へろへろになって席に戻ったわたしを、ボロミアさんが迎えてくれた。
彼の前には既に酒瓶がいくつも転がっていて、けれどほとんど顔色も変わっていなかった。
相変わらず機嫌良さそうに笑っている。
それも、今はどうでもいいことだった。ボロミアさんが差し出してくれた水を一時に飲み下す。
やっとひと心地ついた頃になって、彼が訊ねてきた。
「何曲歌ったのか、覚えているか?」
「…………にじゅう……さんきょく……ほど」
指折り数えて、少しの間の後にわたしは答えてやった。
喉が少しだけ引き攣れた。
流石に、休憩なしの連続二十三曲は辛い。
思いのほか好評(まあ、多分、おそらく。自惚れだとしたら、こんなにアンコールはされない筈だろうから)だったのは良かったけれど、しかし歌うというのは結構体力を使うものだ。
それが、こんな大勢の前で、そしてこの嵐の訪れている時間、この広間に響き渡るようにともなれば尚のこと。
わたしは水をおかわりしながら、ボロミアさんを見やった。
向こうはひどく楽しげに笑って、琥珀みたいな色の液体が入った杯を傾けながらこちらを見ている。
わたしがへろへろになったのは正直言ってほぼ十割方、いやいや、十二割方ほど彼のおかげだというのに、ボロミアさんは何とも思っていなさそうな感じだ。
正直なところその肩をどついてやりたかったのだが、しかしそれは憚られた。
わたし達のテーブルの前に何人かがやってきたので。
そしてそれは、わたしにも覚えのある人達だった。
「驚きましたわ。あのような歌はこれまで一度も耳にしたことがありません。あれらは一体何処の地に伝わるものなのでしょうか?」
「彼女の国に伝わるものと。気に入って頂けたなら、私も嬉しく思う」
エオウィンさんが問うのを、わたしよりも先にボロミアさんが受け答えてくれる。
見れば、姫の傍らには少し前に顔を合わせたばかりのエオメルさんと、そしてもう一人の男の人が居た。
こちらはエオメルさんに劣らず立派な顔立ちをしていたけれど、わたしは名も顔もまだ知らない人だ。
「――ああ、改めて紹介するとしよう」
既に顔見知りであるらしい彼らを見てそう言ったボロミアさんは、わたしをエオメルさん達に示した。
簡単な紹介の後にわたしが頭を下げると、次いで向こうの人達の名が告げられる。
名を知らないその人はセオドレドさんといい、ローハンで第二軍団長を務めているという。
王の息子だと聞かされても、特段驚きはしなかった。そういう吃驚は、エオウィンさんの時に経験済みだ。
寧ろ、エオメルさんがエオウィンさんのお兄さんだという話の方がへえ、と思えた。
なるほど、名前も似ているわけだ。
わたしがそんなことを思っていると、優しそうな笑みを浮かべたセオドレドさんがこちらを見ているのに気が付いた。
言った。
「私も心より歌を楽しませてもらった。我らの知る歌とは大いに異なるが、真、心地良い旋律を持つものばかりなのだな。エオメル、そなたもそうは思わぬか?」
「私には音楽の類はわかりませぬが……」
「はて。先程まで彼の国の歌にその身を委ねていたように見えたのは、私の見間違いだろうか。音に合わせて身体が揺らいでいたと思えたのだが」
数拍ほど遅れてはいたが。
微かに揶揄いを含んだ物言いをするセオドレドさんを、エオメルさんが渋い顔をして見やっている。
その視線が泳いで、彼らの様子を見つめていたわたしともぶつかった。
気まずそうなその顔は直ぐにふいっと違う方向を向いたけれど、わたしはエオウィンさんやセオドレドさんと目を合わせて、つい小さく笑ってしまう。
わたしはまだエオメルさんについては何もわからず、そして今のところ、あまり笑う方でもなく見たままの印象しかない。
なのに、今のやり取りを見る限りでは、案外そうでもないらしい。
思ったより、可愛い人なのかもしれない。
わたしは口にこそ出さないけれど、そんなことを思った。
思いながら、改めて彼らを見た。
皆、杯を手に今という時間を楽しんでいて、そのあたたかな空気の中にボロミアさんとわたしはいた。
思えば、たった数日のことでしかなかった。
ゴンドールとは古くから盟約を交わしていると聞いたこの国、初めて訪れたこの場所で、わたし達は僅かな時を過ごしている。
そしてこの最後の夜、今なお、わたしは笑い合いながら、ロヒアリムと呼ばれるらしい彼らと共に在る。
わたしはいつの間にか、ローハンもゴンドールの次に好きになり始めていることに気付いた。
それは嬉しいことであり、同時に、ほんの少しばかり寂しいことでもあった。
