水の流れる音、鳥の囀り。
……遠くから、ハープか何かのような、柔らかい音の音楽らしきもの。
ゆっくり時間が過ぎているような気がして、着替えの上に置いておいた腕時計を見る。
しかし秒針は、いつもと変わりないテンポで動いていた。
魔法か何かでわたしの認識がおかしくなったのでない限り、時の流れも変わったりはしていないらしい。
改めて時計の盤面を見る。まだ、五時を過ぎたばかり。もちろん、朝の。

開いた目を、もう一度閉じてみる。
けれど、もう一眠りという所まで行き着かない。ほんの少しだけぬくぬくした後、思い切って身体を起こす。
ほどほどに身支度をして、そっと部屋の間切りの役目をしている天井から垂れ下がった布に触れる。
シルクとかビロードとか、そういうものともまた違った不思議な手触り(わたしが知らないだけで、こういう素材の生地も元々あるんだろうか。それともエルフの為せる業?)、そうっとその向こう側を窺うと、わたしの主はそこにいた。
ボロミアさんはまだ起きていないようで、目を閉じたままベッドに横になっている。規則正しい胸の上下の仕方。
その脇に投げ出された手、その指先のひとつには、昨日わたしが渡した絆創膏が巻かれている。

(今度向こうに戻ったら、新しい絆創膏買っておかないと)

わたしはそんなふうに考える。
向こうとは言わずもがな、わたしの世界のことだ。
昨日渡したのは、小物入れに忍ばせていた最後の一枚だった。
これからももしかしたら、ちょっとした怪我の時に使うこともあるかもしれない。いつ戻れるかは、分からないけれど。
……ボロミアさんが、僅かに身じろぎした。
わたしはすぐにその場から離れる。
彼が目覚めているかどうかを知りたかっただけで、それ以外の他意があって覗いていたわけではない。断じてない、決してない。
わたしは誰かに言い訳をしながら小さく息をつくと、外を望めるバルコニーの方に足を向けた。
裂け谷の朝は、朝だというのに暮れていくような黄金色で、秋という色そのものに満ちているように見えた。




頭上を見上げる。
落ちてくる滝の水の流れ、ひらひらと舞う落ち葉に金色の木漏れ日。
朝食の後、わたしは裂け谷を当てもなく歩いて回っていた。
此処で開かれる大事な会議が今日あるのだということで、ボロミアさんはその席に赴いている。
その間、わたしは手持ち無沙汰だ。
そして折角の機会だ、エルフの谷を歩いてみようと、こうしてぶらぶらしている。
時たま行き交うエルフは皆、物腰も丁寧で親切だ。
わたしがうっかり谷の外側に近付こうとしているのを危ないからと教えてくれたり、向こうの方が景色が良いということも教えてくれたりする。
……そういえば、ちらほらとエルフ以外っぽい種族も見掛けたりする。
昨日の食事の席でもそうだった、わたし達人間にホビット、あと、教えてもらったのがドワーフ。
皆、今日の会議のために集まっているという。
そう耳にはしたけれど、其れというのは、一体どんな内容の会議なんだろう。
自分には関わりがないと思っていたことについて、ふと思い巡らせた時だった。
不意に、近くの建物から小さな何かが飛び出した。

「おい、早くしろよピピン。もう始まってるんだぞ」
「分かってるよ、そう急かすなって!」

特徴的なやり取りと声。
思わず「あ」、と低く声を上げると、あちらもすぐにわたしに気付いた。

「やあ。じゃないか」
「おはよう、気分はどうだい?」
「えーと、ぼちぼち、かな?」
「なんだい、そりゃ」

わたし達はひとまず朝の挨拶を交わした。
確か、黄色いベストの方がメリーで、少し甲高い声の方がピピンだったはずだ。それはそうと、二人は何を急いでいるのだろう。
訊ねると、「ああ、そうそう!」とメリーが道の向こうを指した。

「エルロンド卿の会議さ! もうとっくに始まってるだろう? 急がなきゃ終わっちまう、全くピピンときたら、朝食のパンのおかわりをし過ぎだっての! 食い過ぎで腹痛起こしてこんなに遅くなるなんて、計算違いもいいところさ」
「そういうメリーだって六つは食べてたじゃないか、僕のこと言えないよ!」

