ボロミアさんの様子が変だ。
裂け谷を出てからの旅中で、時折感じていた微かな違和感。
それは、もうとても無視できるようなものではなかった。
まるであの人が、彼自身ではないかのような――そうとさえ思えるぐらいの何かが、主の中に満ちている。
今は落ち着いているように見える。けれど実のところ、どうなのだろう? ……判らない。
わたしは鎮痛薬を飲んで横になっている間、それについて考えることにした。
頭はまだ少し痛む。それに、完全に寝不足だ。
夜の間はとてもじゃないけれど寝付けなかったし、ものを考える余裕もまるでなかった。
何より、朝が来るのが怖かった。
(ボロミアさんが、夕べのあの時みたいなままだったら、どうしよう……)
漠然とそんな恐怖があった。
けれど、実際話してみれば何ということはない。
わたしの主は元の彼に戻っていたし、いつものように優しく接してくれた。
それどころか、昨夜のことを謝ってくれさえした。「どうかしていた」のだと。
それでいくらかは安心できたし、わたし自身、気持ちの上でひとまず落ち着くことができた。
今ならば、物事を少しは思い巡らせるくらいはできるだろう。
実際、どうかしていたと思う。
声を掛けても反応せず、何も言わず、回り込んで見上げた先の目に光はなかった。
何より、息が詰まるようなゾッとする表情だった。……造作は変わらないのに、どうしてそんな顔ができるのだろう。
ボロミアさんの端正な顔があんなふうに歪むのは耐えられない。
努めて表には出さないように振舞ったけれど、正直言えば怖かった。……恐ろしかった。
何をされようとも、ボロミアさんならば構わない。
でも、それを受け止めるだけでは不充分だ。他にも何か……きっと、できることがあるはずだ。
そこまでを何とはなしに考える。
けれどふと、何をされようとも、なんてさらりと思った自分にぎゃっとなった。
ついでに実際されたことを思い出しかけてしまい、慌てて頭を振って追い払った。
夜の間中これでもかというくらい散々延々悶々としたのだから、もうたくさんだ。今はそういうのに意識を向けている場合じゃない。
とにかく。
わたしはどうにか心を落ち着かせてから、改めて思った。
(ボロミアさんだ)
彼が、あの人こそが、わたしのこの例えようもない大きな不安の正体だ。
このままでは取り返しのつかない何かが起こってしまう。それというのは、ボロミアさんのことに違いない。
今、ようやくはっきりと分かった。わたしの不安は、あの人と密接に結び付いている。
未だにこの尋常ではない嫌な予感を感じる理由、それそのものについては判らない。けれど、その方向は確実に彼を指し示している。
だとしたら、わたしにできることって何だろう?
――ボロミアさんから離れてはいけない。
思案の果てに導き出したのは、そんなシンプルな手段でしかなかった。
けれど実際、それ以外に取れる方法が見出せない。
何か……何かおかしな予兆があれば、少しの内なら、わたしがそれを追い払おう。
それが無理なら、仲間の皆に相談すればいい。
最初の頃こそ初めて顔を合わせた面々でしかなかったけれど、今はそんなことはない。
アラゴルンさんは一行の立派なリーダーだったし、ホビットの皆も――向こうがどう思っているかは分からないけれど――少なくともこちらとしては、ふつうに友人と言えるくらいには打ち解けているつもりだった。レゴラスさんはカラズラスの雪の中ダウンした自分を助けてくれたし、ギムリさんはわたしのことを優しいと言ってくれた。
大丈夫だ、自分一人でこの不安に立ち向かうわけではない。
わたしはそう思うことにした。
そして、それというのは何より、
(ボロミアさん自身、自分の異変に気付き始めてる)
わたしはついさっき、彼が口にしたその内容を思い返した。
自らを失いかけていたということ、またいつそうなるか分からないということを話してくれた。
そして、それが恐ろしいのだと、そんなふうにも。
