ロスロリアンから離れるにつれ、わたしはますます混乱していた。
何かを忘れている。とても大事な、重要な何かを。
そう唐突に感じた違和感は、消えるどころか膨れ上がる一方だった。なのに、一体何を忘れているのか判然としない。
ひどくモヤモヤする感覚だけが、自分の中にあった。
忘れているのは判るのに、どうしてもそれが思い出せない。すっきりせず、とてつもなく気持ちが悪い。
けれど思案の末、これはとりあえず放っておくことにする。
どうにかしたくても、思い出せない以上はどうしようもないからだった。そして、それより何より。
「随分遠くまで来たなあ」
「そうだねえ」
「…………」
メリーとピピンが眼前でそんなことを呟くのを、黙って聞いていた。
わたしは周囲をそっと見やった。
川の水の流れは穏やかに見えたけれど、彼らの言う通り、もうボートはかなりの距離を移動していると思う。
そのことが、わたしを心からゾッとさせた。
このまま進んではいけない。そんな警告が自分の中から発せられているように思えてならなかった。
どうしてそう感じるんだろう?
思うけれど、これもまた考えたところで答えが出るはずもない。
ただ、このまま行けば取り返しのつかない何かが起こってしまう――それだけは何故か、はっきりと判るのだ。
かと言って、わたしのそんな予感だけで皆を足止めするわけにもいかなかった。
その辺りのことも、わたしは十分理解していた。
自分でもどうしてそう感じるのか分からないのに、皆に説明できるわけがない。
だからこそ、どうしていいのか見当がつかずに途方に暮れた。
どうしよう。
……わたしが何か行動することで、それというのは覆せるものだろうか?
「風が出てきたな。追い風になればいいけど」
「そう強い風でもないさ、気にしなくてもいいんじゃないかな」
「…………」
ボートは互いに幾らかの距離を取りながら、三艘とも滞りなく進んでいる。
わたしは黙したまま、すぐ背後にいるボロミアさんのことを思った。
櫂を使って水を漕いでいるボロミアさんは、その気配だけなら何らいつも通りだ。
わたしだっていつもだったら(こんなことならボート部に入っておくんだった)とでも思うところだけれど、正直それどころではない。
詰みかかっている。
わたしはふと、そう思った。
この状況をどう言えばいいのか判らない。
ただ、今までわたしはその時々において、この中つ国をゲームの世界に例えることがあった。
それに倣って言うなら、――ゲームオーバーに差し掛かっている。
自分が、その分岐点周辺にいる気がしてならなかった。いや、分岐点をいつの間にか通り過ぎて、ほとんど袋小路に入っている。
背筋が凍るような思いだった。
だとすれば、何処で方向を間違ったのだろう?
やはり、ロスロリアンを出てはいけなかったのだろうか。わたしだけ、あの森に残ればよかったのだろうか。
否、それも違うような気がする。
何にせよ、今更言っても仕方がないことだった。しかしそうなら、……これから一体、どうすればいいんだろう。
どうしたらこのひどく嫌な予感のする行く末を、わたしは回避できるんだろう?
「……」
「…………、うん?」
目の前に座り前方を見ていたメリーがふと、こちらを振り返った。
「なに?」
「いや……大丈夫かい」
メリーが小声で、それだけぽつりと訊ねてくる。
隣にいたピピンがそんな彼に目をやり、次いでこちらを見やってきた。
わたしは少なくともボートに乗り込んでしまってからは表面上の平静は保っていたし、今だって内心の混乱を押し隠していた。
彼がそう訊ねてきたのは、あくまでその直前、乗り込む前のわたしの様子を目にしていたから、こちらを気遣ってくれたのだろう。
「うん」、小さく短く、そう返事をする。
メリーとピピンが二人揃って同じ表情をしていた。ほんの微かな、心配といたわりの入り混じったそれ。
わたしは意識して口の端っこを持ち上げてみせた。
「大丈夫。……ありがとね」
言葉少なながらそう返せば、どちらもごくごく小さく微笑んだ。
彼らとは短い付き合いだけれど、そして揃ってややお調子者的なところもあるけれど、こうして何かあれば気に掛けてくれる。
わたしは少し目を細めた。
彼らのことも好きだった。メリーとピピンだけじゃない、フロドやサムもそうだし、アラゴルンさんやレゴラスさん、それにギムリさん。ガンダルフさんのことだって、ずっと前から好きだった。――ずっと前から?
