロミアさんが言ったのを受けて、俯いていたフロドが顔を上げた。
土埃に黒く汚れたその顔には、それでも、初めて会った時と同じように透明な青い目が光を湛えている。
憂いで翳っていても、それでも透き通るようなその色は淀んでいなかった。
「望みを捨てるな……おまえは重荷を背負っているのだ」
悲しみは忘れろ。
そうボロミアさんは静かに言った。
言葉というものが、どれ程フロドの心を癒してくれるかはわからない。
正直なところわたしの主は、言葉より行動で表す方が得意な方だと思う。フロドへの物言いだって、あまりにもストレートだった。
だけど、……そうする以外に彼に何ができただろう?
ボロミアさんはたった一人、フロドにそう声を掛けてくれた。
ふと気になって、わたしは辺りを見渡した。
どうにかエルフらの許しを得て森を渡り、この地を統治するというエルフの長殿とその奥方様にも迎え入れられた。
それからそう時間も経っていないと思う。ほんの一時、目を閉じてしまっただけで。
存外、すぐにその姿は見つかった。
大きな樹木がまるで何かの象徴であるかのようにそびえ立っていて、そのうねる木の根のひとつに腰を下ろしている。
ボロミアさんはこちらに背を向けたまま、独り静かにしていた。眠らないのだろうか。……眠れないのだろうか。
そう思ううちにゆっくり歩み寄っていくのはアラゴルンさんだ。
「休んだらどうだ」、と声を掛けるのが聞こえた。
「此処では落ち着けない」、と我が主は返したようだった。
ぽつりぽつりと、ボロミアさんが話し始めた。ゴンドールのこと、デネソール候のこと、あの都の白い塔のこと…………。
耳をすませば、何を語っているのかは充分聞き取れた。
灯された明かりが、並んだ二人の輪郭を白く輝かせている。
そうしてふと覗いたボロミアさんの横顔が確かに微笑みを湛えているのを見て、わたしは心底安堵した。
なあんだ、と思う。
アラゴルンさんとは、何の問題もなく友好関係を保っているようなのだ。
寧ろ、以前よりずっと親交を深めている様子だった。
安堵して、同時に、要らない心配をしたなあと思う。
せっかく仲良くなり掛けていたのに、あのモリアを抜けた直後のやり取りでもし、溝ができてしまっていたらどうしよう、と。
そんなふうに考えていたのが馬鹿みたいだった。
「」
一人安心しているところに、不意に名を呼ばれた。
見れば、レゴラスさんが何か言いたげにこちらを見下ろしている。
「はい?」
「……疲れただろう? 君ももう眠ったらどうだい」
「そういうレゴラスさんは」
「僕はあまり必要ない」
「……そうでしたね」
エルフにとって睡眠の意味は人と異なる。
いつだったか、朝の身支度の時に彼はそんなことを教えてくれた(なるほどだから、いつ目覚めても、彼より先に起きるということがなかったわけだ)。
けれど、あと少しボロミアさん達を見ていたかった。
だって、久しぶりに見たその人の微笑みがそこにあるのだから。
「……時間があるなら、ひとつ、訊いてもいいかい」
「何でしょう」
わたしは座り直しながら言う。
レゴラスさんにとって、時折わたしは関心の対象になり得るらしかった。
永く生きるエルフにも、中つ国以外の人間はそれなり興味深いものらしい。これまでも何度か尋ね事をされることがあった。
だから気軽に、何も考えずに返事をしていた。
けれど今日のそれは、あまりにも斜め上からの問いに他ならなかった。
「君にとって、死とはなんだい」
唐突な、哲学の講義みたいな問いかけだった。
思わずレゴラスさんを見返す形になったが、しかし当の本人は、至って真面目くさった顔をしている。
そうしてわたしが口を開くより前に、彼の方が続けていた。
「僕の方がずっと君より永く生きているけれど、エルフにとっては死の意味も人間とは異なるんだ」
「…………」
「ガンダルフが落ちた時、皆が嘆き悲しんでいた。でも、君はそのようには見えなかった気がする」
君の国にとって、死は、皆とはまた違う意味を持つのだろうか。
そんなことをレゴラスさんは訊ねてくる。
「いえ」、と咄嗟に首と手を振った。
「わたしの国でも皆と同じですよ。誰かが亡くなったら悲しいです。ただ」
ただ、自分でも感じてはいたのだけれど、ガンダルフさんが暗い底へと落ちた時、不思議なくらい全く悲しくはなかった。
そうしてそれは、きっと自分なりに衝撃的なことであり、一時的に何も感じてないようになっているだけなのだと思っていた。
きっと後から悲しくなる。……そう思っていたのに、どうしてだろう。
こうして未だに、一向に悲しくなる気配すらない自分がいる。
寧ろ、そのことの方がショックだったかもしれない。
確かに、ほんの幾らかの時間しか共に過ごしていなかった。
とはいえ、自分の帰り道を模索してくれ、どういう成り行きか、旅への同行も許してくれたのは他ならないガンダルフさんだった。
それなのにわたしは、その魔法使いさんに対して何も感じないような、恩知らずな人間だったのだろうか。
「……ただ、あそこで悲しんでいるくらいなら、先へ進めってガンダルフさんなら言うのかなって思って」