つまり少なくとも、ボロミアさんも自分でそうなる瞬間があるというのを認識しているということになる。
わたしは自らのことみたいに、寒気を感じた。
それというのは、一体どんな感覚だろう。自分が自分でなくなるかのようなその感じというのは、一体どんな――。
けれど彼自身、そうなるまいと抗い、戦っている。
そういうことなのだろう。だったら。
――ボロミアさんが戦うなら、わたしだって戦おう。この人を、決して一人になんてさせやしない。
気付けば、頭の痛みは引いていた。薬が効いてきたみたいだった。
頭の中もそこそこ整理することができた。何より、今日はまだ始まったばかりなのだ。
「よし!」
わたしはとりあえず起き上がった。
とにもかくにも、出発の準備をしなければいけなかった。
気合を入れて身を起こしたものの、ボートで川を下っている間は静かにしている他ない。
わたしは時々辺りの様子を見やっていたものの、合間合間で微睡んでいた。
ボート上なら、ボロミアさんと離れる事態にもならない。
寧ろ、ボートを下りて休息を取る時の方が危ないような気がする。
故に、今のうちに睡眠を補っておく必要があると判断したのだ。
深く眠るまではいかなかったので、わたしの世界に戻ることもなかった。
ただ、ふと気が付いた時にはピピンがこちらを覗き込んでいた。
「やあ、すっかり寝ちゃってたんじゃないかい」
「そうかな。そうでもないつもりだけど……」
「ホントに? さっき、すごく大きな像の脇を通り過ぎたんだ。君にも見せようと思ったんだけどなあ」
「そうそう。全然起きやしなかったぜ?」
メリーも加わってそんなことを言う。
ふうんと思い、まだ見えるだろうかと後方を見やれば、遠目にもなかなかに大きくそびえ立つ誰かの像が二体あった。
正面からのショットは見逃してしまったらしい。
ふと思いついて、鞄から日記を取り出す。日付と体調、そして今の出来事を短く書きつけた。
「相変わらず君の文字は、なんて書いてあるのか分からないなあ」、
旅中で時折、ごく簡単に日々の記録をつけるのは続けていた。
もう見慣れていただろうから特に覗き込むでもなかったけれど、ピピンはちらっとだけわたしの筆跡に目を落として首を軽く傾げた。
「まるで別世界の文字みたいだ」
「あはは」
わたしは少しだけ笑ってしまう。
ボロミアさんにだけは、自分の全てを話してある。
けれどガンダルフさんを除く他の皆には、そこまで詳しくを告げてはいなかった。特に隠すわけでもなかったけれど、そもそも、そうする必要がなかったので。
ちゃんと話すにしたって、旅中で何のきっかけもなく口にするような内容でもない。
そんなだったので、ドンピシャの物言いをするピピンに内心
(うん、合ってる)
と言わざるを得ない。
自分の字を解せるのは、この広い中つ国でもファラミアさんしかいないだろう。
そんなことを思いながらふと、日付に目をやった。
あと数日で、三月を迎える暦だった。
わたしが中つ国に渡って、もうすぐ一年が経とうとしている。
……早いなあ、と思う。
この世界での一年はとても新鮮で、あっという間の一年だった。
できることなら、ずっとこの世界を見ていたい。
今は決して平穏とは言えないのだろうけれど、その中でも彼らは確かに生きている。そんな彼らを見ていたい。……ボロミアさんと、一緒にいたい。
そう願いながら、日記の表紙に刺繍された銀色の糸をそっと撫でた。
ボートを岸につけたのは、まだ陽の高い時間だった。
昼下がりとも言える頃で、しばらく休むのだという。
休息を取る前には大抵の場合、薪にするための枯れ木を集めることになっている。
わたしは注意深くその人を見ていたので、一人で林の方向へと向かおうとしているのに気が付いた。
ボロミアさんはわたしが眼前に回り込んだのを、何処か不思議そうな眼差しで見る。
「何だ? 」
「ボロミアさん、あのう。……変なお願いだと思われるかも、なんですが」
わたしは慎重に、けれど重くなり過ぎないような口調で言った。
「薪を拾いに行くんですよね?」
