物語の中に描かれた、幻想的な挿絵の一枚。
或いは、霞の中に佇むそれは、何だか蜃気楼みたいにも見えた。
このまま進んだとしても、決して近付くことはできないのでは、なんて一瞬思ってしまうような。
そんな、ひどく遠い地のように思えた。
けれど馬から下り立ち、自分の足でその場に立ってみても幻のように掻き消えること無く、それは確かに目の前に存在している。
わたし達はイムラドリスと呼ばれる場所に、今まさに辿り着いた。
別の名では裂け谷ともいうのだと、以前ボロミアさんが教えてくれたことを馬上で揺られている間に思い出していた。

ぐるりと、辺りを徐に見回してしまう。
わたしはまだゴンドールとローハンの二つの国しか知らないけれど、この地はその二つとはまた違った世界を為していた。
名の通りの深い谷の中にあって、見ようによっては此処に住まう人達を何かから守っているような、天然の要塞ともとれるかもしれない。
そして同時に、中つ国というこの世界ときれいにぴったりと融け合っている。
ここが守られた場所だとするならば、それはもしかしたなら、やさしい何かの意思が働いているのかもしれない、なんて考えてしまうような。
上手く表現できないけれど、そんな、とても不思議な感じのする場所だった。

「中つ国って……」
「うん?」
「綺麗なところがたくさんあるんですね」

思わずボロミアさんにそう言うと、
「そうか。……そうだな」 、と彼自身も改めて辺りを仰ぎ見る。
この人にとっても、この地は初めて訪れるのだという。
そうしてそれが、エルフの住まう地だというのだから、心境的にはわたしとそうそう違わないのかもしれないなあ、と思う。
わたしはちょっとだけ、小さくニヤニヤした。
ゴンドールは彼の国だし、ローハンでだってこの人は顔見知りが何人もいた。
けれどここでは、わたしもボロミアさんも同じ初見さんなのだ。
ほんの少しでも気持ちがお揃いなのは嬉しい。
そう思ってニヤニヤしていると、来客に気付いたらしい誰かがこちらの方にやってくる。
柔らかな物腰で現れたその誰かは、わたしが生まれて初めて目にする本物のエルフだった。



幾つかある建物のひとつにわたし達は通された。
ボロミアさんが二言三言と言葉を交わしただけで、向こうは要領を得たようだった。
この地の領主だというエルフの元へまず挨拶に上がると、歓迎の言葉と共に「旅の疲れを癒すように」と言われ、食事や入浴までも勧められた。
中つ国の人達やエルフは、誰かをもてなすことにおいてとても心が広いらしい。

そうして程なく一つの部屋を宛がわれ、今に至っている。
わたしは肩から鞄を下ろしながら、ボロミアさんを見た。
彼もまた自分の荷物を部屋の片隅に下ろしていて、重そうな盾やら剣やらをも外している。
彼ひとりだけの旅ならまだしも、わたしというオマケまで付いていたのだから、さぞ疲労困憊していることだろう。
此処で行われる会議は明日だということだったから、ゆっくり身体を休めるには丁度いいのかもしれない。
まだ昼間で明るく、夕暮れを迎えるには大分間もある。
そして夜には心を落ち着けて眠りにつくことができるだろう。ここでは不寝番をする必要もない。

そんなことを思っていると、襟元のマントの金具を外しながら、ボロミアさんがわたしに時間を訊ねてきた。
わたしは腕時計を見やって告げる。午後の二時半。
そうこうしているうちにも二人のエルフがやってきて (そっとジッと見てみれば、なるほど確かに、耳が尖ってる!) 軽めの食事を準備してくれる。
そのままありがたく遅めの昼食をとっていると、「」、と呼び掛けられた。
ボロミアさんはいつもと変わらない穏やかな顔でこちらを見ている。
卓上のお茶の器に両手を当て、その指先を温めるようにしながら、彼は言った。

