話し声が、続いていた。
わたしは腕時計に目を落とした。午前十時を過ぎたところだ。
ホビットに限らず、小腹が空き始める頃合いだろう。事実、わたし自身がそうだった。
目を向こうに戻せば、少し離れたところにフロドとサムがいる。
仲のいいホビット達の中でも、彼らがまた特別な間柄なのは知っていた。
サムはバギンズ家の庭師として仕えていて、フロドの友人であると同時に主人としても敬愛しているという。
ふと、そのサムが立ち上がった。
聞こえていた内容からすれば、お茶の準備をしようと席を立ったのらしい。
彼がその場を離れた後には、フロド一人が残されている。丁度いい。
タイミングを見計らって、わたしは彼に歩み寄った。

「フロド」
。……君一人かい」

暗に、ボロミアさんは一緒ではないのか、と気にしているようだった。
わたしは何も考えないようにして、ひとまず肯いた。

「うん。……それはそうと、なんだけど」
「何だい」
「お菓子、一緒に食べないかなって思って」

わたしは片手にぶら下げていたレジ袋を示してみせる。
彼はそれを、何とも不思議そうに眺めるばかりだ。
取り敢えず買ってきたチョコプレッツェルを並べ、彼に好きに選んでもらうことにした。

「えっと、ふつうのと、苺の粒々入りと、アーモンドの粒々入り、それから期間限定のと……どれがいい?」
「……それなら、苺をもらうよ」

言って、フロドは赤いパッケージを手に取った。
何処から開けるのかと矯めつ眇めつしているので、「ここを開けるんだよ」と教える。
中の封までをようやく切って中身を口に入れれば、プレッツェルがポキンと小気味よい音を立てた。
ゆっくりと咀嚼して、飲み下してから
「美味しい」と彼は微笑む。
その様子に、二つの安堵を覚える。

一つは、会ったばかりだった頃の彼の表情に戻っていたことだ。
このところずっと沈んだ様子だったフロドが、こうして笑えるくらいには元気を取り戻している。
それというのは、仲間の皆の、特にサムのおかげなのだろうなあ、と思う。
フロドなら周りに友人たちがいる、大丈夫だと、こころの何処かで思ってはいた。
けれど彼の旅路は、これからも先が長い。
せめて何かできることはないかと考えたけれど、せいぜい、これくらいしか思いつかなかった。
裂け谷でも、ホビットの中で唯一、彼だけがわたしのお菓子を食べていなかった。
だからせめて、今回は真っ先に好きな種類を選んでもらおうと思ったのだ。

……そして二つ目の安堵は、フロドがゆっくりとそれを味わってくれていることだ。
前回は(サムはともかく)、メリーとピピンにほとんど味わう云々どころでなく平らげられてしまった。
勿論、それはそれで美味しかったということなのだろうが。
そこへ行くと、フロドはとても上品に一本一本を楽しんでいる。わたしの方も、買ってきたかいがあるというものだ。
そう思っていると、ぽつりと、彼は呟くように言った。

「ホビット庄の里で、春先に食べる苺が懐かしいなあ」
「…………」

わたしは一瞬、何と言えばいいのか分からず、僅かに沈黙を作ってしまう。
けれど、きっとそれは郷愁であり、それに似たものを自分も確かに持っている。
……ミナス・ティリスは今、どうなっているだろう?
思うが、今はフロドが目の前にいる。
わたしは少し、訊ねてみた。

「ホビットの里は、果物では苺が名産なの?」
「そういうわけでもないかな。皆が家の庭に、好きな果物の苗を植えるんだ。市場では珍しいものも時々並ぶよ、それに……」

彼は、ホビット庄での暮らしの一部を教えてくれた。
それを聞きながら、わたしはフロドのことを考える。
最初の頃は礼儀正しく口調も丁寧だったが、今やわたしにも友人への話し方そのものだ。
ホビットは三十三歳で成人とみなされるらしく、彼はその歳を迎えて間もないという。
やはり人間の年齢でいうなら、わたしと同年代だろう。
そう思って見れば、目の前で話す彼は、ごくふつうに存在する年相応の青年の一人だった。
こういった旅をするよりは、家で静かに読書でもしているのが似合いそうだ。