「そのつもりだが……」
「あの……行かないでほしいんです」
どう言ったものか判らなくて、割と単刀直入な言い方になってしまった。
向こうはといえば、まあ当然なのだけれど、疑問符の浮かぶ顔つきになっている。
「何故?」
「ご質問はごもっともですし、わたしもボロミアさんを困らせるようなこと、したくないんですけど……」、
わたしはほんの少し黙り込んだ。
けれど、続けた。
「その……怖いんです」
「怖い? ……何がだ」
「一人になるのが怖いんです、だから」
わたしではなく、ボロミアさんを一人にすること。
それだけは今、避けなくてはいけない。
普段のわたしが決して言わないようなことだったので、主はちょっと瞬いた。
「大丈夫だ、皆が傍にいる。すぐに戻る」
「駄目です! ……お願いですから!!」
思わず強めの調子になってしまい、ボロミアさんも少し驚いたようだった。
仲間のうちの何人かもこちらを見ていたけれど、わたしは気にしなかった。
「……どうしたんだ」、
そう言って少し屈んで、わたしの目線に合わせてくる。
「ロスロリアンを出る時もそうだった。一体どうしたと言うんだ?」
「…………」
彼の目には、最近のわたしの様子がおかしいように映っているかもしれない。
それというのを、果たしてどう説明したものだろう。困っていると、じくりと頭に痛みが差した。
頭痛が始まった。
朝飲んだ薬の効き目が切れてもおかしくない頃だ。
一度の服薬で鎮まればと思ったのに、こんな時に――。
けれど、わたしが頭を押さえるとボロミアさんも気付いてくれたのらしい。
それは、手早くこちらを安心させてくれるためだったかもしれない。
「……わかった。戻ろう。痛みが治まるまで、私が傍にいる」
そんなふうにわたしの主は言う。
痛みのせいでわたしが気弱になっているだとか、そんなふうにでも思ったかもしれない。けれど。
わかってくれた。ボロミアさんが、わかってくれた。
その人の顔には、何処か少しだけ困ったような色も混じっている。でも、いつも自分に向けてくれるあたたかな笑みも、確かにそこにある。
ボロミアさんに向かって、わたしは静かに微笑んだ。
もう一度薬を飲んで、それから少しの間、目を閉じていた。
決して眠りはしなかった。
ああは言っても、わたしが眠った隙にボロミアさんが単独行動を取る可能性もある。
だから、ずっと目を覚ましていた。じりじりとしながら地味に頭の痛みをやり過ごし、薬の効き目が現れるのを待った。
しかし、それにも拘わらず――ふと目を開けた時には独りだった。
わたしは文字通り、飛び起きた。
頭痛は既に吹き飛んでいた。薬の効果か驚愕のせいか、そんなのはどうでもよかった。
辺りには皆の持ち物がある程度残されている。
ボロミアさんの盾も置きっぱなしのままだった。しかし、それなのに誰もいない。
わたしは一瞬にしてパニックに陥った。
自分だけが取り残された形だった。なんで、何が起こった、そもそもわたしはずっと目を覚ましたままだった。
それなのに何故――。
ハッとして腕時計を見る。
目を疑った。薬を飲んだ時から、一時間近くが経っている。
そんなはずはない。絶対に眠ってなどいなかった。それだというのに時間がそんなに経過するはずが、
「!!」
愕然とした。
息を呑むあまり、喉の奥で空気がひゅっと鳴った。それくらい愕然とした。
モリアであった、時間が戻ったり先送りになる現象。
あれであれば、説明がつく。でも、なんで今? 最近まで完全休業状態だったくせに、それなのにどうして選りに選って今なのだ。
思うけれども、それどころではなかった。
耳を澄ませても、何の音も聞こえてこない。近くを流れる河の水のせせらぎに風の音、何処か遠くの鳥の囀り。ただそれだけしか音はない。
それは、ひどく悪いしるしのように思えてならなかった。
誘惑に、負けた。
ただその事実だけが、私の心を打ちのめしていた。――自分は、指輪の誘惑に負けたのだ。
そしてその結果がこれだ。