そう言い合う二人に、わたしも内心で(あれは確かに美味しかったなあ)と肯いた。
流石にそろそろ白米が恋しい頃なのだけれど、それとは別に、此処のパンなら連続で一週間続いたとしても歓迎するだろう。
……思っていたら、早速食べたくなってきてしまった。まだ昼前だというのに。

「二人の話聞いてたらお腹空いてきちゃった……。わたしも一つおかわりしたのに」
「たった一つかい、勿体ない! あんなに沢山用意されてたっていうのに!!」

信じられないというようにピピンが天を仰ぐ。
急いでいる割には悠長だなあと思う。
それより、彼ら自身も、会議に呼ばれているのだろうか。
彼らは会議に呼ばれるような、例えばホビットの代表だとか、そんな二人だったりするんだろうか(そうならなるほど、人は見かけによらないとはよく言ったものだが)。
だとしたら尚更、そんなゆっくりでいいんだろうか。
思っていると、再びメリーが片割れを急かした。

「そんなことより早く行こうぜ、本当に参加しそこなっちまう!」
「分かったってば、もう」

そう言って今にも走り出そうとするのを、わたしはいってらっしゃいと送り出そうとした。
しかし間髪入れずに、
「さあ、も来いよ!」、と言われて「えっ」となる。なんでそうなる。

「何でわたしが」
「どうしてって、は大きい人だし、いざという時僕たちが後ろに隠れるのにピッタリ……、ゴホン! いやほら、見学ぐらいしたって構わないと思わないかい?」
「それよりほら、早く! 走って走って!!」

二人に半ば引っ張られるようにして、わたしはどういうわけだか裂け谷の静かな道を駆ける羽目になっていた。
……この二人、絶対に会議に召集されてない。
駆けながら、わたしは内心そう確信した。


……とはいえ、迷惑にならない程度に接近するだけなら問題ないか。
そう思い直すうちにいつの間にか、それらしい広場の傍までやってきてしまった。
見つかるのがよくないというのは解っているようで、それまでそれなり騒がしかったメリーとピピンも口をぴたりと閉じている。
メリーがそのままわたしを手招きするので、そろそろと忍び足をする。
彼のすぐ傍まで近付いたところで、小さく背後から「あっ」と声が上がる。
ピピンが何かに気付いたらしい。そのまま彼の指差す先を見て、メリーも微かに舌打ちした。

「なんてこった、サムの奴に先を越されるなんて!」
「え、何? サム? 誰?」
「ほら、あそこの茂みのところ」

見れば、わたし達とほぼ反対方向、生い茂った草の陰に身を潜めた先客と丁度ばっちりと目が合ってしまった。
夕べの食事の席で見掛けたような気もする、少しふっくらとした体躯のホビットだ。
向こうも一瞬こちらの登場に吃驚した様子だったけれど、それは確かに一瞬だった。
すぐに、何事もなかったかのように会議の話に耳を傾け始める。

「あいつ、いい席取りやがって。あっちの方が話聞きやすそうだな」
「でも、今からじゃあっちに行くのは無理だよ。きっと会議の前からあそこに居たんだ。やるなあサムってば」

小声でそんな話をする二人をそのままに、わたしは辺りをこっそりと見渡した。
何やら円陣を組むような形で何人かが並び座り、誰かが何事かを語り聞かせている最中であるようだった。
何人か、見知った顔もある。ガンダルフさんにフロド、そしてエルロンド卿……。
ボロミアさんの姿は、すぐ見つかった。
幸い真正面ではなく、こちらがヘマさえしなければそう簡単には見つかるまいと思える横からの角度。
それでも、表情は何とか読み取れる。
そして、今のその人は、ひどく強張った顔をしていた。
ドキリとした。
今までに見たことのないような表情だった。少なくとも、わたしが知るどのボロミアさんにも当てはまらない。
……果たしてあの人は、本当にボロミアさんだろうか。
一瞬そう思ってしまうくらいの、見知らぬ誰かではないかとさえ思ってしまう程のそれが、彼の横顔を覆っている。
それはきっと、もしかしたならゴンドールでも、あんな顔をすることだってあったかもしれない。
けれど、わたしは見たことがない、知らない。
あんなふうに怖い顔をしているボロミアさんを、わたしは知らない。