ふと、自分が思ったことを訝しんだ。
たった今「短い付き合い」だと思ったばかりなのに、「ずっと前から」だなんて矛盾している。
さん、あなた疲れてるのよ。
わたしはとりあえず、自分にそう言い聞かせるのに留める。深くは追究しなかった。
二人が一応は納得したかのように、顔を前方に戻していた。
後ろのボロミアさんは何を言うでもない。
水を漕ぐのに集中して聞き流していたのか、或いは、それなりに今のわたし達のやり取りを見守ってくれていたのか。……判らない。
ただ。わたしは思った。
――この人には何も言うまい。ボロミアさんは今、とても不安定だ。
少なくとも、わたしが今抱えているこの不安を受け止めてもらうのは、彼にとって負担が大きいのに違いない。
(大丈夫。……大丈夫)
わたしは自分にそう繰り返した。
何か明確な危険が迫っているわけでもない。まるで時間がないわけでもないはずだ。
自分で、どうにかこの漠然とした不安の正体を探るしかない。
今までだって、わたしは最善の行動を取ってきたつもりだった。これからも、そうすればいい。
無理やりわたしはそう自分を納得させる。
けれど、胸はどきどきしていた。嫌などきどきの仕方だった。
いつまで経ってもそれは鎮まらないままで、わたしは自分のマントの裾をただ静かに握りしめた。
ゆっくりと水を掻く音。
それは、確かに聞こえていた。
決して大きな音を立てまいとしているのだろうが、無意味だった。少なくとも自分とアラゴルンは、それに気付いていたのだから。
夜の時間のことだった。ボートを岸につけ皆で休んでいる時、明らかに川の流れに混じって何者かが近付いてくる気配があった。
月明かりのさやかな夜、目を凝らさずとも、川の水の中に何かが潜んでいるのが判る。
「ゴラムだ」
そう冷静に呟くアラゴルンは、その存在にもっと前から気付いていたようだった。
モリアから跡をつけてきているという。
もし敵に居場所を告げられれば、危険は一層増すのに違いない。
ただでさえ何の約定もない旅なのだ、少しでも守られた道を行く方がいい。私はアラゴルンを振り返った。
「ミナス・ティリスの方が安全だ。あそこなら……態勢を立て直せる。兵を募ってモルドールを攻撃しよう」
「ゴンドールにそんな兵力を期待することはできない」
目の前の男の言葉は、にべもなかった。
……それは冷静な時に聞いたのならば、的確な判断だと思えたかもしれない。
長い間東の闇の脅威に晒され続け、ゴンドールが疲弊していることは私こそがよく知っている。
しかし――私は自分でも驚くほどの苛立ちが膨れ上がっていることに気が付いた。
アラゴルンが口にしたのは確かな事実だった。
けれど彼は、何をするわけでもなく淡々とそう告げるだけだ。少なくとも私には、そのように思えてならない。
今まで抑えていたものが、徐々に噴出し始めるのを感じていた。
「エルフはすぐ信頼しておいて……同じ人間を何故信じようとしない?」
「…………」
彼は何も答えない。
自身も人間でありながら、どうして信じてくれないのだ。
それとも或いは、私のことを信じていないのか。私は貴方を信じたというのに、それなのに何故。
「確かに人間は弱くて脆い……間違いだってある。だが勇気と名誉を知っている、信義を重んじる心も」
「…………」
彼は何も言おうとはしない。
アラゴルンが何を考えているのか、私にはまるで解らなかった。
けれど、一度は確かに信じることのできた相手だった。
だからこそ、彼が頑なにゴンドールへ行こうとしないのが不可解でならない。
どうして名乗りを上げようとしない。今まで我らは、王が還るのを待ち続けてきたというのに。
目を逸らし、背を向けようとするアラゴルンのマントを思わず掴んでいた。
「何を恐れている? ……そうやって一生隠れているつもりなのか!?」
いつの間にか声を荒げているが、止めることができない。
アラゴルンはやはり何も言わない。
苛立ち、憤懣、焦燥。そんな言葉では表しきれぬものが自分の中で煮え滾るのを感じる。
それをぶつけてもなお、彼の反応は乏しかった。
胸の奥が冷えていくのを感じる。静かに広がっていくその感覚をどうしていいのか分からない。
頭を抱え、叫び出したくなるのを必死に堪えなければならなかった。
私の声が、空気の中に消える。
辺りには夜の静寂が戻っていた。自分と彼との間に、僅かな沈黙が落ちる。
再び背を向けようとするアラゴルンには、もはや何も届かないのか。どうして何も答えてくれない。何故――
しかし、彼は不意に振り返っていた。
こちらを射抜くかというような鋭さを孕んだ目が、すぐ間近にある。私は一瞬息をするのも忘れ、その目を見返していた。
冷えた温度の視線がこちらを貫いている。
その眼差しには覚えがあった。いつ? モリアに入る少し前に。何処で? ――カラズラス。あの白く輝く峰の、雪山の中だ。
フロドが落とした指輪を拾い上げた時、あの時の私を見ていたのと同じ目だ。
背筋に冷たいものが走る。何故だ。何故そんな目で私を見る。止めてくれ。そんな目で私を見るな。
声が、はっきりと音を辿っていた。
「あんたの国には、絶対に指輪を近付けさせはしない……!」
目の前の男は、確かにそう言った。
それを聞いた瞬間、光は、希望は、凍てついた。
アラゴルンという男を、こころの何処かで信じていたはずだった。
細い糸のような何かで、かろうじて繋ぎ止められていたそれが今、ぷつりと音を立てて断ち切られたような気がした。
その後のことを、曖昧にしか覚えていない。
ただ、のろのろと言葉が頭の中を巡るのを感じていた。
断片的な言葉の欠片。それらが私の中に満ちている。ゴンドール……白い……都……王はもう戻らない……イシルドゥアの……禍……我らは……見捨てられた……東の……闇が……力が欲しい……愛する者達を守る……力が……一つの指輪……一つの指輪……一つの指輪……一つの指輪――!!