胸に突き立った三本の矢。痛みは身体から力をうち拉ぎ、もはや立ってはいられなかった。
アラゴルンが私の元へと駆け、こちらを覗き込んだ。
その表情は、昨日のものとはまるで違って見える。或いは、あの時の私の目が曇っていたのかもしれぬ。
……アラゴルンは、私がこれほど指輪に囚われていたことを知っていたのか。そのことを今になって思い知る。
だが、もう遅い。全てが、遅すぎた。
我らは滅ぶのだ。世界は闇に包まれ、ゴンドールは、民たちは皆滅ぶのだろう。
「違う!」
しかしアラゴルンはこう言った。白い都は自分が守ると。
我らの民を必ず守ると、彼はそう確かに口にした。ロスロリアンでは聞けなかった言葉だ。
胸に、一つの希望が再び灯るのを感じる。それを見届けることは叶わないが。
共に帰還できぬことを、残念に思う。
そして、もう一つの心残りは。
「アラゴルン……」
「何だ」
「に……自分の国に帰るようにと……すまないと伝えてほしい……」
それだけ言えば分かると告げる。
アラゴルンをはじめ、他の者達には彼女の素性を詳しく話してはいなかったが、とにかくそう伝言を頼んだ。
彼ははっきりと肯いた。アラゴルンは、約束を守ってくれるだろう。
意識が薄れる中で、様々なことが浮かんでは消えた。
父やファラミアのことも勿論あった。目の前で自分を見つめていてくれるアラゴルンのことも、そしてあの黒髪の娘のことも。
……が目を閉じてしばらくした後、やはりその身を暖める火が欲しいと思い、そっとその場を後にしたのが最後だった。
直前の彼女が、ひどくらしくない挙動だったのを思い出す。
あの娘もまた、私が指輪の誘惑に苛まれていたのを知っていたのだろう。
……彼女は果たして、無事だろうか?
思うが、同時に何故か、大丈夫だろうと確信している自分がいる。
すまない、。……もっとおまえと共にいたかった。
遂に想いを言葉で伝えておかなかったことが悔やまれる。最後に彼女に会えないことが、辛いと思った。
――。
林のずっと奥で彼らを見つけた時には、随分と静かだった。
倒されたオークの数はとても数え切れなかったけれど、それを頼りにやっとここまで辿り着いた。
そうしてやって来てみれば、全て終わっていた。
レゴラスさんとギムリさんが立ち尽くしていた。
ひとつの木の根元にボロミアさんが横たわり、その傍らにアラゴルンさんがいる。
わたしの主の額に口付けを落とすアラゴルンさんを見た瞬間、わたしは大体を把握した。
立ち上がり、振り返った彼の目から涙が零れ落ちている。
ほんの数瞬、その目を見返したのだけれど、わたしはひとまずボロミアさんのことを確かめることにした。
歩み寄ってしゃがみ込み、その顔を、その開いたままの目を覗き込んでみる。
いくら目を合わそうとしても、どうしても焦点が合わない。
……そういうものなのかもしれない。その人はもう何も見ていなかったのだから。
何も見ていなかったし、もう何もしていなかった。
ボロミアさんを、船に乗せ葬送するのだという。
わたしも手伝おうとしたのだけれど、立ち上がろうとしたらアラゴルンさんに肩を押されて、止められた。
「私達が準備をする」、ただそれだけを言って、レゴラスさん達と共にボートをつけてある岸に戻っていった。
察するに、わたしとボロミアさんに別れの時間をくれたのらしい。
わたしはその人の傍らでなんとなく正座になり、彼を見つめていた。
彼のその身に突き刺さっていたオークの粗野な矢は、既にアラゴルンさんが抜いてきれいに整えてくれていた。
目も伏せられていたので、顔色さえ除けば眠っているみたいに見える。
いつだったか――ああ、そう、ローハンでの宴の夜で――眠りに落ちたこの人の手がとても熱かったのをふと思い出して、今は胸の上に置かれているその手にそろそろと指先を伸ばしてみる。
吃驚するくらい冷たかった。
ほんのつい先程まで命があったのに、こんなにも急速に体温というのは失われるものだろうか。それとも今が、外気温の低い時季だから?