声さえわたし達にも届いていたものの、会議の内容なんてまるで耳に入ってこなかった。
急に背筋が冷たくなったような気がして身震いをする、けれど、わたしは目を逸らすことができない。
そうするうちに、座っていたエルフの内の一人が立ち上がり声を荒げる。
それを皮切りに、別の者が一人、また一人と立ち上がり始めた。
その中にはボロミアさんも居て、しかしその頃には、場の空気は目も当てられないようなものに変貌していた。
互いに口々に言いたいことを声高に叫び、その中には罵りとしか言えないものも含まれているように思えてならない。
そしてその中にわたしの主が居るということが、ひどく耐え難かった。

来るべきではなかった。
そう思った瞬間、わたしはその場を離れていた。
後ろからメリーかピピンがわたしを呼んだ気がしたが、判然としなかった。
気のせいだったのかもしれない、会議の怒号に掻き消されてしまっただけかもしれない、どちらでもいい。こういう空気は嫌いだ。
喧騒の届かないところに行こうとしたけれど、まだそう離れていないはずなのに気付けばその音は止んでいた。
騒ぎが落ち着いたんだろうか。
けれど戻る気にもなれなくて、そのまま少し、立ち尽くす。

……急に無性に、ミナス・ティリスに戻りたい、という気分になる。
決してホームシックとか、そういうのではないけれど、皆でお茶でも飲んでまったりしたいと思う。
エルフの花の香りのお茶もいいけれど、ミナス・ティリスで飲んだのだって負けてはいない。
もう一度、あのお茶を飲みたい。ただただそう思う。
そうしてそれは、きっとすぐに叶えられるだろうとわたしは信じた。
何故って、わたしとガンダルフさんとの対峙も終え、そして会議さえも終わってしまえばゴンドールへ帰ることになるからだ。
なるほど、ローハンでも裂け谷でも、わたしはいろんな人達に会えたし、いろんな物事にも出会うことが出来た。
けれどそれも、きっとここまでだ。
あとは、ボロミアさんが戻ってきてくれたら。
わたしはわたしの主のことを思った。
きっと、さっき見たような怖い顔ではなく、いつもと変わらない微笑みを浮かべたその人が帰ってきてくれる。
わたしは、そう信じた。







頭の奥底で、多くのことが渦巻いている。
正直なところ、混乱していたと言っていいかもしれない。
ナルシルの剣、一つの指輪、イシルドゥアの禍、――イシルドゥアの末裔、ゴンドールの王位を継ぐ者。
頭の奥底がじくじくと痛む。あまりに多くのことが、ここへ来て一度に起こり過ぎている。
私は無意識に頭を振り、額を押さえた。こうしている間にも、ゴンドールは忍び寄る東の影の脅威に晒され続けている。

「ボロミアさん?」

傍らで、彼女の声がする。
私は、ああ、と声を返す。はいつもと変わらず私を迎えてくれる。私は彼女に、これからのことを伝えなければならない。
……この声と別れなければならないのは、辛いことだ。

「大丈夫ですか? 何だかあんまり顔色がよくないみたいですけど……」
「そう見えるか」
「何処か痛いんですか? 頭痛ですか? わたし、痛み止め持ってますよ!」

そういって自身の鞄を探ろうとするのを手で制する。
エルロンド卿には、既に昨夜の時点で話を通していた。
無理を承知の上での身勝手な願いにも拘わらず、それを聞き入れてくれた恩を、一体どのように返すべきか見当もつかぬ。
……本当であれば、彼女の国へと戻る術を紐解ければと思っていたが。
ミスランディアにもエルフにも叶わぬとなれば、それはいよいよ難しくなる事だろう。
私は目を遠くにやった。与えられた部屋から見える谷の様子は、静かなやすらぎに満ちている。
なるほど、「最後の憩」とこの館は呼ばれるらしいが、ここであれば、も無事に時を過ごすことができるだろう。


「はい?」
「話をしたい」
「はい、いいですとも」

どうぞ、と彼女は背筋を伸ばした。
これが、いつもと同じようなとのやり取りであるなら。そう思いながらも私は切り出す。
先の会議で決まったこと、これからの行程のこと、私の為すべきこと。……九人の旅の仲間のこと。

「えーと……まとめると、ガンダルフさん達と一緒に裂け谷を出発する、ってことですよね? でも、ガンダルフさん達とは途中で別れて、ゴンドールに帰国する……で、合ってますか?」

私は肯いた。
会議の決定には従うつもりであった。
例のものを葬り去るための――このことについて、私は未だ納得出来ずにいたのだが――旅路に私も加わることとなったが、しかし、私はゴンドールを護らなければならない。
途中で道を逸れ、白の都に戻らねばならぬのだ。
は小さく二、三度首を縦に振った。言った。

