薄氷を踏むような思いの日々だった。
エルフの森は守られており、仲間たちが休息を得るには申し分ないと言えただろう。
事実、小さい人たちは――ガンダルフを失ったあの直後は皆、憔悴しきって見えたものだ――日を経るにつれ力を取り戻していた。
心の中では、喪失感を拭えないでいることだろう。しかしそれも、いずれ時間が解決してくれるかもしれぬ。
既に失われたものは、もう戻らない。
しかし……今はまだかろうじて失われてはいないが、闇に抗する力を持たぬ者達はどうすればいいのだ。
頭の中を、秩序のない思いが支配している。
この旅の中で過ごしてきた時間は幾ばくかのものであり、人となりを見るのに十分とは言えなかったかもしれない。
しかし、彼なら。彼が共に、ゴンドールへと還ってきてくれるならば。
そう自分の中で思える程には、アラゴルンを信じることができた。
そのはずだった。
だからあの晩、共に都に還ろうと口にしたのだ。……それなのに、肝心の向こうから明確な答えは得られなかった。
何故だ? 私は、希望に辿り着いたのではなかったのか?
長い間空いたままだった玉座。そこに在るべき存在を、遂に見つけたのではなかったのか?
薄い刃の上を渡るような旅。
そう告げる森の奥方の声が、未だに耳から離れない。
それというのは実際そのとおりであり、特定の者を指す意図はなかったかもしれない。
しかし私には、それが自分のことを言っているように思えてならなかった。
足を踏み外せば、一瞬にして奈落の底に落ちるのだ。なんと恐ろしい言葉であろうか。恐ろしい破滅の予感。
焦りばかりが募っていたが、今は、この森を発つその時を待つより術はなかった。
心が落ち着かないでいることを、私は自分なりに自覚していた。
凍える冬のような温度、それが私の内側を満たしていた。
希望は再び影を落とし、明けない夜のように、世界は仄暗い色に包まれて見えた。
「……ボロミアさん?」
ふと、その声に私は思考を中断した。
見れば、は私を覗き込んでいる。
「考え事ですか?」、手にした菓子の小さな箱を開けかけた格好のまま、彼女はそう訊ねた。
「ああ……いや、何でもない。何でもないんだ」
「…………」
彼女はそれ以上何も訊かず、何も言わず、ただ微笑むと改めて菓子の封を切る。
冷えた温度が心を満たすその一方で、突然春が訪れたかのように幸福な気持ちになることも度々あった。
それというのは、黒髪の娘のことに他ならない。
がようやく、自分のことを話してくれたのだ(もっとも、私の方から意を決して訊ねたのだが)。
聞けば、随分と前に元いた世界への帰り道を見つけていたという。
しかし言い出すきっかけが掴めず、今まで口を噤んでいたという。全く、大した娘だと改めて思う。
だが、よくよく聞けばそうしたくなる気持ちも解らないではなかった。
何しろ――夢を通じて中つ国と彼女の世界を行き来しているなど、俄かには信じがたいことだった。
しかし、
「どうぞ。えっと、こっちがふつうので、こっちがアーモンドの粒々入りです」
受け取った菓子は小さな包みに入ったもので、が今朝方向こうで買ってきたものだという。
細長の外観をしげしげと眺めてから、が口に入れるのを真似て少しずつ噛んでみる。
甘く香ばしい美味は、初めて口にするものだ。
現実は、あっさりと目の前にあった。
だが、良い。
それというのは私自身、この旅中で微かに感じ始めていたことだった。
その事実を受け入れる心構えができていた、とでも言えるかもしれない。だから、それについては良いのだ。
けれど、彼女が告げるその話には続きがあった。
世界を飛び越えた。それだけに飽き足らず、時間さえも二度ほど飛び越えたのだと、彼女は言う。