「…………さん、ボロミアさん!」
私は自分を呼ぶ声に気付いていなかった。
ただふらふらと覚束ない足取りで歩いていたが、そうしていることにさえ思い至らない。
足元の地面も不確かなまま、何処に向かっているのかも判らないでいる。
「ボロミアさんってば!」、
ふと我に返った時には、が私の目の前に回り込んでいた。
私のマントの裾を掴み、こちらを見上げてくる。
月明かりが、彼女のその顔を照らしている。ひどく心配げな表情がそこにあった。
「何処行くんですか! 皆から離れすぎですよ、どうしちゃったんですかっ」
「…………」
私は答えない。
が言うのを聞くに、私は随分と皆のいる場所から離れたところへと来てしまったのらしい。
言われてゆらりと視線を巡らせれば、本当にその通りだった。
誰もおらず、微かな夜風が木々の葉を擦り合わせる音しか聞こえてこない。
オークのような敵が近くに潜んでいないとも限らない。それを警戒してかは小声で、しかし戸惑いを露わにした声色で続けていた。
「あの……何か、あったんですか……?」
「…………」
私はやはり、答えない。
望みは、もはや失われた。ようやく見つけた、辿り着いたのだと思っていたそれは、光など湛えてはいなかった。
もう、何処にも希望はないのだ。
いつかゴンドールの未来に光が差したなら、をもう一度白い都に迎え入れたかった。
その未来は、今や固く閉ざされたのだ。不吉な影が満ちて、暗い闇が忍び寄る。
いずれは中つ国の全てが、その暗闇に呑み込まれるだろう。
「ボロミアさん、とりあえず戻りましょう……?」
「…………」
私はなお答えない。
彼女の声すら、今は聞きたくなかった。
口を開けば、相手が誰であろうと怒鳴りつけてしまいそうだった。
全てを閉ざしたまま、自らの中に渦巻くものを鎮めなければならなかった。
「あの……ボロミアさん……?」
「…………」
やめてくれ。静かにしてくれ。
私はゆるく頭を振った。そうすることさえ億劫だった。
頼むから、何も言わないでいてくれ。そうでなければ、どうにかなってしまいそうだ。
言葉にして説明することもできない今、ただそれだけでに伝わるはずもない。
何かを言い掛けた彼女の口を、気付いた時には自らのそれで塞いでいた。
ぎくりとしたように身を強張らせたのが、手に取るように判る。そうだ、こうしていればは静かだ。何故もっと早く気付かなかったのだろう。
夜の冷えた空気の中で、彼女はとても温かい。
その熱に触れていてさえ、私の内側は冷え切っていた。
どれだけ求めようとも、ひどく空疎なこの胸の隙間をどうしても埋めることができない。
微かな息が漏れ、はこちらの胸を片手で叩いてくる。
苦しいか。――苦しいだろうな。私もそうだ。苦しくて苦しくて堪らない。
何処か遠い意識の中でそう思う。
ロスロリアンでは、彼女とこうしていれば心満たされていた。
しかし今は、そうではなかった。足りない。とても足りない。どうすればいいのかも判らない。……判らない。何も。
唇を離さないでいると、耐え切れなくなったらしいが呼吸を継ごうとしてか薄くその口を開けた。
意図したものではなかったが、そうなっては更に黒髪の娘を求めずにはいられなかった。
自分が何をしているのか、もはや私には判らなかった。
ただ頭が痺れるような快感があった。それが得られる行為を続けようとしたところで、彼女の身体がふっと離れるのに気付いた。
反射的に支えようとして――しかしそれより先に、は膝から崩れるようにその場に座り込んでしまう。
呆けたように動かない。
ただ顔を俯け、肩で呼吸を繰り返すその姿を見て、私はハッと我に返った。
自分の中に、色濃く娘の余韻が残っている。私は――一体――何をしたのか?