「じゃあ、随分と賑やかな旅になりそうですね。えーっと、九人? でしたっけ? ……あ、わたしも入れたら十人か。大丈夫かなあ、皆さんと仲良くできればいいんですけど」
「……九人だ」
「あれ、わたし聞き間違いました? 会議で決まったメンバーが九人じゃ……」
。おまえはこの旅には連れて行けない」

私が告げると、彼女はきょとんとした顔になった。
当然だろう、自身、おそらくゴンドールへ帰ることを信じて疑わなかったであろうから。
彼女のためとはいえ、こうして今まで自分の下した決断を隠し通してきたことを、申し訳なく思う。

「……仰る意味が」、変わらない表情のまま、は言葉を続けた。
「分かるような、分からないような……」
「そのままの意味だ」

私は敢えて、淡々と告げた。
そうでなければ、口にするべき言葉が続けられなくなってしまいそうだったのだ。
彼女は答えが既に解っているのに、それでもなお理解することを拒絶しているかのようだった。

「エルロンド卿に、を預かってもらえるよう話してある。モルドールの脅威から離れたこの地であれば、安全だ」
「……でも、あの」
「私は白の都を護らなければならぬ。しかし、ゴンドールは東の闇に近い。万が一のことがあれば、の身を危険に晒すことにもなりかねない」
「あの、ボロミアさん、わたし」


幾分強い調子で彼女を遮る。口を噤んだに、私は言った。


「――おまえは、ゴンドールの人間ではない」


我が国に落ちる影に、おまえを巻き込むわけにはいかぬ。
分かってほしい、私はおまえの庇護を放棄するのではない。
今はこうするのが最善であると判断した。それだけのことなのだ。大丈夫だ、必ず戦が終わった時に迎えに来る。だから……。
そこまでを紡ぎ終えても、彼女は顔色一つ変えず、ただ時間が止まったかのように動かずにいた。……そのように見えた。
何の反応もないことを少し訝しく思い、私はの顔を覗き込む。
息が止まりそうになった。

未だぽかんとしたような表情、真っ直ぐ私を見る彼女のその頬の上に、ぼろりと、涙がこぼれ落ちている。

その事にひどく狼狽する。
この娘が涙を流すのを、私は今までに見たことがない。こういった時にどうしてやればいいのかを、私は知らない。
……に、何をしてやれるのかを、私は知らない。
その時の私は、一体、どのような顔をしていたのであろうか。
が、ふと我に返ったかのように何度か瞬き、改めて私を見上げ、不思議そうに首を傾げる。
すぐに自らの頬の上のものに気付いて、無造作に手で拭い取った。

「やだな、なんで急に……。あっ、ボロミアさん、今のナシです、見なかったことにしてください! 恥ずかしいですから」
「……泣くな」
「泣いてません、心の汗です!」

決して声も涙声ではなく、ごくいつも通りののものだ。
彼女自身、何故涙が出たのかといった具合であるらしい。
或いは、悟られないようにそう振る舞っているのかもしれぬ。私にはどちらとも判らなかった。
いずれにしても、それには理由があるはずであり、そしてそれは間違いなく、私の選択によるものなのだ。

「……今まで黙っていて、すまない」

だが、信じてほしい。
おまえが故郷に帰るその日まで、私の庇護の元に置くという言葉を反故にするのではないのだ。
必ずまた、私はおまえを迎えにくる。
告げるが、しかし彼女は曖昧に視線を返してくるだけである。
私もその目を見つめ返すが、その中にどのような思いがあるのかを窺い知る事は叶わない。
他に、この娘が涙を流す理由があるのか、だとしたら、それは。

「……すまない」

今の私には、そう口にすることしかできない。
はどう応えるべきか見当がつかないかのように、沈黙を落としている。
僅かに伏せられたその目からは、今はもう涙はこぼれていない。
……父や弟のように、自分も人の心を読み取ることに長けていたなら。
今この時ばかりは、切にそう思う。
その涙は、彼女がほんの幾ばくか前に何を思い、何を感じて流れたものだったのかを、私は知りたい。
それが分からなければ、この娘の髪を撫ぜてやることも、抱き締めてやることも許されないだろうからだ。
僅かに持ち上がっている自らの手を、私は内心で首を振り、そのまま握り締めるだけに留めた。






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