明日には、わたしはこれ以上この地を知ることなく、ローハンを離れなければいけないのだから。
「……けほっ」
内心しんみりしていたところで、少し咳が出た。
連続で歌ったせいか、ほんの少し喉が掠れている気がする。
それに気付いたエオウィンさんが、わたしの顔を覗き込んだ。
「少し疲れたのではなくて? 何か、あたたかいものでも」
「はい、あの、少し失礼します。自分で用意してきますね」
「厨房の場所もわからないでしょう? 行きましょう、私も温かい飲み物を頂きたいの」
ありがたいことに姫がそう言ってくれたので、わたしは大人しく彼女についていく事にする。
男性陣に向かって一度、頭を下げる。
次いで、ボロミアさんに言った。
「呑み過ぎないでくださいね、ボロミアさん」
「まだ、これだけしか呑んでいない」
そう言って卓上を示す彼に、周囲からドッと笑いが起こった。
(今のは笑うところなんだ……)
わたしはそんな様子の自分の主に少々不安を覚えたけれど、それ以上何かを言うわけでもない。
ある程度のところで多分、ボロミアさんも切り上げてくれるだろうと希望的観測を立てて、わたしは姫と共に宴の席を立った。
ほとんど間髪を容れず、背後で再びの乾杯の声が上がった気がする。
取り敢えずは、気のせいだと思い込む事にした。
調理場と思しき空間には、想像に反して誰もいない。
瞬間的に出払ってしまったのか、たまたま休憩時間か何かなのか、それ以外の何かなのか。
けれどエオウィンさんはそのまま中に入っていく。そう言えば、彼女も飲み物が欲しいのだと言っていた。
「あの。わたし、何か作ります。何がいいですか?」
「いいえ、私が。はここの勝手が判らないでしょう?」
それを言われてしまうと何も言えない。
わたしは傍にあった小さめの鍋を取って渡すと、姫がポットからミルクを注いだ。
それを横目に、物珍しくて辺りを何とはなしに眺めていると、唐突に
「あなたは不思議ね」、という言葉が呟かれた。
見れば、エオウィン姫は静かに、柔らかに細めた目でわたしに視線を投げ掛けている。
「わたしがですか」
「ええ。とても、不思議」
「どの辺がでしょう」
「分かりません。ただ、気を悪くなさらないでほしいのですけれど。とは、本来なら会うことはなかったように思えるのです」
わたしは沈黙した。
大体、合ってる。そう思った。
彼女が続けていた。
「何故そのように感じるのか、私にも解せません。けれど、あなたは何処か遠い人のような気がしてなりませんわ。……がどんな理由があって、ゴンドールから旅をされているのか、私は訊ねませんけれど。その事情がなければ、私とも会うことはなかったのではないかと」
姫は、わたしの事情を敢えて訊くつもりはないようだった。
なら、わたしも姫に時折落ちるその影の理由を訊くまいと思った。
彼女はふと、一瞬ハッとしたように口を噤みかけ、すぐに頭を振った。
「ごめんなさい。どうして私、突然こんな話を」
「いえ」
わたしは言葉少なに留めた。
実際に、エオウィンさんの言うことは正しいのだ。
「でも」、と彼女は言う。
「昨日と今日、こうしてあなたと過ごせたのは良かったと思っています。時間があったなら、もっとお話をしたかったのですけれど」
「……わたしもそう思っていました」
もっと、時間があれば良かったのに。
言うと、エオウィンさんは小さく微笑んだ。
いつの間にか、その手には温められたミルクの注がれたカップがある。わたしに用意してくれたものだ。
砂糖と蜂蜜を入れてあるというそれをありがたく受け取り、何の疑問もなく口に持っていったところまでは良かった。
次の瞬間、口の中のものをそのまま戻しそうになった。
何とかギリギリのところで堪えたのは、我ながらよく頑張ったものだと思う。
剣の練習より連続二十三曲よりそれより何より、今のがおそらく、今日一番の頑張りである。
わたしの表情が強張ったまま硬直しているのを、それこそ不思議そうに彼女が見ていた。
「……エオウィンさん、これ、砂糖と蜂蜜が入っているんですよね」
「ええ」
「どのくらい入りましたか」
「このくらいかしら」
傍らの瓶を指し示した指の位置を見て、目を疑いそうになった。
つまりこのカップの半分以上は、甘味料で占められているらしい。
どうりで何だかとろみがついているわけだ。とろみというか、寧ろどろりとしている、が正しかったが。
見れば、エオウィンさんは悪戯をしたような素振りもなく、ただただきょとんとしている。