……それだというのに。
わたしはこっそり疑問符を浮かべた。
何故彼が、アラゴルンさんのようなリーダー的存在とはまた別に、この旅の代表のような立場を担っているのだろう。
あの「指輪」を運んでいるのがフロドであり、鎖に通されペンダントみたいにした状態で、今も彼の首から下がっている。
何か特別な力を持つわけでもない、寧ろホビットという種族故に「小さい人」とさえ称される程なのに。
相槌を打ちながら思い巡らせていると、ふと、話題が途切れた。
フロドが、ジッとこちらに視線を寄越してくる。
それが何を意味しているのか分からず、「何?」と訊けば、やや躊躇った後に彼は口を開いた。

。……訊いてもいいかい」
「内容によるかな」

わたしは空気を軽くしたくてそう言ったのだが、あまり意味はなかった。
「ボロミアは……」、という、恐る恐るといった口調が音を辿ったのだ。
が。

「ああっ」

唐突に、悲鳴じみた声が響き渡っていた。
見れば、サムである。
途中で合流したのか、メリーとピピンの姿もある。彼らもまた、何処かぎょっとしたようにこちらを見ている。
お茶のポットとカップを乗せたトレイを両手で抱えていたサムが、それを脇にいたピピンに押し付けた。かと思えば、
「駄目です、その菓子を食べちゃいけません!」
などとフロドへ向かって大声を出している。
なんで?
と思ううちにも、ダッシュで彼はやって来る。
しかしフロドの手に封を切った赤いパッケージがあるのを見て、またしても「ああっ」と声を漏らした。
今度は悲壮感漂う、弱々しい声だった。
わたしとフロドはわけも分からずに顔を見合わせるけれど、「なんてこった」、とサムはへなへなとその場に座り込んだ。
怯えしか見て取れないような様相で、わたしに向かって言う。

「こ、今度はフロド様に菓子を食べさせておいて、無理難題を押し付けようとするなんてっ」
「…………、えーっと、あのね、サム」

わたしはようやく合点がいった。
そう言えば、裂け谷でホビットの皆(フロド除く)にお菓子を食べさせたのは、わたしの無茶なお願いを聞いてもらうためだった。
正直、そちらはすっかり忘れていた。
しかし彼らにとっては、それなりに大変な苦労だったはずだ。
……うん。
今更だけど、ごめん、謝ろう。
それにしても、サムのわたしに対する誤解がひどい。
怖々とこちらを見ながら歩み寄ってくるメリーとピピンも含め、わたしは改めて当時の一件を詫びつつ、今回は何の目論見もないことを説明しなければならなかった。
ようやく誤解が解け、他の皆にもプレッツェルを配り終えた頃には、フロドはただ静かに笑うだけだった。
……彼は、ボロミアさんの何を問いたかったのだろう。
そう思ってフロドを見る。
目が合った時、彼は、わたしが何を言いたいのか察していたと思う。
けれど曖昧に、もういいのだ、というように小さく笑んだまま彼は首を振った。



お菓子は、今回たくさん買い込んできている。
わたしの世界に戻ることができるのを、もうボロミアさんに隠さなくてもいいのだ。
そう思ったら、ロスロリアンに滞在している今、ゆっくりと皆で美味しいものでも食べたいと思えた。
一番に好きな種類を選んでもらおうと、フロドに最初に配り、何だかんだでホビット全員に行渡った。
全員分――ホビットの皆にも足りるように、やや多めに――準備してある。他の皆にも配り歩こうと思っていた。
ちょっとした、お礼とお詫びの意味合いも兼ねている。
旅の仲間にとって、わたしという存在が突然加わったことはそれなりに想定外だったはずだから。
……まあ、今更感は拭えないけれど。