「先程の話を、聞いていただろう」
「はい」

先程、というのは多分、領主だというエルフの偉い人との会話の事だろう。
幾つかの聞き覚えのある単語がその場を行き交ったのを記憶している。
わたしはひとつ、肯いた。

「ミスランディアが、ここに来ているそうだ」
「そうみたいですね」
「この後、彼の元を訪ねたいと思うのだが」
「……わたしも、お会いしてみたいです」

もう一度、わたしは小さく肯いた。
以前に話してくれた、例の魔法使いがここにいるという。
その話を聞いた時の、ボロミアさんの顔をわたしは思い返す。まるで自分のことのように反応し、顔を綻ばせていた。
その表情はまるで希望を見出したかのようにキラキラしていたので、わたしはまたも申し訳なくなってしまった。
――本当に、この人ときたら。
そんなふうに、思う。どうしてボロミアさんは、自分以外の誰かこんなに優しすぎるのだろう。
わたしは彼には判らないように顔を俯けて、小さく息をついた。
最も、そんなところがこの人の、この人らしさたる所以なのだろうけれども。

わたしはこころの中で頭を振りながら、けれど、と思った。
何はともあれ、件の魔法使いにようやく会えるのだ、というのを考える。
わたしは今のところ、一度は帰省していることもあって比較的(いつかは何とか帰る事ができるだろう)とそこそこ暢気に構えているものの、確固たる確証はない。
故に、その確証が得られるのなら、それに越したことはない。彼の魔法使いが、その答えを持つのかどうかはまだ知らないが。
それに、もしその答えが満足いくものなら、きっとボロミアさんも安堵してくれることだろう。
わたしは寧ろ、そちらの方を期待した。
少しでも、この人から不要な心配を取り除きたいのだ。わたしは大丈夫なのだと分かってもらえれば、それで。

「……どうした?」
「いえ」

少しの間とはいえ、ついその表情を見つめてしまっていたので首を傾げられる。
わたしは言葉少なに頭を振った。
ただ、もし万が一にもその魔法使いさんが、その場でわたしを中つ国から向こうへ帰してくれるような術を持っていたとしたら――。
わたしはこの点について、多少の不安を感じ得ていた。
それはそれで少し、いやはや大いに残念にも思ってしまうだろうな、と思うのだ。
何故って、それはこの世界で築いてきたもの、或いはこれから出会うかもしれない全てのものと、いよいよ別れを告げなくてはならないということだからだ。
わたしはもう一度ちらと、ボロミアさんの方を見た。
目が合っても、今ばかりは直ぐにこちらから目を逸らしてしまった。
期待と不安が入り混じる、というのはこういうのを言うのだろうなあ。そう思いながら自分のお茶の最後、一口を飲み干す。
エルフの淹れてくれた紅色のお茶は、気のせいかもしれない、花のようなやさしく甘い香りがするにも拘わらず、何故だか鼻の奥がつんとするような感じがした。



軽い食事を終え、わたし達は辺りを散策するように歩き始めた。
魔法使いのその風貌をボロミアさんは見知っているとのことだったし、今はここに留まっていてすぐに姿を消すことはないと、エルフの偉い人も言っていた。
エルフのその、えーと、エルなんとかさんと言ったような気がする、とにかく。
その偉い人は、「少し前に魔法使いは書物庫に向かった」と言っていた。
けれど、もう時間も経ってしまっている。必ずしもそこにいるとは限るまい。
故に、歩いていればいずれはその人に行き着くだろう、と楽天的にいくことにした。
わたしは勿論、わたしの主もここでは土地勘がないのだ。
「歩いてここを知っておく方が良い」というボロミアさんの言葉に従って、ひとまずその書物庫の方向へ向かおうと、わたし達はエルフの谷を歩いている。
見上げれば、秋の色に色付いた木々が陽の光に照らされ輝いている。
そんな光景があちこちにあり、はらはらとゆっくり落ち葉が舞い降りてくる。

「……すごく、不思議なところですね」
「そうか。は、何が不思議だと?」
「そうですねえ」

わたしはうーん、と唸って言葉を探した。
そうしている間にもやわらかな秋の風が微かに吹き抜けていく。
寒くはなく、寧ろ心地いいと思える其れが、裂け谷の中を渡り歩いているみたいだった。

「その都度に、印象が変わる感じがするんです。遠く離れたところから見た時は幻みたいに見えましたし、ちょっと近付いてみたら何だか自然の要塞っぽくも見えましたし。今は、何でかわかりませんけど、何処かで見たことのある場所のようにも見えます。これで夜になったり、或いは明日になったりすれば、また別の印象を持つかもしれませんよね」
「なるほどな」
「……ボロミアさんは、そんなふうには感じませんか?」