その意味が私にはよく判らず、時間を掛けて話を聞いた。
それというのは思いもしない内容だった。だが言われてみれば、モリアの暗がりの中、明らかに動揺したの姿を見た覚えがある。
どうしたのかと思っていたが、彼女自身、説明のしようがなかったらしい。
こちらの方はもはや、私の理解の及ばないところにあった。
しかし、これについてはもまだよく判らないのだという。ここ最近は、そのような現象も起きてはいないのだとも。
……ならば、後者のことはひとまず置いておくことにする。それにしても。
今更のように、果たして一体どんな魔法なのだと問いたくもなる。
中つ国の中と外(とでも言えばいいのだろうか?)を往来するというだけでも、常軌を逸しているように思う。
でも、一度だけボロミアさんも来ちゃったこと、あるでしょう。
あの時はわたし、夢だって誤魔化しましたけど。
そう言うの言葉に、あれはやはり夢ではなかったのかと納得する。
カラズラスを下山し、疲れ切った中で得た微睡み。その中で見た奇妙な夢。
……自分が普段みる夢とは大分かけ離れたものだったが、どうりでそんな内容だったわけだ。
思うが、同時に私は自分自身、別の世界に一度渡ったということになる。
理屈はまるで解せないが、経験した以上は信じられないなどと言うつもりはない。そうする必要もない。
が話してくれたその内容を、私は少しずつ反芻していく。
そうして、私は私なりに事を理解した。
落ち着いて考えてみれば、彼女の帰り道を見つけるという目的は果たされたことになる。それも――ただ眠って起きればいいだけの話ではないか。
どれだけ遠い国であっても、すぐに向こうにも、中つ国にも行き渡ることができる。
それは朗報といえるものでもあった。彼女を、を手放さずに済むということなのだから。
そう考えている自分にふと気が付き、自嘲する。
随分と身勝手なことを考えるものだ。国へ帰してやると、あれだけ彼女に言っておきながら。
思うが、もはやと離れることなど考えられなかった。
変われば、変わるものだ。
つくづく、そう思う。自分が誰かを想うことがあろうとは、以前までなら想像もしていなかった。
いつの間に自分は、黒髪の娘にこのような感情を抱くようになったのだろう。
少なくとも初めて会った時ではなかったし、それは、向こうもおそらくそうだっただろう。
自分はそういった話には縁遠く、漠然とだが妻を娶るようなことはないだろうと思っていた。
しかし――気付けば彼女はここにいた。
そっと胸を押さえる。のことを考えれば、草木や花が芽吹く春が訪れたかのようなあたたかな気持ちになるのを感じる。
想いはまだ、直接言葉にしてはいなかった。できれば、ミナス・ティリスで伝えたい。そう思ったのだ。
けれど、互いが同じ気持ちであることを肌で感じる。彼女は私を受け入れてくれる。
幸福の絶頂にいるかのような気分も、しかし長く続くわけではない。
希望という光が消えかけている今、ゴンドールの未来に何一つ思いを描くことができない。
は自分の国に――或いは、中つ国に留まるならば再び裂け谷に――身を置くことで、危険は回避できるだろう。
だが、ゴンドールに、……この世界に光が差す未来を、どうすればこの手に掴むことができるのかが判らないのだ。
私の心は冬と春とを彷徨い、思い悩んでいた。
力が必要だった。
強大な力が必要だ。それが無くては、守りたいものも守り切れぬ。そしてそれは、手の届くところにあるではないか。
何度となくそれを使うことを考えては、周囲の声に阻まれやむなく断念してきた。
しかしそれが、どうだろう。
私を止めようとする声を掛ける者たちは、私に力を貸してくれたか?