「そうか、そうだね」
微かに口角を持ち上げて、レゴラスさんは言った。
「君は強いね」
それは違う。
そういう訳ではないのだと心の中で思ったけれど、そうするに留めた。どう説明したものか分からない。
今のわたしの中には、説明のつかないものばかりが溢れている。
「無粋なことを訊ねてすまなかった、もう休むといい」
そう告げて、レゴラスさんは踵を返した。
明確な答えではなかったけれど、彼はそれでも納得しただろうか。
中つ国のエルフは、基本的には不死(例外はあるが)だというのを旅路の合間にレゴラスさんから聞いたことがある。
確かにガンダルフさんが落ちた時、彼もまた戸惑ったような様子だった。
あの時は深く考えるでもなかったけれど、それというのはつまり、「死とは何か」という点に根ざす反応だったのだろうか。
遠くから、エルフの歌声が未だ途切れることなく続いている。
それでも、彼らだって魔法使いを悼む心は持ち合わせている。
……ふと目を戻せば、ボロミアさんはまだ木の根に腰を下ろしたままだった。
いつの間にか、アラゴルンさんの姿は無い。もう寝床に戻ったのだろうか。
辺りを見回せば、ホビット達が少し離れた場所で既に寝息を立てていた。流石に疲れが出たのだろう。
なのに、今なおボロミアさんは寝入る様子もない。
……近くにいても、いいものだろうか。
なんとなくそっと近付いてみようと(それこそエルフみたいに、足音がしないように)試みるけれど、我が主の後ろ姿、その肩が小さく揺れた。
「気配を消す必要などないだろう」と徐に言われる。地味に、笑われたらしい。
「皆が眠ってしまったので、その……なんとなく、なんですけど」
ゆっくり振り返ったその顔は、離れたところから目にしたのと同じ微笑みが浮かんでいる。
ホッとする。
それなのに、どうしてだろう。
いつもこうして笑うボロミアさんを傍で見ていたのに。そしてたった今、この人のいつも通りの姿にホッとしたというのに。
――なのに何故、こんなにも不安なのだろう?
「……?」
呼び掛けるボロミアさんの顔が、急に曇っていた。
そんなつもりはなかったのに、わたしの表情こそ翳っていたらしい。
立ち上がった彼が手を伸ばした。すぐ目の前の距離まで来ていたので、わたしを座らせようとしてくれる。
それに従ってボロミアさんの隣に座したものの、急に自分の中に生じた不安をどうしても拭い去ることができない。
「どうした?」
「…………」
自分でも、分からない。
何故だろう。……答えが見つからないことばかりだからかもしれない。
どうして中つ国に渡ることになったのか。どうして急に自分の世界へ戻れるようになったのか。モリアで時間を飛び越えたのは何故か。
どうしてガンダルフさんを失ったのか。どうしてわたしは、彼の喪失を悲しめないのだろうか。死ぬというのは、一体何か。
どうして稀に、……本当にごく稀に、ボロミアさんがボロミアさんでないような錯覚を覚えるのだろうか。
そんなこと、あるはずがないのに。
ボロミアさんは優しい人なのに、それなのにわたしは、何を考えているのだろう。
夜の中で、灯された淡い明かりが白くぼんやりと辺りを照らしていた。
意識して、どうにか口の端っこを持ち上げた。
「……ボロミアさんが眠れなさそうにしているので、邪魔でなければお付き合いしようかと」
思って、と続けようとしたところで言葉が途切れた。
ほっぺたに大きな手のひらが触れている。
そうしているボロミアさんの目の、何て真っ直ぐなことだろう。
……お互いに今、思い悩んでいることを話し合えたらどんなにいいだろうと思う。
例えばさっき、この人がアラゴルンさんに打ち明けていたことを。わたしは、わたしが今抱えていることの全てを。
でも、たぶんそうする時ではないんだろうなと思う。少なくとも、今この瞬間は。
「無理をして笑うことはない」
不安ならば、私が傍にいよう。
そうボロミアさんは言ってくれる。
きっとこの人には、今日という一日にいろんなことがありすぎて、それでわたしが疲弊しているように映っているのだろう。
けれど、そうではないのを敢えて言うつもりもない。
確かに、不安で不安で仕方がない。
いつもなら言わないようなことだったけれど、言葉は、気付けば流れ出ていた。
「……ボロミアさんは、これからも近くにいてくれますか」
わたしは、ボロミアさんだけは失いたくない。
そう告げてから、どれだけの時間が流れたか分からない。短いのか長いのか、それさえも。
嘘でもいいから肯いてほしかったが、彼はそうはせず、ただそっとその顔が近付いていた。
いつもなら額に受けていた、彼の祝福。
それだと思い、目を閉じる。
熱を感じた先は、しかし額ではなかった。――時間が止まってほしい。そう思った。
その祝福を受ける間、わたしは確かに、心からの安息を得ていた。
……ボロミアさんも、そうだといいな。
その熱が口元から離れるまでの間、そんなことを思った。
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