ロスロリアンに入ってから、数日が過ぎた。
すぐには出立しない。そんなふうに言われている。
それというのは休息の意味合いもあるけれど、別にもう一つ、理由があるらしい。
森の外を、多数のオークが移動しているという。
敵に見つかる危険は避けた方がいい。そう判断したのはアラゴルンさんや、エルフの人達によるものだ。
オークが去るのを待ってからこの地を発つと、そう聞かされている。
静かな時間だった。
わたし自身、モリアを出て以来おかしな事態に遭遇してもいなかった。
時折自分の世界に戻ってもボロミアさんが一緒にやって来るでもなく、そして中つ国に戻ってきても、時間が前後するようなタイムリープをするでもない。
一時的に平穏を取り戻した、とでもいえるだろうか。
相変わらず、どういう基準で起きるのかは分からない。これについては、もはや放っておくことにした。
次に起きたら、それはその時だ。
そう思っているのだけれど、身構えていれば案外、何も起こらない。気まぐれなのだろう、天気と一緒で。
一日一日が、刻々と過ぎていった。
モリアで受けた皆の心身の疲労と傷も、少しずつ癒えていくのを感じる。
ホビットの皆に至っては、少なくとも表面上は、いつも通りの皆に戻ってみえた。
唯一、ガンダルフさんを失ったことが一番堪えていたように思えるフロドだけは、未だに覇気が戻っていない。
けれど、彼には周りに多くの友人たちがいる。
フロドならきっと大丈夫だと、そう思えた。だから彼について、わたしは何も心配はしていなかった。
寧ろ、心配事は全く別な方にあった。
冬とは言えど、不思議とそれほど寒さを感じない。
裂け谷でも、似た感覚を覚えたような記憶がある。
エルフの地というのは、やはり何かの力に守られているのだろうか。
散歩がてら、独りで当てなく歩きながらそんなことを思っていると、ふと前方に人影が見えた。
すぐにアラゴルンさんだと分かる。
向こうもこちらに気付き、近くまで行ってみれば「一人か」と訊ねられた。
「一人です。お散歩してましたので」
「あんたの主は一緒じゃないのか」
「えーと……わたしとボロミアさんは常にセットで行動してるわけではないので……」
「そうか」
ふっと、小さく彼は微笑んだ。
アラゴルンさんはというと、森の外を先程まで此処のエルフ達と共に見に行っていたという。
どの道から先へ進むのが最善か、いつがそのタイミングか。
話を聞くに、その辺りを計っている最中であるらしい。
近いうちにここを出発するのだろうかと考えていると、ふとわたしを見るアラゴルンさんの表情が変化しているのに気付く。
浮かんでいた微かな笑みは消え、ほとんど真顔に近いそれだ。
何とも思わなかった。わたしのイメージの中では、これが標準的なアラゴルンさんの通常営業である。
少なくとも、見た目の上では。
ほんの一刹那の沈黙のあと、「」、と改めて呼び掛けられた。
「はい?」
「ボロミアのことだが」
「何でしょう」
「……あんたから見て、いつもと変わりはないか?」
ええ、いつも通り。何も変わりありませんよ。
――そんなふうに言えたら、どんなにか良かっただろう。
風もない、穏やかな午後の一時だった。
わたしは正面から、アラゴルンさんを見返した。
冬のやわらかな陽の光、その下で見れば彼の目はいつもより淡い色味を帯びて見える。
灰色の虹彩は思っていたよりずっと柔らかな印象で、今この時になって、この人はこんな目をしていたんだと思い至った。
「それは」、
わたしは何も知らない振りをして、微笑んだ。続けた。
「単純に元気かどうかという意味で、いいんでしょうか?」
「…………」
すぐには、返事はなかった。
解っていた。問う前にあった僅かな躊躇い、今目の前にある沈黙。
アラゴルンさんもきっと、気付いている。
わたしはもう一度、その人を見た。
特別に親しくしているわけではない、多く言葉を交わしてきたのでもない。
けれどアラゴルンさんが、絶対的に信頼できる人物だというのは理解し始めていた。今の状況を打開し得る人物でもあると。
相談できるとしたら、彼しかいない。そう思った。
「……皆さんからは、いつも通りのボロミアさんに見えるかもしれないですね」
「実際は、そうではないと?」
「何とも言えません。ただ……」
この地に入ってからの主の事を思い起こす。
歩き通しだったり不寝番をしたりの旅路とは違い、身体を休めるには不自由などないはずだった。
けれど、ふと気付けば独り、震えていることがある。
黙って何かを考え込んでいることがある。
話し掛けても、気付いてもらえないことがある。
塞ぎ込むとまでは言わない、でも、独りでただただ、何かに耐えているように見えることがある。
常にそうだ、というわけではない。時折ふと、そんな瞬間がある。それだけだ。
それだけのはずなのに、……心がここではない何処かにあるみたいに感じられるのはどうしてだろう?