自分がどれほど国の窮状を叫んだところで、その手を差し伸べてはくれなかったではないか。
ならば、こちらもそれなりの行動を取らざるを得ない。耳を貸さなかったのはそちらも同じだ。
そこまでを思うが、それを行動に移す最後の決断だけはできずにいた。何かが自分の中で抵抗していた。
それが何なのか、正体を見極めることが何故かできない。
そして何より、心の何処かではまだ、アラゴルンを信じてもいた。
頭の中が混沌とする。自分の為すべきことにもやがかかって見え、その先を見通すことが叶わない。それは――。
「ボロミアさん」
肩を叩かれ、ふと我に返った。
がこちらを見やっている。
その顔にはいつもと同じ微笑みがあるというのに、何処かこちらを心配するような気配があった。
「完全に上の空でしたね」
「……そうか?」
「だって、三回呼び掛けても反応がありませんでしたから」
もしかして、夜眠れていないんじゃないですか。
彼女はそんなことを言う。
傍目には自分が眠たげにしているように映っているのだろうか、単に深い意味なく問うているのだろうか。
……或いは、なりに私の様子を探っているのだろうか。
思うが、意識がここになかったも同然なのは確かだった。
そんなことはない。そう言おうとして、よくよく見ればの方こそがいつもより、目元が微かにとろんとしていることに気付く。
「私は大丈夫だが……はどうなんだ」
「わたし、ですか」
「眠そうに見えるぞ?」
「……ええ。最近、寝付けなくって」
大いに寝不足ですとも。
口調は彼女らしかったが、その返答に私は心を曇らせる。
ももしや、この中つ国の行く末を憂いているのか。
一瞬そんな想像がよぎったが、当の本人はと言えば、口ごもりながらもこう続ける。
「ボロミアさんと……その、したこととか、寝る前にいろいろ思い出しちゃって」
それで寝付けないと言うか、何というか。
その言葉にぽかんとする。
見れば、いつの間にか彼女は赤くなってそっぽを向いている。
ようやくその意味を理解して、思わずふき出しそうになった。
堪えきれずに笑いを漏らせば、は赤い顔のままこちらを睨んだがそれ以上何かを言うわけでもなく、手元に残っていた菓子を無言で自分のその口に入れようとした。
「まだ口付けしかしていないだろう」
……問答無用で菓子がこちらの口に押し込まれた。
咀嚼し終えてもはふくれっ面をしていたが、その身を引き寄せて艶やかな黒髪を撫でれば、ただ黙ってされるがままになっている。
愛らしいと笑えば、またこちらを睨むのだろうか。
私は心の中でふっと笑むのに留めた。
思えば、額に恩寵を授けただけで跳び上がっていたくらいなのだ。その頃に比べれば……いや、やはり、あの頃とそう変わらないのかもしれない。
「なら、今日も眠れないかもしれぬな」
「そうです」
ね、という最後の音は不明瞭だった。
つい少し前に――そう、長い思惑に耽る前に――合わせた唇を再び重ねれば、やはりまだ慣れないらしく一瞬その肩が震えた。
けれど、彼女は私を拒絶することなく応えてくれる。
互いの想いを重ね、その重みを確かめ合う行為。それがこれほど満ち足りた気持ちになるものだとは知らなかった。
少しでもその時間を引き伸ばしたくてしばし溶け合えば、が微かに苦しそうな息を漏らした。
手の平で胸を軽く叩かれ、いよいよ苦しいのだろうと唇を離せば、向こうは下を向き大きく息を吐く。
吸っては吐くを何度か繰り返すのを見守る。声を掛けても大丈夫かというところまで戻るのに、それなりの時間が必要だった。
「……息を止める必要などないだろうに」
「そ、そう言われましても……」
どうすればいいのだ、と言わんばかりにはこちらを困った顔で見返してくる。
身体が強張り、無意識にそうなってしまうらしい。
これ以上を求めるのは酷だろう。
そう思うが、どうしても目の前の娘を手放すことができない。
そっと腕を広げてみせれば、躊躇うかのように幾らかの間固まってしまうが、それでもは自身をこちらに預けてくる。
腕の中で息づくこの身体の重みと体温があれば、私は自分を保ち続けることができる。
そう思いながら彼女の髪を再び撫ぜた。
出立の日がやって来た。
暦の上ではまだ冬なのに、雪を見ることなど皆無だった。
朝のうちは吐く息こそ白かったけれど、わたしからすれば驚くほど暖かい。