そう思うのは、わたしだけなのだろうか。
内心で独りごちながら、ふと(もしかしたら人によっても、みんな別の印象を抱くのかもしれない)と考える。
魔法使いが実在するような世界なのだ、ここにだって、そんな魔法が満ちているなんてことも、あるかもしれない。
主の答えを聞こうとして、不意に少し離れた場所、開けた空間に設けられた腰掛けに誰かが座っているのに気が付いた。
ここはエルフの谷だというから、これまでに何人かのエルフは見ている。
けれどその人物はどうもそうとは思えなかった。
白髪の頭に小柄な身長は、正直年老いた人間に見える。
ただ、もしそうだとしたら、それは本当に小柄ではあったが。
ボロミアさんもその人に気付いたようで、わたしの問いを保留しそちらに目を向けた。
膝の上の本のページを捲ろうとしていた指が止まり、その小さな人もわたし達に気付いて顔をあげる。
柔和そうな表情がこちらを捉えてくれたので、少し頭を下げて挨拶する。
向こうは何だか面白そうな顔つきで口を開いた。

「おやおや。多くの客人が招かれているとは聞いていたが、これはまた珍しいお客だ」

そう言いながら本の頁を閉じると、彼は少し座り直した。
人間なのかそうでないのかはまだ判らないけれど、よく見なくとも裸足のその足は明らかに人のそれより大きくて、その上毛で覆われている。
エルフではなさそうだけれど、さて、実のところどうなのだろう。

「二人の大きい人たちは何処から来たんだね」
「私達は南方の地ゴンドールより参りました」

わたしがちらとそんなことを思っているうちに、ボロミアさんとその人は言葉を交わし始めている。
ミナス・ティリスで何度も見た、彼の国の礼の仕方でボロミアさんは挨拶をする。
そうして魔法使いを探しているのだと伝えると、ああ、というふうに小さい人は目を細めた。

「ガンダルフなら、ほら、そこから見えるだろう? その階段を下りた向こう、あの館にいるだろうと思うよ。私の気付かないうちに出て行ったのでないならね」
「ガンダルフ?」
「ミスランディアのことだ」

聞き慣れない言葉を反芻するわたしに、ボロミアさんが耳打ちした。「彼は数多くの名を持っているのだ」という。
わたしはなるほどと思いながら、その示された場所に目をやった。
幾つか連なった建物のあるその場所まで、決して遠くはないもののそれなりの距離はありそうだった。
最も、この裂け谷を歩くのはまったく苦でもなんでもないけれど。
けれどわたしの思いを見越したのかどうか、その小さい人はこんなことを言った。

「そっちの階段は長いから、時間がかかっていけない。何なら、少し近道も出来るがね」
「近道、ですか。何処を通ればいいんでしょう」
「そうだねえ、……ああ、丁度いい。フロド、フロド!」

急にその人は声を大きくして誰かを呼んだ。
見れば、向こうから同じような控えめの背丈の人が、何やら両手に飲み物の器をひとつずつ持ったままやって来るところだった。
呼ばれて、ゆったりだった歩調が少し早歩きになり、すぐにわたし達の傍まで来る。
間近で見ると、その人はとても整った顔の造りをしているのがよく分かった(一瞬エルフの子供だろうかと思ったけれど、身体的特徴からすれば、この白髪の小さな人と同じ種族と思える)。
ガラスみたいに透き通った大きな目に、くるくるの巻き毛がとても似合っている。
背丈から少年、という印象を持ったけれど、顔立ちからすれば、年の頃はわたしとそう変わらないかもしれない。
わたし達は互いに小さく挨拶を交わすと、すぐに二人の小さな人たちが会話を始める。

「この大きな人たちを、ガンダルフのところまで案内しておやり。さっき教えた道を行けばいい」
「ガンダルフの? お二人は、彼のご友人ですか?」
「私は何度か会っている」
「わたしはこれから初めてお会いする予定です」

ボロミアさんが言うのに、わたしが続いて告げた。
聞けば、この人達こそその魔法使いの古くからの友人だという。
わたしが訳あって彼の助言を求めに来たのだと伝えると、先程フロドと呼ばれていた人は嫌な顔ひとつせずに案内役を引き受けてくれた。
そういうことならご案内します、と手にしていた器を白髪の小さな人に預け、
「じゃあ行ってきますね、ビルボ」と彼は微笑み、次いでわたし達を見上げる。
よろしく頼む、と頭を下げた主に倣い、わたしも頭を垂れた。
わたしとボロミアさんが初めて出会った 『 ホビット 』 と呼ばれる種族は、彼らが最初の二人だった。






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