そんなことを思っていると、誰かが戻ってきたのらしい足音があった。
見れば、レゴラスさんが何とも言えない表情でこちらを見ている。
「あの、準備、よろしいんでしょうか」
「……ああ」
言葉少なに彼は言う。
エルフは殺されたりするような例外を除けば、ほぼ不死なのだと聞く。
だから死の意味も、わたし達みたいな人間とは異なるのだと。ロスロリアンでレゴラスさんがそう言っていたっけ。
……そう言えば、あの時彼が問うた質問にちゃんと回答していなかった。あの、哲学の講義に出てきそうな一つの問いかけ。
それというのもわたし自身、あの時その答えを持っていなかったからだと思う。
今まで生きてきた中で、正直言って死に触れる機会というのはあまりなかった。
だからわたし自身、死ぬのがどういうことかをいまいち理解できていなかった。
でも今ならば、たぶん少しは分かる。
「レゴラスさん」
「何だい」
「死ぬのって、いなくなっちゃうってことなんですね」
「…………」
わたしはごくごく当たり前のことを口にした。
そんなことはレゴラスさんだって知っているはずだ。
でも、きっとそういうことなのだと思う。
最初から存在しなかったのではない、ちゃんと生を受けて生まれてきたのに、しかしいなくなってしまう。
その証拠に、今目の前にいるのはもう何もしていないボロミアさんだ。
時々悪戯っぽく笑ってわたしを撫でてくれた彼は、今はもう何処にもいない。
「寂しいですね」
それだけ言って、口の端を少しだけ持ち上げてみせる。
レゴラスさんは何も言わず、黙ってこちらを見つめてくるばかりだ。
わたしは頭上を見上げた。
午後の木漏れ日が木々の間に差し込み、光の筋が煌めいている。
ボロミアさんが死んだというのに、空も風も木々も荒ぶることなくいつも通りだ。世界は、何事もなかったみたいに佇んでいる。
それが寂しいと、わたしは思った。
ボロミアさんを乗せたボートは、ゆっくりと岸を離れていった。
河の流れに委ねられるのを見送る。その先にある大きな瀑布はあの人を受け取ってくれるだろう。
今はもう遠くにあるボートを見つめていると、「」、と声を掛けられる。
アラゴルンさんがこちらを見やっていた。
「……大丈夫か」
「はい」
そう返事をすると、まじまじとわたしを見る。
泣くでも呆けるでもなく、至って変わりないわたしにやや戸惑ったかも分からない。
そしてわたし自身、表面的にそう繕っているわけでも決してない。
何故って、それは――。
けれど彼は、口を閉ざすでもなく続けた。
「ボロミアからの伝言だ」
「伝言……ですか?」
「ああ。自分に国に帰るようにと。……すまないと言っていた」
それだけ言えば分かるとも。
アラゴルンさんが告げるのを聞いて内心、息を吐く。
そんな今際の際にまでわたしのことを心配しなくても。そう思うけれど、同時に、やっぱり嬉しくも思ってしまう。
そうですかと肯いてから、わたしはもう一度ボートの方を見る。
遠くに行ってしまって、もうほとんど何処にあるのか分からなくなってしまっていた。
「アラゴルンさん」
「…………?」
「少しだけ、時間をくださいね?」
そう言って、わたしは返事も待たずにその場にしゃがみ込んだ。
膝の間に顔を突っ伏す。
たぶん、アラゴルンさん達からは泣いているふうにでも見えると思う。
誰かが声を掛けてくるような気配もなかった。少しだけなら、そっとしておいてくれるだろう。
そしてわたしはと言えば、泣いてなんかいなかった。
寧ろ、ついさっきたった独りでいることに気付いてパニックになった時とは対照的に、とても心は静かだった。
もしかしたら、今まで生きてきた中で今が一番冷静かもしれない。
……それくらい、何も動じてはいなかった。
悲しくないというわけでもない。
けれど、その気持ちは何処か乾いている。
何故って、もう数え切れないくらい、何度もその場面を観ているのだから。
画面の向こうで、或いは原作である物語の本の中で、そしてあの銀幕の向こうで。