その上、ガラズリムと呼ばれるらしいこの地のエルフ達からマントを授かってもいた。
重みを感じないくらいに軽く、羽織ればほとんど気温を気にしないで済むような代物らしい。
わたしはマントの襟元、そこに留められた葉っぱの形のブローチを見下ろした。
つい先程、皆に与えられた贈り物だった。
マントとブローチは全員に、そして個別に――例えばレゴラスさんには弓、メリーやピピンには短剣といったように――何かが与えられていた。
既に用意されていた品々を受け取る人もいれば、何を所望するかと問われる人もいた。
自分はといえば、後者である。何が必要なのか判らなかったのかもしれない。
そしてわたしには、何も必要なかった。
武器は、ファラミアさんの短剣がある。身に纏うマントがあり、そして何よりボロミアさんがいる。他に、何がいるだろう。
慎重に言葉を選んで「何も要らない」ことを伝えれば、森の奥方は静かに微笑んだ。
出発には、ボートを使うのだという。
三艘が川べりに繋ぎ止められており、三つのグループに分かれて乗るらしい。
フレトから荷物を持ち出してくる。
ボートの元に戻れば、皆がそれぞれに荷を積み始めていた。
ボロミアさんの姿を見つけて近付いていくと、そのすぐ傍で、レゴラスさんが何かをホビット達に説いている。
「どうしたんですか」と訊ねてみると、何かを言い掛けたピピンがしゃっくりするみたいに喉の奥のものを呑み込んだ。
「レンバスについて教えてもらってたのさ」とメリーが先に受け答えし、それをレゴラスさんが引き継いだ。
「エルフの携帯食だよ。一口齧れば大人一人が腹いっぱいになれる」
どこの仙豆だ。
内心そう思わないでもなかったけれど、なるほど、エルフの回復アイテムらしい。
見せてもらった包み、パンと菓子の中間みたいなそれをほんの一欠けらもらって試しに口に入れてみる。
あ、美味しい!
そう思った瞬間には確かにお腹いっぱいになっていて、わたしは吃驚した。
吃驚している間にも、ピピンがまた喉の奥のものを呑み込むみたいな仕草をしている。
何口齧ったのか問うメリーと、四口と答えるピピンの応酬を聞き流しながらわたしは思った。
これ、一年前に欲しかったなあ。卒論で詰めていた時にこれがあったら、どれだけ助かったことだろう。
そんなどうでもいいことを一瞬考え、ふと思う。
……いつの間にか、随分と遠いところまで来てしまったような気がする。一年前、わたしはただの大学生に過ぎなかった。
それが今は、どうだろう。
別の世界を渡り、驚くほどたくさんの経験をしてきた。
きっとわたしの世界にいたなら、知らないままでいただろうということばかりが中つ国にはある。
いつまでこうして行ったり来たりができるのかは判然としない。でも、……できるだけの間、ボロミアさんの傍にいたい。
わたしは彼を振り返った。
ボートに積み込むものをひとつひとつ運んでいる。その手伝いに加われば一度目が合った。互いに、ちらりと笑んだ。
内心、この人への違和感――アラゴルンさんに話したような、それ――は大きくなるばかりで、どうしても拭い去ることができていなかった。
ただ、その正体というのは薄らとながら輪郭が見え始めている。焦りと苛立ち。そう一言で済ませるとあまりに平たく簡単かもしれないが、物事はきっともっと複雑だ。
そしてその原初はと言えば、ゴンドールの人達を守りたいという、彼の純粋な気持ちから来るものだろうと思えた。
優しいボロミアさんが大好きだった。いつも真っ直ぐで、勇ましく誇り高いゴンドールの勇者。
はっきりと言葉にされたわけではないけれど、それとその、自惚れるつもりもないのだけれど、……きっとボロミアさんも同じ気持ちでいてくれている、と思う。
そうでなければ誠実な我が主のこと、ああいうことはしないだろう。
わたしにできることなら応えたいし、支えられたらと切に思う。だから、……今はとにかく、前へ進もう。そう思った。
大丈夫だ。こんなにたくさん、助けてくれる人達がいる。だからきっと、大丈夫。
わたしは周りを見回した。
積み荷はそれほど多くはない。他のボートも積み込みが終わり、出発が近付いているのが分かった。
ボロミアさんもこちらを見た。微かに笑んでその手を差し出し、もう乗り込むようにと促してくれる。
一歩を踏み出そうとした、その時だった。
「…………」