「ただ、何というのか……少し、不安定な印象なんです。ゴンドールに居た時のボロミアさんとは少し違うような」
「……そうか」
「アラゴルンさんは」、
言い掛けて、訊いてもいいものだろうか、と考える。迷ったのは、一瞬だけだった。
「今すぐでなくても、ゴンドールに還られるんですか?」
「……聞いていたのか」
「聞こえてました」
特に悪びれるでもなく、肯いた。
初めてこの地に入った日の夜、ボロミアさんとアラゴルンさんが交わしていた話のことだ。
他の皆はどうか知らないけれど、わたしの距離からはそれなりに聞き取れていた。
そしてそれは、特に聞かれたくない話というわけでもなかったはずだ。
「でも、全部聞いていたわけじゃありません。最後のところとか、聞こえなかったです」
「…………」
「ボロミアさんが 『 共に都に戻ろう 』 ってお話した後の、お返事の部分とか」
「…………」
沈黙が落ちた。
待ってみても、向こうが口を開く様子はない。
……どうしてだろう。
ボロミアさんがそう告げたというのは、彼を、アラゴルンさんを認めたということなのに。
どうにも最初の頃のボロミアさんはこの人とぎくしゃくして見えて、人間同士なのにどうしたんだろうと思っていた。
けれど、解ってみれば簡単なことだった。
アラゴルンさんが、……彼こそが、ゴンドールの王位を継ぐべき人物その人なのだという。
なるほど確かに、心の準備も何も無しに突然王の血筋だという人が現れたなら、戸惑って当然だっただろうと思う。
それでも、ようやくアラゴルンさんを未来の王と認めることができたのだろう。
だからあの夜、ボロミアさんはこの人に言ったのだ。共に都に戻ろうと。
それなのに、未だ沈黙は続いている。
それは拒否なのだろうか。それ以外の何かなのだろうか。
……もしかして、ボロミアさんの様子がおかしいのは、それに起因するものだろうか。
「……私の中に流れる血は」、
不意に、沈黙が破られた。
見れば、アラゴルンさんはわたしではなく足元の地面を見ている。
「弱さの象徴だ」
ごくごく短く、彼はそれだけを言う。
わたしは単純に、頭の中で疑問符を浮かべた。
それだけ告げられたところで、わたしにはよく分からない。
ただ、アラゴルンさんの様子から察するに、ゴンドールに向かうつもりはないのだろう。少なくとも、今のところは。
その理由は詳しくは分からない、でも、彼には彼の事情があるのだろう。
「……わたしは、どうすればいいでしょうか」
アラゴルンさんの方の事情は、わたしには恐らく手に負えないことだ。
だからわたしは、わたしにできることをしたい。
「どうすればボロミアさんの力になれるのか、分からないんです」
「彼の傍にいてやってくれ」
「…………」
「それは、にしかできないことだ」
「……分かりました」
言うと、アラゴルンさんは目を伏せ、そのまま目蓋を僅かな間閉ざした。
「ありがとう。……すまない」
低い声が、そんなふうに音を辿った。
この人も、何かはよく分からないけれど迷いを持っている。
漠然とわたしはそう思った。王位を継ぐ人とはいえ、彼もまた一人の人間だ。
けれど、決してボロミアさんのことを見放したりするような人でもないと思う。
アラゴルンさんが歩き去ったその場所で、わたしは一人頭上を見上げた。……他に、わたしにできることって何だろう?