どうも、匙加減というのを知らないらしい。
これはいけない。
所謂、アカンやつである。
どうしたものかと逡巡するが、やっぱりこのままというのもどうかと思う。
少々言い出しにくかったものの、わたしは彼女から剣を教わった御礼も改めて兼ねて、『 適量 』 と 『 味見をする 』 という概念について伝えておくことにした。
最低限この二つさえ守れば、後はどうにでもなるだろう。
さて、わたしは確かに本来、中つ国に存在する筈のない人間である。
彼女と出会うこともなかったのに違いなかった。
けれどこうして出会ったことで、わたしは将来エオウィン姫を娶る誰かの舌と胃袋とお腹を守ったかもしれない。
それが、一体何処の誰かは分からない。
けれどこの時、歴史は少し動いたかもしれない。
わたしはその誰かさんのためにも、未来の姫が(料理的な意味で)腕前を上げていることを祈った。
「わたし、呑み過ぎないでくださいって言ったんですけどね……」
思わずわたしは独りごちた。
広間に戻ると、テーブルではボロミアさんが突っ伏すようにして意識を放棄していた。
一言で言えば、酔いつぶれたらしい。
ほんのひと時だけ席を外して、帰ってきてみればこれだ。
わたしが口を一文字にして閉口していると、程よく酔いが回ったらしいエオメルさんが寧ろ感嘆したように首を振ってみせた。
「いや、ボロミア殿は武勇の誉れに加え酒もお強い。まさかこれ程の量を呑まれるとは」
「はあ」
そう言う彼の表情は、今日見てきた中で一番柔らかなものに見えた。
確かに卓上の空瓶の数は大層なものだったけれど、だからこそ数えたくもなかった。
そしてエオメルさんに乗じて、わたしまでボロミアさんを賞賛するわけにはいかないのである。
明日の朝のボロミアさんは、果たして大丈夫だろうか。
ローハンでの最後の時間という心構えでいるのに、それがよもや二日酔いで出発出来ないなど、正しく目も当てられない。
俗にいうズコーというやつである。
何はともあれ、このまま彼を此処に寝かせたままにしておくわけにもいかない。
わたしは傍らに屈むと、その肩をそっと揺すってみた。
「ボロミアさん。寝るならちゃんと部屋に戻って寝ましょう、風邪ひいちゃいます」
「……む?」
思いのほかすぐに、薄く目蓋が持ち上がった。
そこから覗いた碧の瞳が、一度瞬いてからこちらを捉える。
しばらくそのまま彼は動こうともせず、ぼんやりとわたしを見ていた。酔いと、一瞬ながらも寝起きでぼうっとしているらしい。
「大丈夫ですか? 気持ち悪くないですか、こんなにたくさん呑んで」
「平気だとも」
彼の口元が、笑いを形作ってみせた。
言うが早いか、ボロミアさんはその身を起こすとそのまま立ち上がった。
立ってしまうと、特にふらつく様子もなかった。
それどころか、エオメルさんやセオドレドさんに
「今夜の宴は楽しかった」と御礼を述べる様は、少なくとも表面上は素面に見えた。
確かにお酒に強いというのはそうらしい。限度を考えた方がいいとは思うけれど。
そこは彼も反省しているのか、
「しかし、流石に少し呑み過ぎたかもしれぬ。今宵は先に失礼する」
そう言って席を辞そうとする。
わたしはなんとなくボロミアさんが心配だったので、一応途中までついていくことにした。
そのままわたしも、部屋に戻って眠りたい。
まだ日付が変わる時刻まで間があるものの、明日に備えておくべきだろう。
「お部屋までお供します、ボロミアさん」
「私は大丈夫だ、こそ先に戻って休むとよい」
「どっちみち、部屋、同じ方向じゃないですか……」
わたし達がそんなやり取りをしているのを、セオドレドさん達が楽しげに眺めて笑っていた。
挨拶もそこそこに、広間を出て通路に抜ける。
腕時計に目を落とすと、十一時を回った時分だった。
わたしはちょっと、天井を見上げた。広間の賑やかさから離れると、未だに雨の音が続いているのが気にかかった。
雷は落ち着いたようだけれど、朝には本当に、嵐は過ぎているだろうか。
そんなことを思っているうちに、いつの間にかボロミアさんに宛がわれた部屋に辿り着いている。
わたしはおやすみなさいを言おうとして、けれど彼の身体がほんの一瞬揺らめいたのを見て慌ててその腕を引っ張った。
「ボロミアさん! あとちょっとですからまだ寝ちゃ駄目です!」
「……すまん」
声はしっかりしているものの、やっぱりそれなり、酔っているらしい。
「わたし、お水持ってきますから。ちょっとだけ待っててくださいね?」
「……すまん」