「……? どうした?」
わたしの主は表情も変えず、ただそう訊ねる。
けれどわたしはといえば、おそらく真顔だっただろう。
他のことに気を配ることなどできず、ただ自分のことを解するのに全てを費やしていた。
身体が、動かない。
物理的に足の裏が地面にくっついてしまったみたいだとか、そういうのではなかった。
身体そのものにはきっと異常はない、それは断言できる。
ならば何か、と言われると困る。
ただ、わたしの中の何かが全力を以ってこのロスロリアンから出ることを拒絶しているような――そんな感覚だった。
突然の感覚に、わたしは戸惑った。
どうして急に、こんなことになるんだろう。さっきまで、わたしはいつものわたしだったではないか。
この頃には、ボロミアさん、それに一緒のボートに同伴するメリーにピピンまでもが、わたしの異変に気付いていた。
それなりに鬼気迫る表情にでもなっていたのかもしれない。
「どうしたんだい、」、それでもまだ、メリーはいつもの彼の調子でさりげなく言った。
「まるで足に根っこでも生えたみたいじゃないか」
「…………」
けれど、わたしはいつもみたいな応酬をすることができない。
今だって、足を踏み出そうと地味ながら懸命にもがいているのだ。なのに、相変わらず身体が前に行かない、動かせない。
わたしは自分自身を訝った。何故ここから出てはいけないだなんて、そんなような気がしてならないのだろう?
「?」
「……ボロミアさん」
流石にただならないものを感じたらしいその人が、真面目な顔つきになっていた。
もう一度こちらを呼ぶので、意を決して、わたしは口を開いた。
ボロミアさんには、今わたしが知り得る限りの全てをもう話してある。今更何を隠す必要があるだろう。
正直に、今の自分の状況を端的に告げた。
「身体が、動かないんです」
「動かない? 何故だ」
「……この先に進んだらいけないような気がする、とでも言いましょうか……」
わたしが口ごもると、その人は瞬いた。
今自分は、ボロミアさんをさぞ困惑させているのだろう。そう思うと(泣きはしないが)泣きたくなる。
この人を困らせるような真似はしたくないのだ。なのに、わたしは一体何をしているのだろう。
「僕が引っ張ってあげるよ」
「! わあっ!!」
変わらず棒立ちになっているわたしの手を、ピピンが引こうとする。
わたしは慌てて飛び退った。後ろに退く分には身体も動くらしい。
目をパチクリさせているピピンを両手で制し、自分でも何を言っているのかということを捲し立てていた。
「ま、待ってピピン、わたしが乗ったらボートが爆発でもするのかもしれない! だから駄目!」
「爆発」
唖然としながら単語を繰り返し、本当にどうしてしまったのかという目でピピンがこちらを見る。
わたしは本当に、困ってしまっていた。今自分を襲っているこの感覚の正体が掴めない。
何故、ここから出てはいけないと思うのだろう。本当についさっき、前に進もうと思ったばかりではないか。
……ふと気付けば、ボロミアさんがわたしを正面から見守ってくれていた。
その手がもう一度こちらに差し出される。
わたしはさっき飛び退った分の一歩を踏み出す。そこまではできた。
その腕がこちらを引き寄せ、ほとんど引っ張られる形になった。
勢いあまって腕の中に倒れ込んだのに、不安定なはずのボートの上だというのに、ボロミアさんはビクともせずわたしを受け止めてくれた。
「どうだ。何も起きない。――大丈夫だろう?」
目の前でその人は、そう言って笑ってみせた。
出発を前にゴネてしまった自分を、決して叱るでも注意するでもない。ただ安心させるように、静かにわたしを見て微笑んだ。
ボートが揺れ、視界もそれに従い揺らめいている。
「お熱いねえ」、というメリーの呟きも耳に入らなかった。
ボロミアさんの腕の中といういつもならば前後不覚に陥りそうな状況の中、しかしそれにも拘わらず、自分の中に膨れ上がった感覚は居座り続けている。
ひどく重要な何かを、忘れている。
わたしはふと、そう思った。けれどそれが何なのかが判らない。
やがてボートが岸から離れ、ロスロリアンを発った後もなお、わたしはそれが何なのかを考え続けていた。
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