エルフの森は変わらず静謐で、差す陽の光は穏やかさに満ちている。
数日後に、この地を発つ。
そうアラゴルンさんが告げたのは、夕餉の席でのことだった。
オークの動きを見ていて、出立に差し支えない頃合いだと判断したという。
身体の疲れも十分に癒えていたし、そういう意味では問題はないだろう。気掛かりの幾つかはそのままだったが。
寝床として個々に宛がわれていたのは、フレトと呼ばれるらしい木造りの空間だ。
気掛かりから目を背けるべく早々に眠る準備をしていれば、外から呼び掛ける声があった。
応じれば、そっとわたしの主が姿を見せる。
「すまない。もう眠るところだったか」
「いえ、大丈夫です」
向かい合う形で腰を下ろすボロミアさんに合わせて座り直す。
そんな振りをしながら、わたしは彼を窺った。顔色は決して悪くなく、挙動もごくいつも通りに思える。
ただ、表情だけが気に掛かった。何処となく神妙で、最近になって見掛ける事の多くなったそれなのだ。
「ゆっくり話をする時間があるのも、今だけだと思ってな」
「そうかもしれませんね」
そんな内心を押し隠して、さて、せめて他愛無いお話でこの人を和ませることくらいならできるだろうかと思い描く。
ボロミアさんのことばかりを考えていたわたしは、
「」
「はい?」
「……おまえは、もう自分の世界への帰り道を見つけているのではないか」
――わたしは、自分のことをてんで後回しにしていて、まるで考えていなかったことにはたと気が付いた。
ボロミアさんを見返せば、まるで大真面目にこちらを見るばかりだ。
……え、今?
正直、そう思う。
これまでずっと、敢えて訊ねないでくれていたのに。
それなのに今、このタイミングでそれを訊いちゃうんですか、ボロミアさん。
内心うわあと思いながらも同時に、自分が一行に加わったあの日、あの時のことを思い出す。
そりゃあ、何とも思わせぶりな台詞(中つ国を去りますとか、まだ確証もないとかそんなふうなこと)を言ったものだと我ながら思う。思うけれども。
しかし、今それを真正面からぶつけてくるとは。
「……えーと」
向こうは静かに待ってくれているので、とりあえず考える。
そもそも、否定が必要だろうか。
ああ、例えば「今すぐ帰れ」と言われるならば、否定したい。けれど、ボロミアさんの真意はそれだろうか。
「ゴンドールに戻ったらお話しますって、言いませんでしたっけ」
「……やはり、まだ話してはくれぬか」
「…………」
わたしは少し、沈黙した。
目線を落としたボロミアさんは、まるで自嘲するかのようなごくごく小さな笑みを浮かべている。
ふと、あれ、と思う。
彼が思いあぐねている事の一つというのは、もしかしてわたしのことなのだろうか。
自惚れているつもりはないが、その可能性はある。ボロミアさんとは、そういう人なのだ。
心優しい我が主は、最初の頃からずっとわたしを見守ってくれていた。
……だとしたら、事実を伝えることで、彼の不安を少しは払拭できるだろうか?
「もし、仮にそうだとしたら」、
わたしはゆっくり声の音を紡いだ。
「ボロミアさんは、わたしに今すぐ帰ってほしいのでしょうか」
言ってしまってから、心の中で身構える。
すぐに言葉が返ってくるかと思えば、しかしそうでもなかった。
ボロミアさんは何か考えるみたいに黙り込んだので、おや、と思う。
わたしが想定していた反応と少し違う。いやでも、ただ単にはっきり口にするのを躊躇っているだけかもしれない。
ややあって、ボロミアさんは口を開いた。
「……例えばだが、しばらくの間ニホンに帰り、戦が終わった後にここへ戻ってくる……というのは可能か?」
わたしはちょっと、ポカンとした。
言葉の意味を咀嚼する。……自由に行き来を日程調整できるか、ということだ。
その発想はなかった。
否、今までそうする必要がなかったので、考えていなかったのだ。
夢を通じて向こうとこちらを行き来しているので、ほぼ日且つ自動で行ったり来たりが現状である。
それを、自分の意志で一定の日数、向こうに戻ったままセーブするみたいなことができるものだろうか。
「うーん……どうでしょう。それはちょっと、試したことなかったです」
「そうか。……そうだろうな」
「まだあと何日かは、ここに留まるんですよね」、
わたしは腕組みしながら頭を捻った。