のんびりと散策がてら歩いていれば、アラゴルンさんにレゴラスさんが二人揃っているのに出くわす。
レジ袋の中を開いて見せれば、どちらもまじまじと中を見ていて、少し面白かった。
「何処でこれを?」、そう単純な問いを発したのはアラゴルンさんだが、わたしはニヤニヤして
「内緒です」とだけ言っておく。
ネタばらししたって構わない。けれど、同時に思う。簡単にバラしてしまうのもつまらない。
突っ込まれるかと思っていたが、案外、アラゴルンさんは目を瞬いた程度で深くは追究してこなかった。
それはそうと、もしかして、甘いものは食べないだろうか。
そんな心配もあったけれど、物珍しそうに二人とも一箱ずつ選び、しげしげと見入っている。

「あのう、ボロミアさんとギムリさんは見てませんか? ホビットの皆には配ってあって、後はそのお二人なんです」
「ギムリなら、向こうにいるのを見たよ」

良ければ、案内しようか。
そう申し出たのは、意外にもレゴラスさんの方である。
見れば、その表情はやわらかく笑んだままなのだ。そのことに内心、少しばかり驚いてしまう。
以前の彼は、ドワーフであるギムリさんと何処となく距離があるというか、つんけんして見えたものだ。
それが、今はどうだろう。
何とも柔和な、優しげ且つキラキラした微笑みと共に、そんな言葉がレゴラスさんから飛び出したのだ。
……単純に機嫌がいいのだろうか?
アラゴルンさんとはそこで別れ、わたしはレゴラスさんに言われるまま、その後をついていく。

少し歩いた先、高い樹木が続いた後に、いくらか開けた場所がある。
木立が途切れ、草地だけが辺りに続いている。頭上には空が青く広がり、ぽっかりと浮かぶ雲があった。
そんな場所で、ギムリさんは一人ぼんやりと向こう側を眺めていた。
「ギムリさん」、と呼び掛けてもすぐには反応がなく、おや、と思う。
脇からそっと様子をみれば、妙にぼうっとしているのだ。
目は何処か定まっておらず、何というのか、心ここに在らず、という感じだ。……どうしたの、ギムリさん。
わたしはレゴラスさんを振り返った。

(何だか、おかしいですよ。ギムリさん)
(もう一回呼んでごらん)

目だけでそんなやり取りをする。
レゴラスさんがもう一回、というように人差し指を一本立ててみせるので肯いた。
ドワーフの方に向き直る。
「ギムリさん!」、と再度呼び掛ければようやく彼はこちらを見た。
今までわたし達のことにはてんで気付いていなかったらしい。
わたしがお菓子を渡したいのだと伝えれば、黙って彼はわたしの示したレジ袋、その中の一つを無造作に取り上げ、ほとんど力任せにパッケージをこじ開けるとそのまま中身を一気に全て口の中に押し込んだ。
ぎょっとした。
一気食いである。
しかも、よりによって一番高い、期間限定のやつ。
味わうどころの話ではない。寧ろ自棄食いにも近い食べ方に、わたしは内心頭を抱えた。

「……あんたは優しいな、
「…………、はい?」

しかし、ギムリさんが突然そんなことを言い出したので、わたしはやや素っ頓狂な声を出してしまった。
隣で小さく、レゴラスさんがふっと息をつくような、笑ったような気配がする。
ギムリさんが続けていた。

「こうやって俺を慰めてくれる。……あんたは優しいなと言ったんだ」
「……ど、どうしたんですかっ」

状態異常か、混乱か。
ゲームなら万能薬で治せるものも、現実ではそうはいかない。いやしかし、混乱ならば、殴れば治るだろうか?
わたしはギムリさんという人物についてを振り返る。
いい意味でも悪い意味でも、ドワーフ・オブ・ドワーフな人である。
頑強であり頑固であり、やや感情の起伏が激しい印象もある。けれど、仲間への想いの熱さは相当のものだ。
その証拠に、道中でも身内の話題になれば、よく褒め称える言葉を口にしていた。しかし、それはドワーフの身内に対するものだ。
それが今、わたしに優しいなどと言ってのけた。
どう考えてもいつもと違う様子の彼に、わたしはやや狼狽して思わず訊ねた。