寝台でボロミアさんに落ち着いてもらって、わたしはすぐさま部屋を出た。
さっきエオウィンさんに連れていってもらったばかりの調理場で水をもらい、戻ってくるまで然程かからなかった。
なのに寝台の上では、既に寝息を立てているボロミアさんがいた。服もそのままで身を投げ出している。
わたしはちょっと、溜め息をついた。このままでは本当に風邪、ないしは二日酔いの朝を迎えるに違いない。
毛布を掛ける前に、寝苦しくならないよう襟くらいは緩めた方がいいだろうか。
そんなことを考えながらボロミアさんを見た。
緩やかに伏せられた目蓋が開く様子もなく、静かにその胸が上下している。
「ボロミアさーん……」
試しに小さく呼びかけてみるも、反応はなかった。
やっぱりこのまま寝かせた方がいいんだろうか、と思いながら彼を見下ろしてみる。
寝台に沈み込むように身体を横たえているその人の茶金髪やその顔が、灯した明かりの暖色の光にやわらかく照らされていた。
目蓋が下ろされて、碧の瞳が隠されてしまうと随分印象も違うものだ。
ひどく穏やかさに満ちたその表情に、わたしはもう一度だけ息をついた。今度は溜め息ではなかった。
……ひとまずは、明日の朝のボロミアさんが体調を悪くしていないことを祈ろう。
じきに深い夜を迎える、だからわたしもするべきことだけをして、すぐに部屋に戻って眠ろう。
そう思ってボロミアさんの襟元を緩めてあげようとした時、伸ばした手首を不意に掴まれた。
声も出なかった。
彼の方はと言えば、ほとんど反射のように手が動いたのらしい。
つい今しがたまで瞑っていた目が開き、黙ってこちらを見ているボロミアさんがそこにいた。
何度かゆっくりとした瞬きがあった。
今の状況を見てとろうとしているのか、それでも酔いのせいで頭が上手く回らないのか、そのままただ沈黙したまま、彼はわたしを見ているだけだった。
「あ、あのう、ボロミアさん……」
雨が、屋根や窓を叩き付ける音だけが響いている。
その中での沈黙の時間に耐え切れず、わたしは恐る恐る口にした。
別にわたしは襟を緩めようとしただけで、変なことをしようとしていたわけではない。だから、挙動不審にならなくてもいいのだ。
そう自分に言い聞かせながら、わたしはボロミアさんの様子を窺った。
酔いに加えて、今の彼はちょっと寝惚けているんじゃないかと思う。
わたしが呼びかけても反応は乏しく、何処かとろんとしている。その中で、目の奥の深い碧だけが真っ直ぐにこちらを見据えていた。
そして今なおわたしの手首を掴んでいる彼の手が、お酒のせいかひどく熱かった。
やはり、再び眠りに落ちる前に水くらい飲んでもらった方が良さそうだ。
そう思うのに、何故だかボロミアさんはなかなか手を離そうとしてくれない。
……やっぱり、半分方寝惚けている。
「あの、わたし、お水持ってきましたから、」
仕方ないので、掴まれていない方の手を伸ばして水の器を取ろうとした時、ふっと手首から力が抜けた。
やっと手を離してくれた、と思った時には、その大きな手のひらがこちらに伸ばされていたので思わず声をあげそうになった。
ぎゃあとでも叫んでしまった方がいっそ潔かったのに、何故か堪えてしまった。
熱い熱が頬に残っていた。
どうやらほっぺたを撫でられたのらしい。
そう判るまで何秒か何十秒か、或いは何分かは掛かったのだけれど。
ふと我に返った時には、ボロミアさんはまた再びの眠りに入ってしまっていて、その手も自らの胸の上に落ちている。
一体、どうすれば今みたいな寝惚け方になるのだ。
胸を押さえながら、その顔をつい睨んでしまう。わたしの主は、それでも変わらず穏やかな寝顔をしていた。
……お酒と、ボロミアさんの匂いで頭がクラクラする。
わたしはとにかく彼に毛布を掛けて、すぐさま部屋を出た。
扉を閉めてしまってから襟元を緩めてあげるのを忘れたことに気付いたけれど、今から戻る気にもなれなかった。
早足に自分の部屋に帰り、寝支度も適当に布団の中に潜り込んでも、なかなか寝付くことができない。
仕方なしに灯した小さな明かりの下で日記を開く。
今日書く内容には事欠かないはずなのに、今書きたい文言は一文しか浮かんでこなかった。
わたしはいつもよりやや乱暴に、ほとんど書き殴るようにそれを綴った。
『 ボロミアさんの馬鹿ー!! 』 などと子供じみた罵りを記したのは、後にも先にもこの日の日記だけだった。
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