「できるかどうか、チャレンジしてみようかな……ああでも、もし戻ってこれなくなったらどうしよう!」
ダメだ、迂闊に挑戦するわけにはいかない。
試すのなら、せめてミナス・ティリスに戻ってからにするべきだろう。
ファラミアさん達に会って、今までの御礼を告げ、未練のない状態に持って行ってから。
ゴンドールに帰るのを目的に据えているのだから、今リスクを冒すのは得策ではない。
わたしはそう判断した。
「ミナス・ティリスに帰ってから、試してみようと思います。今はまだ、何とも言えないですが……」
「……ふっ」
「……?」
「ようやく、話してくれたな」
そう言ってこちらを見るボロミアさんには、嘗ての力強い笑みが浮かんでいた。
今までずっと見てきたはずのそれが、何故だか懐かしいと感じられる。
……こうした時間を得られるのなら、わたしにできることは何でもしようと、そう思える。
「ご、ごめんなさい。……言い出すタイミングを外したというか、何というか」
「全く、今日まで隠し通したこと、恐れ入ったぞ」
「それについては謝ります……。それと、あの、ボロミアさん」
「うん?」
「……さっき言い出されたこと。もし可能なら、そうしてほしいってことですよね」
でなければ、口にするはずがない。
主は顔を引き締めると、少し言い淀んだ。
「……正直なところを言えば、そうなる。今ゴンドールにおまえを連れ帰るのも、前までは心苦しく思っていた。だが……もし平和だというの国に戦の間だけでも戻れるのなら、安心できる」
「えっと」、
それというのは、と頭の中で考える。
「可能かどうかはまだ分かりませんけど……、もしそれができるとしたら、……またミナス・ティリスにお邪魔してもいいんでしょうか?」
「今更何を」
心外そうにボロミアさんは言う。
「私はおまえを失いたくない。暗い影から遠ざけておきたいだけだ」
「…………」
「……本当のところ、望みは少ない。これからゴンドールがどうなるのか未来は見えぬ」
「…………」
「だが、もしその未来に光が差したなら……、その時は、私と」
「ウボァーーー!!!」
わたしは思わず字面のおかしい悲鳴を上げてしまった。
何故って、どう考えても完全にフラグである。
その先を言えば、ボロミアさんが大変なことになる可能性が突如としてインフレを起こしてしまうではないか。
咄嗟のことである。
絶叫しつつ片手で主の口を塞ぐという暴挙に及んでしまい、ボロミアさんもそれなりに驚いた様子で目を瞬かせている。
それでもわたしは頭を振って必死になって言った。
「もう! ボロミアさん、フラグ立てちゃ駄目って裂け谷でも言ったじゃないですかー!!」
「……すまん」
掌の下で小さくそんな言葉が漏れた。
全く、と思いながらも手を退けようとして、けれどそれより先に、彼の手がわたしのそれをそっと剥がした。
「確か、未来のことを口にすれば叶わなくなる……のだったか」
「そうです、だから」
「ならば、言葉でなければいいのだな」
疑問符を浮かべる間もなかった。
彼の手中に収まったままの手の甲に、口付けを落とされる。
声も出ないまま思わず引っ込めようとしても、手首を掴まれ逃げられない。
それどころかそのまま引き寄せられて、気付けばボロミアさんの腕の中なのだ。
……考えてみれば、単純にずるい、と思う。
こちらはそうされれば何も言えないどころか、寧ろされるがままにしかならないのを、きっとこの人は知っている。
この時に、そんなことを思う余裕などはなかったけれど。
「……すまない。せめて今は、こうさせてくれ」
ぽつりと、真上から声が降ってくる。
謝ることなんて何もないのに。
冷静な時ならそう思っただろうけれど、実際には何も考えられない。
強張った身体、それでも持てるだけの力をどうにか総動員して、わたしはそっとその背に自らの腕を回した。
ボロミアさんが好きだった。
いつからかなんて、もう忘れてしまった。勿論今だってそうだし、きっとこの先もずっとそうなのだと思う。
許されるなら、近くにいたかった。けれど、それが叶うとしても道程は険しいのだろう。
だからせめて、今できることをしたい。
そんなことを思いながら、腕に力を込めた。
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