「何か落ち込むようなことでも」
「ああ、そうとも。とても辛い出来事がこれから待ち受けている。あと何日かであの美しい森の奥方ガラドリエル様と別れ、離れなければならない。こんなこと、考えられるか? それを思うだけで今にも胸が張り裂けそうだ!」
「…………」

お、おう。
わたしは思わず口の中で呟いた。
何を言ってるのかよく解らなかったが、よくよく聞けば、彼はこの地ロスロリアンの奥方様の美しさにすっかり魅せられてしまったらしい。
口から続く言葉はそのエルフの奥方を讃えるものばかりで、完全に虜、といった感じだ。
森に入る前は、「妖術には引っかからない」とか言ってなかったっけ。
わたしは思うが、まあ、いいかとも思う。
ツンツンするより、好意的な態度の方がいいに決まっている。
少なくとも、ギムリさんはエルフに対しての距離が縮まったと思っていいのだろう。

そう思い至り、ふと、傍らのレゴラスさんを見る。
彼もこちらを見て、その口の端っこを持ち上げた。
レゴラスさんもドワーフの方を見ていたのだろう、その目が再びギムリさんに向き、やれやれとでも言いたげな面持ちで苦笑している。
そこには決して以前までの冷ややかさは無く、それこそ友人を思いやりながらも見守ろうとしている表情だけがある。

わたしは彼らを見やった。
そして、なあんだ、と思った。
反発し合っていたエルフとドワーフ、その二人だって、いつの間にかちゃんと仲良くなっている。
やればできるじゃん、とでも言いたいような気持ちだった。
そうしてふと思う、彼らはいつからそうなっていたのだろう。つい最近か、それとも、もっと以前からなのだろうか?
……どうでも良かった。
今、彼らが仲良くしているのであれば、それで。



レゴラスさんは、ギムリさんの傍についていてあげたいという。
彼らをその場に残して、わたしは再び一人になった。
……ボロミアさんが最後になってしまった。
わたしはレジ袋の中を見た。多めに買ってはきたものの、結局残るは二箱である。ボロミアさんとわたしとの分でギリギリセーフだ。
ふつうのと、アーモンドの粒々入り。
どちらを彼は選ぶだろうか。いや、半分ずつ分けっこすればいいのか、と平和なことを思う。
――そんなんだったので、

「!」

ひとつの木の陰、そこからヌッとその人の腕がこちらに伸びているのにまるで気付かなかった。
思わず息を呑んでしまい、持っているものを取り落とす。
レジ袋が乾いた音を立てて地面に落ちた。
……すぐ間近に、ボロミアさんの顔がある。
わたしは目を瞬いた。
どういう状況かを数秒掛けて悟り、目の前の悪戯っぽい笑みについ、
「もう!」とその胸を軽く叩いてしまった。

「吃驚させないでくださいよ、ボロミアさん」

言っても、向こうは小さく笑い声を上げるばかりだ。
その声が漏れ出ていた口はやがて引き結ばれ、すぐに真面目な表情になる。
頭上の太陽が、木々の間を縫って光を落としている。風が微かに木の葉を揺らし、それに乗じて辺りに落ちる陽の光も揺らめいていた。
その中にいて、わたしは目の前の人を見上げている。
ボロミアさんもわたしを見ていた。……沈黙は、短かった。
高くそびえる木々のひとつ、その木陰に隠れながらわたし達は唇を重ねた。
まだ、慣れない。
そして未だ、信じられない。
本当に、わたしでいいのだろうか。
わたしに、どれだけこの人を支えることができるだろうか。
いろんなことが自分の中にある。けれど焼けつくような頭では、それ以上何も考えられない。
ただ、……こうしている間だけでいい。
何もかも忘れて、ボロミアさんの体温だけを感じていたい。わたしはそう思った。






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