ロード・オブ・ザ・リングが大好きだった。
映画がとりわけ好きだった。最初は物語についていくのがやっとだったけれど、何度も観るうちに世界観や登場人物の一人一人にも理解が及ぶようになっていった。
わたしの主の額に口付けを落とすアラゴルンさんを見た時、観たことがある場面だとはっきりそう思った。
その瞬間、自分が何を忘れているのかをようやく思い出した。
まるで満ちていた潮が一時に引いて、辺りの地形が急に明確になったみたいな感じだった。
静かにわたしは、大体を把握した。
そしてわたしは、大好きな物語を今まで忘れていたことをそれほど不思議には思わなかった。
何しろ夢を介して世界を渡っているのだ、多少寝惚けていたって仕方がない。
それに、すっかり忘れていたわけでもなかった。
ボロミアさんがこうなることを、意識の水面下で覚えていたのだ。だからわたしは、それを回避したかった。
けれど、駄目だ。
死亡フラグの二、三本をへし折ったところでどうにもならない。だって、原作がそうなのだから。
わたしが多少足掻いたところで、物語は変わらないのだろう。
わたしはボロミアさんのことを思った。
最初はどういう人物なのかよく分からなかった。けれどその人となりを知るうちに、いつの間にか惹かれるようになっていた。
わたしは、物語の中の勇者に恋をしていた。
その勇者は、こう言い残したという。「自分の国に帰るように」と。
わたしはその言葉を反芻する。
もうこの世界に、ボロミアさんはいない。
だったら、もうここにいる意味はない。意味なんてない。
帰ろう、と思った。
わたしの主が言い残した言葉に従い、わたしは帰ろう。
けれど、一人では帰らない。わたし一人では帰らない。
耐えられない。
耐えられるわけがない。ここまであの人と過ごしてきて、結局最後はわたし一人だなんて、そんなの耐えられっこない。
だから。
連れて帰ろう。ボロミアさんも一緒に。
わたしはそう思った。
けれど、死んでしまったあの人では何にもならない。
生きている彼でなくては。……命が失われる前のボロミアさんでなくては。
わたしはモリアであった、そしてほんの少し前に起きた出来事を思い出す。
少し前までは、「時間」を行ったり来たりしているのだと思っていた。
けれど今思えば、「場面」を飛ばしたり戻したりしている、という方がたぶん正しい。リモコンを使ってシーンセレクトするようなものだ。
そしてさっき場面を飛ばしたのは、わたし自身の意思に他ならない。
今のわたしに、ボロミアさんのあの場面に立ち会うことなど到底できないだろうから。……この時既に、物語を変えられないことをたぶんわたしは知っていたのだ。
でも、大丈夫。
わたしの夢とこの世界は繋がっている。
夢は、時に支離滅裂だ。
まるで組み立てられた物語のような夢をみることもあれば、知っているはずの人を忘れていることもある。
脈絡なく場面が前後に飛んだりするような無秩序な夢だって、何度かわたしは見たことがある。
――夢とこの世界が繋がってるなら、多少の無茶がまかり通ったってそう不思議でもないんじゃない?
わたしはそんなふうに考えて、続けて思う。
モリアであった、場面が戻ったり先送りになったりするあれ。
それにそう、カラズラスを下山した時。あの時はボロミアさんまで、わたしの世界にやってきてしまった。
それらというのは言ってみれば、今この瞬間のための予行演習みたいなものに過ぎなかった。
わたしは目を閉じて、意識を無理やりにこじ開けた。
そうして再び目を開ける。顔を上げれば、そこはわたしの部屋だった。
中つ国から離れ、戻ってきたのだ。
そして傍らには、ボロミアさんが横たわっている。
目を閉じてはいるけれど、その顔色はさっき目にしたものとは違う。
そっとその頬に触ってみれば、あたたかな温度がそこにあった。
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