手を差し伸べようとして、しかし、私は動きを止めた。
これ以上は触れてはいけないと、そう思った。私は彼女を利用したのだ、自分を慰める、ただそれだけのために。
私達は互いに言葉もないまま、しばらくその場から動くことができなかった。
月だけがただ、冷たく光を放ち続けていた。
光は、今なお凍てついている。
早朝。
皆が目を覚ますよりも早く、が徐に半身を起こしていた。
それに気付き、私も起き上がりながら静かに彼女を呼んだ。昨夜のことを詫びなければならない。
こちらを見たの目の下に薄く隈ができていたが、彼女は戸惑うでもなく
「おはようございます」と口にした。
「ああ……その……」
「はい」
「……すまなかった。夕べは、どうかしていた」
「…………」
すぐに何かを言うでもなく、は私を見ている。
沈黙と言うよりは、どう反応したものか彼女自身判らずに困っているといった様子だった。
けれど、その目に決して冷えたものは見当たらない。
そう間を空けるでもない内に、そっとは小声を出した。
「えっと……、ボロミアさん」
「…………?」
「わたし、頼って頂けるのはすごく嬉しいので。……だから、その、もっと頼ってくださいね?」
できることなら、何でもお手伝いしますから。
彼女はそう続ける。
まるでいつものように振舞って見せるだが、自分は、この黒髪の娘を傷付けたのではないだろうか。
ほんの僅かな時間とはいえ、私は自らを失いかけていた。またいつそうなるか分からない、それが恐ろしいのだ。
私がそう危惧していることを伝えれば、は幾らかきょとんとした顔になった。
「……ボロミアさん」
「うん?」
「あの、夕べは吃驚しただけで、……その。気になんてしなくていいんですからねっ」
「しかし」
「今、頼ってくださいって言ったばかりでしょう?」
「だが、あんな――」
「だから、その!」
私が言い募ろうとするのを、彼女はやや語気を強めて遮った。
こちらに喋らせまいとしてか、そこから先はほとんど捲し立てるかのようだった。
「確かにわたしにはちょっと早すぎたというかレベルが高過ぎた感は否めないんですけど、それでもその、なんて言うか、嫌じゃないというかボロミアさんなら寧ろ……その、あの、えっと」
最初こそ勢い込んでいたものの、すぐにはしどろもどろになった。
頬が赤く染まり、先程までこちらに向けられていた目も何処ということなくあちこちを彷徨っている。
ぽかんとして見ていれば、彼女はすぐにその両手で顔を覆ってしまった。
「こ、こんなこと言わせないでください……っ」
覆った手の下から、そんな言葉が漏れる。
が言うのを信じて良いのなら、彼女は傷付いていないどころか自分をなお支えてくれようとしている。
昨夜伸ばしかけて止めた自らの手を、そっとその黒髪の上に置いた。
そのまま撫ぜれば、そろそろとは顔を覆う手を下ろしてこちらを見る。間近で目と目が合っていた。
「分かった。――頼りにしている、」
そう告げれば、彼女は安堵してくれるだろう。
そしてそれは実際、その通りのように思えた。
恥ずかしげにしていたその表情が和らぎ、嬉しそうに微笑みさえする。愛おしいと思った次の瞬間、は顔を幾分辛そうに顰めた。
「どうした?」
「……頭が痛いんです。起きた時からちょっとズキズキしてて」
「ひどいのか」
「少しだけです。……寝不足なだけですから、ご心配なく」
さらりとそう言ってのけるが、その寝不足の原因と言うのは他ならぬ私自身だろう。
思わず黙り込むと、小さく彼女は笑ってみせた。
「大丈夫です、痛み止め持ってますから」
そう言って、傍らの鞄の中から薬を取り出す。
の世界のものだが、それを飲んで少し横になっていたかと思えば、出発前にむくりと彼女は身体を起こし、「よし!」と一言言って立ち上がった。
もう平気なのだという。よく効く薬だと思う反面、そんなに効いて大丈夫なのかと逆に心配になる。
少しの間そんなの様子を見ていたが、その振舞いはごく普段通りに見える。
私は少し、安心した。守りたい者との絆は保たれている。
――は自分を受け入れてくれる。私を支えてくれる。
大丈夫だ、そう思った。
自分はまだ何も失ってはいない。そして道は、決して一つではない。決して。
いつか、暗い影に怯えることなく過ごせる時が来るはずだ。
そしてそれは、そう遠い日ではない。私はそう信じた。
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